第6話 ペンを持つ手が震えるとき
ペンを持つ手が震える瞬間は、人生で何度あるだろう。
停職処分通知を握りしめたわたしの手は、まさにそうだった。
「宮廷事務官イルメラ・ヴェスト。職務怠慢および上司への不服従により、本日付で停職処分とする。処分期間中の出仕を禁じ、宮廷への立ち入りを制限する」
「イルメラ、これ……嘘でしょう?」
ハンナが横から通知書を覗き込み、声を震わせた。
「職務怠慢って、あなたが? この宮廷で一番働いてた人が?」
「そう書いてあるわ」
「おかしいわよ! 異議申し立てしましょう!」
「落ち着いて、ハンナ」
レンツ局長の反撃が、形になった。
しかも、通知の発行者は人事部長。局長が単独で出せる範囲を超えている。
停職処分の名目は「職務怠慢」と「上司への不服従」。
定時退勤は服務規程に違反しないが、上司の業務指示を断ったことが「不服従」と解釈されている。
法的にはグレーだ。
だからこそ、反論の余地がある。
「ハンナ。わたしの私物をまとめておいてくれる?」
「イルメラ、まさか本当に出ていくの?」
「処分が出た以上、ここにいるわけにはいかない。ただ——」
声を落とす。
「ノルベルト・ゲーアハルト監査官に、このことを伝えてもらえる?」
「わかった。すぐ伝える」
「それと、もうひとつ。レンツ局長の動きを、さりげなく見ていてほしい」
「……わかった。任せて」
ハンナの目が真剣になった。
この子は信頼できる。それだけが救いだ。
私物を小さな箱にまとめて、事務局を出た。
十年間過ごした場所を去るのに、荷物はこれだけか。笑えるくらい少ない。
宮廷の門を出ようとしたとき、背後から足音が聞こえた。
「イルメラさん」
ノルベルトだった。
息が少し上がっていた。走ってきたのだろう。
「処分通知のことは聞きました。これは不当処分です」
「ええ、わかっています」
「異議申し立ての手続きを——」
「ノルベルトさん」
わたしは穏やかに遮った。
「異議申し立てには時間がかかります。その間にレンツ局長が証拠を隠滅する猶予を与えてしまう」
「では、どうするつもりですか」
「わたしが宮廷から離れることで、局長は安心するはずです」
ノルベルトの目が細くなった。
わたしの意図を、正確に読み取っている。
「……囮になるつもりですか」
「囮というほど大層なものではありません。大人しく引き下がったと思わせるだけです」
「しかし——」
「その間に、あなたが副本の分析を進めてください。わたしは宮廷の外から、できることを探します」
「あなたの生活は大丈夫ですか」
「十年間の貯蓄はあります。しばらくは問題ありません」
本当は、不安がないわけではない。
平民出身で、身寄りもなく、婚約者もいなくなった。宮廷を追い出されれば、後ろ盾は何もない。
でも、今は引くべき時だ。
「イルメラさん」
ノルベルトが、一歩近づいた。
藍色の外套の裾が、かすかに風に揺れる。
「週に一度、街の中央市場で会いましょう。調査の進捗をお伝えします」
「……監査官がそんなことをして、問題にならないんですか」
「市場で偶然知人に会う。それだけのことです」
生真面目な顔で、とんでもないことを言う人だ。
思わず笑ってしまった。停職処分を受けたばかりだというのに。
「それでは、毎週水曜日の昼に、中央市場の泉のそばで」
「承知しました」
門を出る。
振り返ると、ノルベルトがまだ立っていた。
その表情は相変わらず読めないが、拳が白くなるほど握りしめられているのが見えた。
怒っているのだ。わたしの代わりに。
それが、不思議なほど心強かった。
門を出て、街路を歩く。
平日の昼間に街を歩くのは不思議な感覚だ。
行き交う人々はそれぞれの生活を送っている。
パン屋の店先で焼きたてのパンが並び、子供たちが路地を駆け回り、仕立て屋の窓には色とりどりの布地が飾られている。
十年間、わたしはこの景色の外にいた。
通りがかりの花屋で、小さな花束が目に入った。
白い花だ。ゲオルク爺さんの葬儀に手向けたものと同じ種類。
「すみません。この花をひとつください」
「はい、どうぞ。五枚銅貨になります」
花束を受け取って、宿舎に持ち帰った。
窓辺に置くと、部屋が少しだけ明るくなった気がする。
こんな小さなことでいいのだ。
自分のために何かを選ぶ。自分のために時間を使う。
それが、わたしには十年間できなかったこと。
夕食は宿舎の近くの小さな食堂で取った。
ひとりで外食するのも、これが初めてに近い。
メニューを眺めて、好きなものを選ぶ。
それだけのことが、こんなにも贅沢だとは知らなかった。
温かいスープを一口飲んで、ふと思う。
ノルベルトは今頃、どうしているだろうか。
あの人は定時主義だと言っていた。もう帰っているはずだ。
ひとりで夕食を取っているのだろうか。
「局内でも変わり者」と自嘲していた人だ。
——余計な心配だ。
今のわたしには、自分の身を守ることで精いっぱいのはず。
なのに、拳を白くなるほど握りしめていた、あの人の姿が頭から離れない。
食堂を出て、宿舎に戻る。
◇
停職一日目。
宿舎は追い出されなかった。規定では、停職中も宿舎の使用は認められている。
何もしない午前というものを、十年ぶりに迎えた。
窓の外では、鳥が鳴いている。
市場から、威勢のいい声が風に乗って届く。
時間がある。
こんなにも時間があるのに、何をしていいかわからない。
洗濯をして、部屋を掃除して、それでもまだ昼前だ。
十年間、時間に追われ続けたわたしは、時間の使い方を忘れていた。
夕方になって、ようやく動き始める。
ゲオルク爺さんから借りたまま返せなかった本がある。
宮廷文書の管理技法について書かれた古い実務書だ。新人の頃、「これを読んどきなさい」と手渡してくれたものだった。
もう返す相手はいない。
でも大切にしなければ。
本棚から取り出した古い本の間から、一枚の紙が落ちた。
ゲオルク爺さんの筆跡だ。
「イルメラへ。もし、わたしに何かあったとき——この宮廷で、あなただけは信じられる。保管室の棚の裏に、もうひとつ鍵がある。それが何を開けるかは、あなたならわかるはずだ。老いぼれの遺言と思ってくれ。——ゲオルク」
紙を持つ手が、震えた。
今度は恐怖からではなく、別の感情からだった。
「ゲオルク爺さん……あなた、知ってたのね。何もかも」
窓の外は、もうすっかり暗い。
しかし、やるべきことが見えた。
もうひとつの鍵。
ゲオルク爺さんが、わたしに託そうとしていたもの。
——停職処分で宮廷に入れないなら、入れる人に頼むまでだ。




