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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第6話 ペンを持つ手が震えるとき

ペンを持つ手が震える瞬間は、人生で何度あるだろう。


停職処分通知を握りしめたわたしの手は、まさにそうだった。


「宮廷事務官イルメラ・ヴェスト。職務怠慢および上司への不服従により、本日付で停職処分とする。処分期間中の出仕を禁じ、宮廷への立ち入りを制限する」


「イルメラ、これ……嘘でしょう?」


ハンナが横から通知書を覗き込み、声を震わせた。


「職務怠慢って、あなたが? この宮廷で一番働いてた人が?」


「そう書いてあるわ」


「おかしいわよ! 異議申し立てしましょう!」


「落ち着いて、ハンナ」


レンツ局長の反撃が、形になった。


しかも、通知の発行者は人事部長。局長が単独で出せる範囲を超えている。


停職処分の名目は「職務怠慢」と「上司への不服従」。


定時退勤は服務規程に違反しないが、上司の業務指示を断ったことが「不服従」と解釈されている。


法的にはグレーだ。


だからこそ、反論の余地がある。


「ハンナ。わたしの私物をまとめておいてくれる?」


「イルメラ、まさか本当に出ていくの?」


「処分が出た以上、ここにいるわけにはいかない。ただ——」


声を落とす。


「ノルベルト・ゲーアハルト監査官に、このことを伝えてもらえる?」


「わかった。すぐ伝える」


「それと、もうひとつ。レンツ局長の動きを、さりげなく見ていてほしい」


「……わかった。任せて」


ハンナの目が真剣になった。


この子は信頼できる。それだけが救いだ。


私物を小さな箱にまとめて、事務局を出た。


十年間過ごした場所を去るのに、荷物はこれだけか。笑えるくらい少ない。


宮廷の門を出ようとしたとき、背後から足音が聞こえた。


「イルメラさん」


ノルベルトだった。


息が少し上がっていた。走ってきたのだろう。


「処分通知のことは聞きました。これは不当処分です」


「ええ、わかっています」


「異議申し立ての手続きを——」


「ノルベルトさん」


わたしは穏やかに遮った。


「異議申し立てには時間がかかります。その間にレンツ局長が証拠を隠滅する猶予を与えてしまう」


「では、どうするつもりですか」


「わたしが宮廷から離れることで、局長は安心するはずです」


ノルベルトの目が細くなった。


わたしの意図を、正確に読み取っている。


「……囮になるつもりですか」


「囮というほど大層なものではありません。大人しく引き下がったと思わせるだけです」


「しかし——」


「その間に、あなたが副本の分析を進めてください。わたしは宮廷の外から、できることを探します」


「あなたの生活は大丈夫ですか」


「十年間の貯蓄はあります。しばらくは問題ありません」


本当は、不安がないわけではない。


平民出身で、身寄りもなく、婚約者もいなくなった。宮廷を追い出されれば、後ろ盾は何もない。


でも、今は引くべき時だ。


「イルメラさん」


ノルベルトが、一歩近づいた。


藍色の外套の裾が、かすかに風に揺れる。


「週に一度、街の中央市場で会いましょう。調査の進捗をお伝えします」


「……監査官がそんなことをして、問題にならないんですか」


「市場で偶然知人に会う。それだけのことです」


生真面目な顔で、とんでもないことを言う人だ。


思わず笑ってしまった。停職処分を受けたばかりだというのに。


「それでは、毎週水曜日の昼に、中央市場の泉のそばで」


「承知しました」


門を出る。


振り返ると、ノルベルトがまだ立っていた。


その表情は相変わらず読めないが、拳が白くなるほど握りしめられているのが見えた。


怒っているのだ。わたしの代わりに。


それが、不思議なほど心強かった。


門を出て、街路を歩く。


平日の昼間に街を歩くのは不思議な感覚だ。


行き交う人々はそれぞれの生活を送っている。


パン屋の店先で焼きたてのパンが並び、子供たちが路地を駆け回り、仕立て屋の窓には色とりどりの布地が飾られている。


十年間、わたしはこの景色の外にいた。


通りがかりの花屋で、小さな花束が目に入った。


白い花だ。ゲオルク爺さんの葬儀に手向けたものと同じ種類。


「すみません。この花をひとつください」


「はい、どうぞ。五枚銅貨になります」


花束を受け取って、宿舎に持ち帰った。


窓辺に置くと、部屋が少しだけ明るくなった気がする。


こんな小さなことでいいのだ。


自分のために何かを選ぶ。自分のために時間を使う。


それが、わたしには十年間できなかったこと。


夕食は宿舎の近くの小さな食堂で取った。


ひとりで外食するのも、これが初めてに近い。


メニューを眺めて、好きなものを選ぶ。


それだけのことが、こんなにも贅沢だとは知らなかった。


温かいスープを一口飲んで、ふと思う。


ノルベルトは今頃、どうしているだろうか。


あの人は定時主義だと言っていた。もう帰っているはずだ。


ひとりで夕食を取っているのだろうか。


「局内でも変わり者」と自嘲していた人だ。


——余計な心配だ。


今のわたしには、自分の身を守ることで精いっぱいのはず。


なのに、拳を白くなるほど握りしめていた、あの人の姿が頭から離れない。


食堂を出て、宿舎に戻る。





停職一日目。


宿舎は追い出されなかった。規定では、停職中も宿舎の使用は認められている。


何もしない午前というものを、十年ぶりに迎えた。


窓の外では、鳥が鳴いている。


市場から、威勢のいい声が風に乗って届く。


時間がある。


こんなにも時間があるのに、何をしていいかわからない。


洗濯をして、部屋を掃除して、それでもまだ昼前だ。


十年間、時間に追われ続けたわたしは、時間の使い方を忘れていた。


夕方になって、ようやく動き始める。


ゲオルク爺さんから借りたまま返せなかった本がある。


宮廷文書の管理技法について書かれた古い実務書だ。新人の頃、「これを読んどきなさい」と手渡してくれたものだった。


もう返す相手はいない。


でも大切にしなければ。


本棚から取り出した古い本の間から、一枚の紙が落ちた。


ゲオルク爺さんの筆跡だ。


「イルメラへ。もし、わたしに何かあったとき——この宮廷で、あなただけは信じられる。保管室の棚の裏に、もうひとつ鍵がある。それが何を開けるかは、あなたならわかるはずだ。老いぼれの遺言と思ってくれ。——ゲオルク」


紙を持つ手が、震えた。


今度は恐怖からではなく、別の感情からだった。


「ゲオルク爺さん……あなた、知ってたのね。何もかも」


窓の外は、もうすっかり暗い。


しかし、やるべきことが見えた。


もうひとつの鍵。


ゲオルク爺さんが、わたしに託そうとしていたもの。


——停職処分で宮廷に入れないなら、入れる人に頼むまでだ。


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