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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第1章

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第5話 わたしの仕事が消えた日

わたしの机から、十年分の仕事が消えた。


正確には、わたしの業務記録がすべて事務局の保管棚から抹消されていた。


出仕して真っ先に異変に気づいたのは、棚のわたしの名札が外されていたからだ。


「ハンナ、わたしの業務記録を知らない?」


「え? 昨日まであったわよね……」


「名札ごと外されてる」


ハンナと二人で棚を確認するが、わたしの名前が記された記録簿は一冊も残っていなかった。


十年分の出勤簿、業務日誌、処理した文書の控え。すべてが消えている。


「嘘でしょ……十年分よ? これだけの量、一晩で持ち出せるの?」


「ひとりでは無理ね。手伝った人間がいる」


背筋が冷たくなった。


昨日、ノルベルトに減俸処分の話をした直後にこれだ。


レンツ局長は、わたしが監査局に協力していることを察知している。


レンツ局長の席を見ると、空だった。


今朝はまだ出仕していない。いや、すでに出仕して用が済んだから離れたのかもしれない。


「ハンナ。局長は何時に来たか、わかる?」


「早かったわよ。わたしが来たときにはもう局長室にいた。でも八時過ぎには出ていったわ」


「どこへ?」


「さあ……上の方に呼ばれた、とだけ」


上の方。


漠然とした言い方が、かえって不気味だ。


すぐに監査局に向かった。


ノルベルトは、わたしの報告を聞いても表情を変えなかった。


「想定の範囲内です」


「想定? 十年分の記録が消されたんですよ」


「だから、あなたに記憶での再現をお願いしていたんです」


そうか。


この人は最初から、記録が消される可能性を考慮していた。だから「記憶で再現できる」というわたしの言葉に、あれほど反応したのだ。


悔しさと、妙な感心が入り混じる。


「ノルベルトさん。正直に聞きます」


「何でしょう」


「わたしのことを、最初から駒として見ていたんですか」


ノルベルトがペンを止めた。


「……駒とは思っていません」


「でも、利用価値があると判断したから接触した」


「事実として、そうです」


「最初から正直に言ってくれれば——」


「正直に言えば、あなたは協力してくれましたか。婚約破棄された直後に、見ず知らずの監査官から『上司の不正を暴く手伝いをしてほしい』と言われて」


言葉に詰まった。


確かに、あの状態のわたしなら、怯えて断っていただろう。


「……それもそうですね」


「あなたが自分の意思で動き始めるのを待っていました。定時退勤を始めた瞬間、あなたは自分の足で立とうとした。だから、声をかけた」


ノルベルトの目が、まっすぐにわたしを見ている。


「利用ではなく、共闘の申し出です」


「……信じます。でも、次からは先に教えてください」


「承知しました。以後、情報は共有します」


「約束ですよ」


「約束です」


ノルベルトが小さく頷いた。


その仕草が、妙に真剣で、少しだけ可笑しかった。


保管室を出る前に、もう一度、書架を見回した。


西の棚の抜き取られた場所が、不自然に空いている。


レンツ局長——あるいはその指示を受けた人間は、急いでいたのだろう。他の棚には手をつけていない。


「ノルベルトさん。原本が抜き取られた棚ですが、ゲオルク爺さんの分類法では、ここは年度末の決裁文書専用の棚です」


「つまり、犯人はゲオルク氏の分類法を知っていた?」


「いいえ、逆です。分類法を知らないから、年度末の決裁文書だけを狙い撃ちできた。棚のラベルを見て、それらしいものを片っ端から持っていったんです」


「ということは——」


「他の場所に紛れ込ませてあった関連文書には、気づいていない可能性があります」


ノルベルトが棚を見上げた。


「他にも探すべき場所がある、と」


「ゲオルク爺さんは、重要な文書ほど目立たない場所に保管する癖がありました。新人の頃、よく叱られましたよ。『大事なものは奥に隠せ、お嬢ちゃん。棚の表に置くのは泥棒への手土産だ』って」


「見事な知恵だ」


「ええ。だから、副本も見つかった」


わたしたちの間に、小さな共犯関係のようなものが芽生えつつある。


それが心地よいのは、きっと、同じ方向を見ているからだ。


「……でも、わたしの記憶だけでは公式な証拠にはなりません」


「そのとおりです。記憶は証言にはなりますが、物的証拠がなければ覆されます」


「じゃあ、どうするんですか」


「証拠は一つではありません」


ノルベルトが机の引き出しから、古びた鍵束を取り出した。


「文書保管室の鍵を、ゲオルク氏のご遺族から預かっています」


「遺族? ゲオルク爺さんにはご家族がいたんですか」


「遠縁の姪御さんがひとり。遺品整理の際にこの鍵を見つけ、監査局に届けてくれました」


ゲオルク爺さん。亡くなってからも、道を作ってくれるのか。


「保管室には、事務局から移管された文書の原本があるはずです。原本と公式記録を照合すれば、改竄の証拠が得られます」


「でもレンツ局長が保管室にも手を回していたら——」


「その可能性はあります。だからこそ、急がなければなりません」


ノルベルトの目が、いつもより鋭い。


「今日の昼休み、一緒に保管室を確認しましょう」


「わかりました」


昼休み。


二人で文書保管室に向かった。


王宮の地下、薄暗い廊下の突き当たり。


重い鉄の扉の前で、ノルベルトが鍵を差し込む。


扉が開くと、かび臭い空気とともに、膨大な書架が現れた。


天井まで届く棚に、整然と並んだ文書の束。ゲオルク爺さんの手で、一冊一冊、丁寧に分類されている。


「すごい……」


「三十年間の仕事です。見事な分類体系だ」


ノルベルトが棚のラベルを確認していく。


「事務局の予算関連文書はどこに分類されているか、ご存知ですか」


「ゲオルク爺さんの分類法なら、わかります。西の棚の三段目、年度別に——」


言いかけて、足が止まった。


西の棚の三段目。


そこだけ、文書が乱雑に抜き取られた形跡があった。


「……誰かが先に来ている」


「いつの間に」


ノルベルトの目が鋭くなった。


「抜き取られた文書の範囲を特定できますか」


棚を丁寧に確認する。


ゲオルク爺さんの分類法を知っているからこそ、欠落箇所がわかる。


「過去五年分の予算決裁文書です。特別業務手当の新設に関わる部分が、ごっそり抜かれています」


「レンツ局長か、その指示を受けた者の仕業ですね」


「でも——全部ではないわ」


「どういうことですか」


わたしは東の棚に向かった。


「ゲオルク爺さんには、副本を作る癖がありました。重要な文書には必ず写しを取って、別の棚に保管していたんです」


「それは——」


「東の棚です。確認させてください」


東の棚の奥を探る。


あった。ゲオルク爺さんの丁寧な筆跡で「副」と記された束。


「五年分の副本です。予算決裁文書の写しも含まれています」


ノルベルトが副本を手に取り、中身を確認する。


その手が、一瞬止まった。


「イルメラさん。これを見てください」


差し出された文書に目を通す。


特別業務手当の予算申請書。


申請者はレンツ局長。承認者は——


「……宮廷財務長官」


「ええ。レンツ局長の単独犯ではない。宮廷財務長官が承認している以上、上層部が関与しています」


予想していたよりも、根が深い。


わたしの残業代を削って手当に回していたのは、局長だけではなかった。


宮廷の財務を統括する長官が、それを認めていたのだ。


「怖いですか」


ノルベルトが穏やかな声で聞いた。


試すような響きはない。純粋に、わたしの気持ちを確認している。


「怖いです」


「ここで止めることもできます」


「でも、やめません」


「なぜ」


「ゲオルク爺さんが、この副本を残してくれた意味を考えたら——やめるわけにはいかないでしょう」


あの人は知っていたのだ。


この宮廷の闇を。そして、いつか誰かがこの文書を必要とする日が来ることを。


ノルベルトが副本を丁寧に鞄に収めた。


「保管室の鍵は、今後わたしが管理します。他の誰にも渡しません」


「お願いします」


保管室を出て、鉄の扉に鍵をかける。


薄暗い廊下で、ノルベルトの横顔を見上げた。


「ノルベルトさん」


「はい」


「ありがとうございます。わたしひとりだったら、ここまで来られなかった」


「……わたしこそ。あなたがいなければ、この保管室の分類体系を読み解けなかった」


廊下の薄い灯りの中で、二人の影が並んでいる。


ゲオルク爺さんが生きていたら、この光景を見て何と言っただろう。


「お嬢ちゃん、いい相棒を見つけたじゃないか」——そんな声が聞こえた気がした。


——だが翌日、わたしの元に届いたのは、監査局からの呼び出しではなく、宮廷人事部からの「停職処分通知」だった。


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