第7話 味方はどこにもいないと思っていた
味方はどこにもいない。そう思って生きてきた十年間は、思い込みだったのかもしれない。
停職二日目の昼、わたしは宿舎の前で予想外の来客を迎えた。
「お久しぶりです、イルメラさん」
そこに立っていたのは、宮廷薬務室のアーデルハイト・コッホだった。
白衣の上に薄い外套を羽織り、小さな紙袋を抱えている。
「アーデルハイトさん……? どうしてここに」
「停職処分のこと、ハンナさんから聞いたの。お見舞いと言うと大げさだけど——これ、薬務室で調合した薬草茶。疲れているときに効くわ」
紙袋の中から、乾燥した薬草の束が顔を出している。
甘い香りが鼻をくすぐった。
「ありがとうございます。でも、わたしのところに来て大丈夫なんですか?」
「薬務室は事務局の管轄外よ。レンツ局長に何を言われても関係ないわ」
きっぱりとした口調だ。
この人は昔からこうだった。宮廷の薬務官として十五年、わたしよりも長くこの宮廷で働いている。
「それに——わたしも、この宮廷のやり方には思うところがあるの」
「思うところ?」
「薬務室の予算も、ここ数年で不自然に削られていてね。患者に必要な薬が足りない状況が続いてるの」
「それは深刻ですね。いつ頃からですか」
「五年ほど前から。財務長官が替わってから、顕著になったわ」
五年前。
特別業務手当が新設された時期と一致する。
「アーデルハイトさん。その予算削減に関する書類は、お手元にありますか」
「薬務室の申請書と、却下通知の控えならあるわ。なぜ?」
「もしよければ——その控えを見せていただけませんか」
「……何かわかったの?」
「まだ確証はありません。でも、薬務室の予算削減と、事務局の不正が繋がっている可能性がある」
アーデルハイトの目が真剣になった。
「わかった。明日、持ってくるわ」
「ありがとうございます」
「イルメラさん。無理はしないでね。あなたは十年間、無理をしすぎた」
「……はい」
アーデルハイトが帰ったあと、薬草茶を淹れた。
温かい湯気を吸い込むと、身体の緊張がほどけていく。
味方がいる。
ゲオルク爺さん、ノルベルト、ハンナ、アーデルハイト。気づかなかっただけで、わたしの周りには味方がいた。
午後、宿舎を出て街を歩いた。
中央市場は活気に満ちている。
果物を売る声、焼きたてのパンの匂い、子供たちの笑い声。
十年間、知らなかった世界がここにあった。
市場の泉のそばのベンチに座って、行き交う人々を眺める。
水曜日にはここでノルベルトと会う。今日は月曜日だから、まだ二日先だ。
市場の片隅で、古本を売っている屋台を見つけた。
色褪せた表紙の実用書や物語が、木箱にぎっしり詰まっている。
何気なく手に取った一冊は、行政法の解説書だった。
「お嬢さん、そいつは渋い選択だね」
屋台の主人が笑った。白髪交じりの、気の良さそうな老人だ。
「行政法に興味があるの?」
「仕事で使っていたんです。以前は」
「以前は?」
「今は……ちょっと休職中で」
「ほう。じゃあ暇つぶしにちょうどいい。それ、一枚銅貨でいいよ」
ありがたく購入して、ベンチに戻って読み始めた。
すると、読んでいるうちに気づいたことがある。
服務規程の解説章に、停職処分の要件と異議申し立ての手続きが詳しく書かれていた。
「停職処分は、対象者の弁明の機会が保障されていない場合、無効となる」
弁明の機会。
わたしは停職処分を受ける前に、弁明の機会を与えられただろうか。
与えられていない。
通知書を受け取っただけだ。事前の聴聞も、弁明書の提出機会もなかった。
つまり、この停職処分は手続き上の瑕疵がある。
無効を主張できる根拠がある。
今すぐ使う必要はない。
しかし、いざというときの切り札として、覚えておこう。
古本屋の一枚銅貨が、思わぬ武器になるかもしれない。
ベンチで本を読んでいると、泉の向こう側に見覚えのある姿が見えた。
グレーテ・アンブロス嬢だ。
侍女を一人連れて、市場を歩いている。
向こうもわたしに気づいたようだ。
一瞬、足を止めて、それからゆっくりと近づいてきた。
「イルメラさん」
「グレーテ嬢。こんにちは」
「あなたが停職処分を受けたと聞きました。それで……」
グレーテ嬢が、侍女に目配せした。
侍女が少し離れる。
「わたしに、話したいことがあるの」
「何でしょう」
「……あの婚約破棄。わたしも、事前には何も知らされていなかった。あの舞踏会の席で、突然ヨアヒム殿下から紹介されて——」
「ええ。あのとき、あなたも戸惑っていたのは見ていました」
「わたしの父——アンブロス公爵が、殿下側近との話し合いで決めたことだと、後から聞いたわ」
殿下側近。
侍従長のことだろうか。
「グレーテ嬢。あなたは、この婚約を望んでいたのですか」
踏み込んだ質問だ。
でも、彼女の目には答えを求めるような光がある。聞いてほしいのだ。
「……正直に言えば、わからないの。父に言われるまま、ここに来た。ヨアヒム殿下のことは、まだよく知らない」
「そうですか」
「でも、ひとつだけわかることがある」
グレーテ嬢の声が、小さくなった。
「ヨアヒム殿下は、あなたのことを何とも思っていなかったわけじゃない。婚約破棄のあと、殿下は一度も笑わなくなった」
予想外の言葉に、胸がざわついた。
「……それは、お気遣いだけで十分です」
「そう。余計なことだったわね。ごめんなさい」
グレーテ嬢が小さく頭を下げて、侍女とともに去っていった。
残されたわたしは、泉の水面を見つめた。
ヨアヒムが笑わなくなった?
だとしたら、あの婚約破棄は本当に彼自身の意思だったのだろうか。
いや、今はそれを考えるときではない。
感情に流されてはいけない。
「失礼。隣、よろしいですか」
声に振り向くと、見知らぬ女性が立っていた。
三十代半ばだろうか。
上品な身なりだが、貴族特有の派手さはない。落ち着いた茶色の髪を一つに結び、穏やかな目をしている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性がベンチに座った。
しばらく二人で噴水を眺めていた。
「いい天気ですね」
「ええ」
「市場は好きですか?」
「最近、好きになりました。以前は来る暇もなくて」
「お仕事がお忙しかったのですね」
何気ない会話だ。
でも、この女性の目にどこか探るような光があることに、わたしは気づいていた。
偶然の出会いにしては、話しかけるタイミングが整いすぎている。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか」
「申し遅れました。ベアーテ・リンデンと申します。街で文具店を営んでおります」
「イルメラ・ヴェストです」
「ええ、存じ上げております」
やはり、偶然ではなかった。
「どちらで、わたしの名前を?」
「宮廷で社畜令嬢と呼ばれていた方が、定時退勤を始めたという噂は、街にも届いていますよ」
「街にまで……」
「宮廷が大混乱だそうですね。たったひとりが定時に帰っただけで」
ベアーテが微笑んだ。
穏やかな笑顔だが、その奥に鋭さがある。
「それだけではありません」
ベアーテが声を低くした。
「わたしの店には、宮廷の方がよく文具を買いにいらっしゃいます。その中で、あなたのことを心配している方がいました」
「どなたですか」
「お名前は申し上げられません。ただ、あなたの味方は宮廷の中にも外にもいる、ということをお伝えしたくて」
「ベアーテさん。あなたはただの文具店の店主さんではないですね」
「さあ、どうでしょう」
ベアーテが立ち上がった。
「いつでも、わたしの店にいらしてください。インクと紙なら、いくらでもお出しします」
「ありがとうございます」
「ペンは、この国で最も強い武器ですから」
ベアーテが微笑んで、市場の雑踏に消えていった。
残されたわたしは、しばらく泉の水音を聞いていた。
ペンは武器だ。
わたしの武器は、ペンと記憶。そしていま、味方が増え始めている。
◇
夕方、宿舎に戻ると、ドアの下に封筒が差し込まれていた。
差出人の名前はない。
中には、一枚の紙。
走り書きで、こう記されていた。
「ゲオルク・シュタイナーの死因について、再調査を要求する。彼は心臓発作で倒れたのではない。保管室で何かを見つけ、それを隠そうとした者に——」
文はそこで途切れている。
まるで、書いている途中で何かに遮られたように。
紙を持つ手が、強ばった。
ゲオルク爺さんの死が、ただの心臓発作ではなかった?
匿名の手紙。
味方からの警告か、それとも敵からの罠か。
窓の外は暗い。
街灯の灯りだけが、揺れている。
——水曜日が、待ち遠しい。ノルベルトに、この手紙を見せなければ。




