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私が死んだ日、冷血大公の夫は国を焼き始めました――三年後、花屋になった私を見つけた暴君が絶対に離してくれません  作者: 茗子


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16話 私はあなたから逃げたのです



「……三年前、私が死んだ理由を」


 そう告げた瞬間、クロード様の指が強張った。


 私の手首を掴んだまま、あの方は動かなかった。


 紫色の瞳が、信じられないものを見るように私を見つめている。


 三年前、どれほど願っても向けられなかった眼差し。


 今は、その視線から逃れたくて仕方がなかった。


「……セリア」


 低く、掠れた声が私の名を呼んだ。


「お前は……何を言っている」


 私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 小さな店内には、花の香りが満ちている。


 窓辺の白いマーガレット。


 作業台に並んだ薔薇。


 今朝、市場で選んだばかりのラベンダー。


 どれも、私が選んだ花だ。


 ここは私の店。


 私が自分の足で立ち、働き、暮らしている場所。


 高い城壁も、立派な門もない。


 けれど、私にとっては、大公邸よりもずっと大切な、私だけの城だった。


 だから。


 今度こそ、はっきりと言葉にしなければならない。


「……まず、手を離してください」


 クロード様の眉が、わずかに寄せられた。


「……セリア」


「痛いんです」


 その一言に、あの方は弾かれたように私の手首を見た。


 白い肌に、赤い指の跡が残っている。


 クロード様は、火傷でもしたかのように慌てて手を離した。


「……すまない」


 私は、手首をそっと胸元へ引き寄せた。


 あの方が私に謝るのを、初めて聞いた気がした。


 三年前なら、たったその一言だけで、泣いて喜んだかもしれない。


 けれど今は。


 不思議なほど、何も感じなかった。


     *


 店の入口には、副官らしき若い騎士が立ち尽くしていた。


 顔を青ざめさせ、私とクロード様を交互に見つめている。


 今の会話を聞いて、何かを察したのかもしれない。


「……閣下」


「外へ出ろ」


 クロード様が、感情を押し殺した声で命じた。


「誰も近づけるな」


「……承知いたしました」


 騎士は深く頭を下げ、扉の外へ出ていった。


 チリン。


 小さな鈴の音が響く。


 扉が閉まると、店内には私とクロード様だけが残された。


 私は、閉ざされた扉を見つめた。


 逃げようと思えば、裏口から出られるかもしれない。


 けれど、逃げてどうなるというのだろう。


 三年前とは違う。


 今の私には、守りたい場所がある。


 この店も、この町も。


 エマやルナたちと過ごす、穏やかな毎日も。


 もう誰にも奪われたくなかった。


「……セリア」


 クロード様が、再び私を呼んだ。


「……本当に、生きていたのだな」


 その声には、まだ夢を見ているような響きがあった。


「はい」


「……三年間」


「はい」


「……ずっと、ここにいたのか」


「この町に来たのは、三年前です」


 クロード様は、苦しげに目を閉じた。


 大きな手が、強く握り込まれている。


「……私は」


 絞り出すような声だった。


「私は、お前が死んだと思っていた」


「……そうでしょうね」


 私は、静かにうなずいた。


「そのように、仕向けましたから」


 クロード様の瞳が、大きく見開かれた。


     *


「……何?」


 低い声だった。


 私は、作業台の端を握りしめた。


 指先が震えている。


 けれど、逃げずに言葉を続けた。


「三年前、私は薬を飲みました」


「……薬?」


「三日間だけ、仮死状態になる薬です」


 クロード様は、息をするのも忘れたように私を見つめていた。


「呼吸も、脈も、魔力の反応も、ほとんど消える薬でした。普通に調べただけでは、死んでいるようにしか見えません」


「……それで」


 あの方の声が、かすれた。


「それで、お前は……」


「死んだことにしました」


 私は、はっきりと答えた。


「そして、屋敷を出たのです」


 クロード様の顔から、血の気が引いた。


「……なぜだ」


 小さな声だった。


「なぜ、そんなことを……」


 私は、目を伏せた。


 何度も考えたことだった。


 あのとき、ほかに方法はなかったのか。


 普通に離縁を願い出ればよかったのではないか。


 手紙を残して、屋敷を出ればよかったのではないか。


 けれど。


「……普通に出ていくことは、できませんでした」


「なぜだ」


「私は、大公妃だったからです」


 私は、顔を上げた。


「大公妃が、夫の許可なく屋敷を出ることなど、簡単にはできません。離縁を願い出ても、認められるとは思えませんでした」


「……私に言えばよかっただろう」


 その言葉に。


 私は、思わず笑ってしまった。


 乾いた、小さな笑いだった。


「……言えば、よかった?」


 クロード様が、わずかに身じろぎした。


「クロード様。私が、何度あなたにお話ししようとしたか、覚えていらっしゃいますか?」


 あの方は、答えなかった。


「一緒に食事をしたいとお願いしました」


 沈黙。


「庭園を歩きたいとお願いしました」


 沈黙。


「少しだけ、お時間をいただきたいと、何度もお伝えしました」


 私は、唇を噛んだ。


「けれど、あなたは一度も、私の話を聞いてくださいませんでした」


 クロード様の表情が、苦痛に歪んだ。


「私が何を望んでいるのか、尋ねたことはありましたか?」


 答えはない。


「私が何を好きなのか、ご存じでしたか?」


 沈黙。


「私が、あの冷たい屋敷でどんな毎日を過ごしていたのか……」


 声が、少しだけ震えた。


「……知ろうと、してくださいましたか?」


 クロード様は、何も言えなかった。


     *


 三年前。


 私は、毎朝早く起きていた。


 夫が朝食を取るかもしれないと思って。


 毎晩、遅くまで起きていた。


 夫が帰ってくるかもしれないと思って。


 けれど、あの方が食卓に現れることは、ほとんどなかった。


 帰宅の知らせが届いても、顔を合わせることはなかった。


 私が挨拶に行こうとすれば、いつも執事に止められた。


『閣下はお忙しいので』


 そう言われれば、引き下がるしかなかった。


 それでも、私は待っていた。


 いつか。


 いつか、本当の夫婦になれる日が来ると信じて。


「……私、最初は幸せになれると思っていたんです」


 私は、静かに言った。


「結婚したばかりの頃は、あなたが冷たくても仕方がないと思っていました。お仕事がお忙しいのだと。私がもっと努力すれば、いつか振り向いていただけるのだと」


 胸の奥に、古い痛みが蘇る。


「でも、一年経っても、二年経っても、何も変わりませんでした」


 私は、小さく息を吐いた。


「三年目には……もう、何も期待しなくなりました」


 クロード様の唇が、かすかに動いた。


「……そんなつもりでは」


「ええ。そうでしょうね」


 私は、うなずいた。


「あなたは、私を憎んでいたわけではありません。嫌っていたわけでも、ないのでしょう」


 クロード様は、何も言わなかった。


「……ただ、私がいなくても困らなかった」


 その瞬間。


 あの方の顔が、ひどく歪んだ。


「違う!」


 突然の怒声に、私は肩を震わせた。


 クロード様は、はっとしたように口を閉じた。


 そして、苦しげに言った。


「……違う。私は……」


 言葉が続かない。


 私は、ゆっくりと首を振った。


「……もう、いいんです」


 それが、本心だった。


「今さら、理由を聞きたいわけではありません」


     *


 クロードは、目の前の妻を見つめていた。


 生きている。


 三年間、氷晶石の棺の中に眠っていると思っていた妻が、今、目の前で息をしている。


 それなのに。


 彼女は、死を偽装してまで自分から逃げたのだという。


 その事実が、胸の奥を抉った。


「……私は」


 クロードは、かすれた声で言った。


「お前が死んでから、ずっと……」


 言葉が詰まる。


 何を言えばいいのかわからなかった。


 三年間、何度も後悔した。


 妻が残した七通の手紙を読み返し、彼女が望んだことをひとつずつ思い返した。


 花を愛していたこと。


 庭園を一緒に歩きたがっていたこと。


 ただ、同じ食卓で食事をしたがっていたこと。


 それなのに自分は、彼女の小さな願いすら聞き入れなかった。


 妻の死後、彼女を苦しめた者たちを罰した。


 冷酷な命令を重ね、帝国中から暴君と恐れられるようになった。


 だが、そのどれひとつとして、セリアが望んだことではなかった。


 彼女が欲しかったのは、死んでからの贖罪ではない。


 生きている間に向けられるはずだった、ほんの少しの関心だったのだ。


「……セリア」


 クロードは、震える声で言った。


「私は、お前を……」


 愛していた。


 そう言おうとした。


 けれど、その言葉が喉に詰まった。


 三年間、何もしてこなかった男が。


 今さら、愛していたなどと。


 どうして言える。


 クロードは、拳を握りしめた。


     *


「……クロード様」


 私が呼びかけると、あの方が顔を上げた。


「私、あなたにお願いがあります」


 クロード様の瞳に、すがりつくような希望が浮かんだ。


「……何だ」


「どうか、私をこのままにしてください」


 その希望が、消えた。


「……何?」


「私は、ここで暮らしたいんです」


 私は、店内を見回した。


 小さな作業台。


 手書きの看板。


 窓辺の鉢植え。


 自分で選んだ花たち。


「この店は、私が働いて、貯めたお金を元手に開きました。足りない分は借りて、少しずつ返しているところです」


 クロード様は、黙っていた。


「最初は、何もできませんでした。宿で働き始めた頃なんて、お皿を割って、パンを焦がして、失敗ばかりで……」


 思わず、小さな笑みが零れた。


「でも、少しずつ覚えたんです」


 私は、作業台の花束にそっと触れた。


「花の育て方も。お客様との話し方も。お金の管理も」


 そして、顔を上げた。


「今は、毎日が楽しいんです」


 クロード様の瞳が揺れた。


「朝起きて、花に水をあげて、焼きたてのパンを食べて……」


 声が、少し震えた。


「それだけで、幸せなんです」


 私は、胸に手を当てた。


「……だから、お願いです」


 ゆっくりと、頭を下げる。


「私を、ここに置いてください」


 長い、長い沈黙だった。


 やがて。


 クロード様が、低く呟いた。


「……帰るつもりは、ないのか」


 私は、顔を上げた。


「……はい」


「大公邸へも?」


「はい」


「……私のところへも?」


 その問いに。


 私は、はっきりと答えた。


「……戻りません」


     *


 クロードの視界が、暗くなった。


 戻らない。


 妻は、そう言った。


 生きていた。


 それだけで、奇跡だった。


 三年間、何度も願った。


 もう一度、会いたい。


 もう一度、声を聞きたい。


 もう一度、名前を呼びたい。


 その願いが、今、叶った。


 それなのに。


 彼女は、帰らないという。


「……セリア」


 声が震えた。


「私は、お前を失った」


 彼女は、黙っていた。


「三年間、ずっと……」


 言葉が詰まる。


「……もう一度、失えというのか」


 セリアは、静かに首を振った。


 そして、クロードをまっすぐに見つめた。


「……私は、あなたに失われたのではありません」


 クロードは、目を見開いた。


「……私が、自分で選んだんです」


 彼女の声は、震えていなかった。


「あなたの妻でいることを、やめると」


 胸の奥が、凍りついた。


 セリアは、静かに続けた。


「……私は、あなたから逃げたのです」


 その言葉が、店内に落ちた。


「あなたに見つけてほしかったわけではありません」


 彼女は、目を逸らさなかった。


「迎えに来てほしかったわけでもありません」


 そして。


「……ただ、自由になりたかったんです」


     *


 自由。


 その言葉が、クロードの胸の奥に深く突き刺さった。


 妻は、自分のそばにいることを、囚われていると感じていたのか。


 自分の妻であることが、死を偽装してまで逃げなければならないほどに、苦しかったのか。


 三年間。


 彼は、妻を失った悲しみで世界を憎んできた。


 彼女を苦しめた者たちを罰し、帝国中を恐怖に陥れた。


 けれど。


 妻が本当に逃げたかった相手は。


 ほかでもない、自分だった。


「……私が」


 かすれた声が漏れた。


「……お前を、そこまで……」


 言葉が続かない。


 クロードは、ゆっくりと顔を上げた。


 セリアは、泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、静かに自分を見つめていた。


 その瞳には、もう期待がなかった。


 責められるほうが、まだよかった。


 泣いてくれるなら、謝ることもできた。


 怒ってくれるなら、償う方法を探せた。


 けれど、彼女はもう、何も求めていない。


 それが、何よりも残酷だった。


     *


「……少し、考えさせてくれ」


 クロード様が、ようやく口を開いた。


 私は、静かにうなずいた。


「……はい」


 あの方は、ゆっくりと踵を返した。


 黒い外套が、店の扉へ向かう。


 私は、その背中を見つめた。


 三年前。


 何度も見送った背中だった。


 けれど、今は違う。


 私は、もう待たない。


 あの方が戻ってくるのを。


 私を見てくれるのを。


 私を愛してくれるのを。


 何も、待たない。


 クロード様が、扉の前で足を止めた。


「……セリア」


 振り返らずに、私の名前を呼んだ。


「……はい」


「……お前は、本当に幸せなのか」


 私は、少しだけ驚いた。


 そして、微笑んだ。


「……はい」


 迷いはなかった。


「とても、幸せです」


 クロード様の肩が、わずかに震えた。


 それから、扉が開いた。


 チリン。


 小さな鈴が鳴る。


 黒い外套が、外へ消えた。


 私は、しばらくその場に立っていた。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


 終わった。


 ようやく、言えた。


 三年間、胸の奥にしまっていた言葉を。


 私は、作業台の上の白い花を見つめた。


「……大丈夫」


 小さく呟いた。


「私は、ここにいる」


 もう一度、自分に言い聞かせる。


 ここが、私の帰る場所なのだから。


     *


 店の外。


 クロードは、馬車の前で立ち尽くしていた。


 副官が、おそるおそる声をかける。


「……閣下?」


 クロードは、答えなかった。


 ただ、花屋の扉を見つめていた。


 妻は、生きていた。


 三年間。


 自分の知らない場所で。


 自分の知らない名前で。


 自分の知らない人生を生きていた。


 そして。


 自分のいない世界で、幸せだと言った。


 クロードは、ゆっくりと拳を握った。


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 失いたくない。


 もう二度と。


 あの温もりを。


 あの声を。


 あの瞳を。


 失いたくない。


 けれど、妻は帰らないという。


 ならば。


 どうすればいい。


 クロードは、目を閉じた。


 三年間、氷の棺に眠る妻へ、何度も語りかけた。


 どれほど謝っても、返事はなかった。


 どれほど願っても、彼女は目を開けなかった。


 その妻が、今は生きている。


 声が届く場所にいる。


 手を伸ばせば、触れられる場所にいる。


 なのに、彼女は自分から離れようとしている。


 クロードは、低く呟いた。


「……セリア」


 その声には、深い絶望が滲んでいた。


 彼は、理解していた。


 妻がなぜ、自分から逃げたのかを。


 彼女が、何を望んでいるのかを。


 それでも。


 その願いを叶えることだけは、どうしてもできなかった。


 クロードは、ゆっくりと顔を上げた。


 紫色の瞳に、凍てつくような光が宿る。


「……もう、二度と失わない」


 誰にも聞こえないほど、小さな声だった。


 妻の願いを聞かなかったことを、三年間、後悔し続けてきた。


 それなのに今。


 彼は再び、妻の願いを踏みにじろうとしていた。


 セリアがようやく手に入れた自由は。


 最も逃げたかった男の執着によって、再び脅かされようとしていた。



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