表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/37

第7話 味方はどこにもいないと思っていた

味方はどこにもいない。そう思って生きてきた十年間は、思い込みだったのかもしれない。


停職二日目の昼、わたしは宿舎の前で予想外の来客を迎えた。


「お久しぶりです、イルメラさん」


そこに立っていたのは、宮廷薬務室のアーデルハイト・コッホだった。


白衣の上に薄い外套を羽織り、小さな紙袋を抱えている。


「アーデルハイトさん……? どうしてここに」


「停職処分のこと、ハンナさんから聞いたの。お見舞いと言うと大げさだけど——これ、薬務室で調合した薬草茶。疲れているときに効くわ」


紙袋の中から、乾燥した薬草の束が顔を出している。


甘い香りが鼻をくすぐった。


「ありがとうございます。でも、わたしのところに来て大丈夫なんですか?」


「薬務室は事務局の管轄外よ。レンツ局長に何を言われても関係ないわ」


きっぱりとした口調だ。


この人は昔からこうだった。宮廷の薬務官として十五年、わたしよりも長くこの宮廷で働いている。


「それに——わたしも、この宮廷のやり方には思うところがあるの」


「思うところ?」


「薬務室の予算も、ここ数年で不自然に削られていてね。患者に必要な薬が足りない状況が続いてるの」


「それは深刻ですね。いつ頃からですか」


「五年ほど前から。財務長官が替わってから、顕著になったわ」


五年前。


特別業務手当が新設された時期と一致する。


「アーデルハイトさん。その予算削減に関する書類は、お手元にありますか」


「薬務室の申請書と、却下通知の控えならあるわ。なぜ?」


「もしよければ——その控えを見せていただけませんか」


「……何かわかったの?」


「まだ確証はありません。でも、薬務室の予算削減と、事務局の不正が繋がっている可能性がある」


アーデルハイトの目が真剣になった。


「わかった。明日、持ってくるわ」


「ありがとうございます」


「イルメラさん。無理はしないでね。あなたは十年間、無理をしすぎた」


「……はい」


アーデルハイトが帰ったあと、薬草茶を淹れた。


温かい湯気を吸い込むと、身体の緊張がほどけていく。


味方がいる。


ゲオルク爺さん、ノルベルト、ハンナ、アーデルハイト。気づかなかっただけで、わたしの周りには味方がいた。


午後、宿舎を出て街を歩いた。


中央市場は活気に満ちている。


果物を売る声、焼きたてのパンの匂い、子供たちの笑い声。


十年間、知らなかった世界がここにあった。


市場の泉のそばのベンチに座って、行き交う人々を眺める。


水曜日にはここでノルベルトと会う。今日は月曜日だから、まだ二日先だ。


市場の片隅で、古本を売っている屋台を見つけた。


色褪せた表紙の実用書や物語が、木箱にぎっしり詰まっている。


何気なく手に取った一冊は、行政法の解説書だった。


「お嬢さん、そいつは渋い選択だね」


屋台の主人が笑った。白髪交じりの、気の良さそうな老人だ。


「行政法に興味があるの?」


「仕事で使っていたんです。以前は」


「以前は?」


「今は……ちょっと休職中で」


「ほう。じゃあ暇つぶしにちょうどいい。それ、一枚銅貨でいいよ」


ありがたく購入して、ベンチに戻って読み始めた。


すると、読んでいるうちに気づいたことがある。


服務規程の解説章に、停職処分の要件と異議申し立ての手続きが詳しく書かれていた。


「停職処分は、対象者の弁明の機会が保障されていない場合、無効となる」


弁明の機会。


わたしは停職処分を受ける前に、弁明の機会を与えられただろうか。


与えられていない。


通知書を受け取っただけだ。事前の聴聞も、弁明書の提出機会もなかった。


つまり、この停職処分は手続き上の瑕疵がある。


無効を主張できる根拠がある。


今すぐ使う必要はない。


しかし、いざというときの切り札として、覚えておこう。


古本屋の一枚銅貨が、思わぬ武器になるかもしれない。


ベンチで本を読んでいると、泉の向こう側に見覚えのある姿が見えた。


グレーテ・アンブロス嬢だ。


侍女を一人連れて、市場を歩いている。


向こうもわたしに気づいたようだ。


一瞬、足を止めて、それからゆっくりと近づいてきた。


「イルメラさん」


「グレーテ嬢。こんにちは」


「あなたが停職処分を受けたと聞きました。それで……」


グレーテ嬢が、侍女に目配せした。


侍女が少し離れる。


「わたしに、話したいことがあるの」


「何でしょう」


「……あの婚約破棄。わたしも、事前には何も知らされていなかった。あの舞踏会の席で、突然ヨアヒム殿下から紹介されて——」


「ええ。あのとき、あなたも戸惑っていたのは見ていました」


「わたしの父——アンブロス公爵が、殿下側近との話し合いで決めたことだと、後から聞いたわ」


殿下側近。


侍従長のことだろうか。


「グレーテ嬢。あなたは、この婚約を望んでいたのですか」


踏み込んだ質問だ。


でも、彼女の目には答えを求めるような光がある。聞いてほしいのだ。


「……正直に言えば、わからないの。父に言われるまま、ここに来た。ヨアヒム殿下のことは、まだよく知らない」


「そうですか」


「でも、ひとつだけわかることがある」


グレーテ嬢の声が、小さくなった。


「ヨアヒム殿下は、あなたのことを何とも思っていなかったわけじゃない。婚約破棄のあと、殿下は一度も笑わなくなった」


予想外の言葉に、胸がざわついた。


「……それは、お気遣いだけで十分です」


「そう。余計なことだったわね。ごめんなさい」


グレーテ嬢が小さく頭を下げて、侍女とともに去っていった。


残されたわたしは、泉の水面を見つめた。


ヨアヒムが笑わなくなった?


だとしたら、あの婚約破棄は本当に彼自身の意思だったのだろうか。


いや、今はそれを考えるときではない。


感情に流されてはいけない。


「失礼。隣、よろしいですか」


声に振り向くと、見知らぬ女性が立っていた。


三十代半ばだろうか。


上品な身なりだが、貴族特有の派手さはない。落ち着いた茶色の髪を一つに結び、穏やかな目をしている。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


女性がベンチに座った。


しばらく二人で噴水を眺めていた。


「いい天気ですね」


「ええ」


「市場は好きですか?」


「最近、好きになりました。以前は来る暇もなくて」


「お仕事がお忙しかったのですね」


何気ない会話だ。


でも、この女性の目にどこか探るような光があることに、わたしは気づいていた。


偶然の出会いにしては、話しかけるタイミングが整いすぎている。


「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか」


「申し遅れました。ベアーテ・リンデンと申します。街で文具店を営んでおります」


「イルメラ・ヴェストです」


「ええ、存じ上げております」


やはり、偶然ではなかった。


「どちらで、わたしの名前を?」


「宮廷で社畜令嬢と呼ばれていた方が、定時退勤を始めたという噂は、街にも届いていますよ」


「街にまで……」


「宮廷が大混乱だそうですね。たったひとりが定時に帰っただけで」


ベアーテが微笑んだ。


穏やかな笑顔だが、その奥に鋭さがある。


「それだけではありません」


ベアーテが声を低くした。


「わたしの店には、宮廷の方がよく文具を買いにいらっしゃいます。その中で、あなたのことを心配している方がいました」


「どなたですか」


「お名前は申し上げられません。ただ、あなたの味方は宮廷の中にも外にもいる、ということをお伝えしたくて」


「ベアーテさん。あなたはただの文具店の店主さんではないですね」


「さあ、どうでしょう」


ベアーテが立ち上がった。


「いつでも、わたしの店にいらしてください。インクと紙なら、いくらでもお出しします」


「ありがとうございます」


「ペンは、この国で最も強い武器ですから」


ベアーテが微笑んで、市場の雑踏に消えていった。


残されたわたしは、しばらく泉の水音を聞いていた。


ペンは武器だ。


わたしの武器は、ペンと記憶。そしていま、味方が増え始めている。




夕方、宿舎に戻ると、ドアの下に封筒が差し込まれていた。


差出人の名前はない。


中には、一枚の紙。


走り書きで、こう記されていた。


「ゲオルク・シュタイナーの死因について、再調査を要求する。彼は心臓発作で倒れたのではない。保管室で何かを見つけ、それを隠そうとした者に——」


文はそこで途切れている。


まるで、書いている途中で何かに遮られたように。


紙を持つ手が、強ばった。


ゲオルク爺さんの死が、ただの心臓発作ではなかった?


匿名の手紙。


味方からの警告か、それとも敵からの罠か。


窓の外は暗い。


街灯の灯りだけが、揺れている。


——水曜日が、待ち遠しい。ノルベルトに、この手紙を見せなければ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ