第36話 文具店の灯り
文具店の灯りが戻ったのは、冬の入り口だった。
ベアーテの減刑が認められ、拘束が解除されたのだ。
アンブロス公爵家への忠誠心からの行動であったこと、イルメラへの毒殺の実行を拒否したこと、そして調査への協力——情状酌量の材料が積み重なり、ベアーテは自由の身になった。
中央市場の通りに面した小さな店。
看板が新しくなっている。「リンデン文具店」。
扉を押した。
「いらっしゃい」
ベアーテが、カウンターの向こうから笑った。
以前と変わらない穏やかな笑顔だ。少しだけ痩せたが、目の光は戻っている。
「おかえりなさい、ベアーテさん」
「ただいま。——局長さん」
「局長はやめてください」
「あら、みんなそう言うの?」
「ノルベルトさんにも同じことを言われました」
「あの監査官さんね。いい人を見つけたわね」
「ベアーテさん。今日は、お母様のことを聞きに来ました」
ベアーテの表情が、少し変わった。
穏やかさの奥に、痛みが滲む。
「何が聞きたい?」
「お母様は——どんな人でしたか」
「……賢い人だったわ。あなたにそっくり」
「わたしに?」
「ペンの持ち方が綺麗でね。五歳のあなたに文字を教えたのは、お母様よ。孤児院に行く前に」
「わたしが読み書きを覚えるのが早かったのは——」
「お母様が教えていたから。あなたの記憶にはないだろうけど、身体が覚えているはず」
院長先生の言葉を思い出す。「この子は読み書きと計算を誰よりも早く覚えた」——あれは、母の教育の名残だったのだ。
「お母様は、あなたが宮廷で働くことを望んでいたのですか」
「いいえ。むしろ反対よ。宮廷は危険だと。でも——」
「でも?」
「あなたが十五歳で宮廷に行くと聞いたとき、わたしに手紙をくれたの。『あの子が自分で選んだなら、止めないで。でも見守ってほしい』って」
「お母様の手紙……残っていますか」
「ここにあるわ」
ベアーテが、カウンターの下から古い封筒を取り出した。
開くと、繊細な筆跡が並んでいる。
母の字だ。わたしは知らない字のはずなのに、どこか懐かしい。
「ベアーテへ。わたしの命はもう長くないでしょう。でも、あの子は生きている。あの子が自分の足で立てるようになったら——このペンダントを渡してほしい。そして伝えて。あなたの母は、あなたを世界で一番愛していた、と」
文字が滲んだ。
涙で。
「……ありがとうございます。ベアーテさん」
「礼を言うのはわたしの方よ。お母様との約束を、やっと果たせた」
「ベアーテさん。もうひとつ聞いてもいいですか」
「何?」
「お母様は——わたしのこと、何て呼んでいましたか」
「名前で呼んでいたわよ。本当の名前で」
「本当の名前? イルメラではなく?」
「イルメラは、わたしがつけた呼び名なの。お母様がつけた本当の名前は——エルマ」
「エルマ……」
「エレオノーラの『エル』と、お祖母様の名前の『マ』から。お母様はいつも『エルマ、エルマ』って。あなたを抱き上げるたびに」
知らなかった名前。でも口にすると、どこか懐かしい。
「ベアーテさん。ありがとうございます」
「忘れるわけないわ。あの方は——わたしの人生で一番大切な人だったのよ。あなたの次にね」
◇
文具店を出ると、冬の風が頬を撫でた。
ペンダントが、胸元で微かに揺れている。
お母様。
わたしは自分の足で立っています。あなたが望んだとおりに。
市場を通り抜けると、泉のそばにノルベルトが立っていた。
「待っていたんですか」
「ベアーテ氏の文具店が再開したと聞いたので」
「お母様のことを聞いてきました。本当の名前も教えてもらいました」
「本当の名前?」
「エルマ。お母様がつけてくれた名前です」
ノルベルトが少し目を見開いた。
「エルマ……いい名前ですね」
「でもわたしはイルメラで通します。イルメラ・ヴェストが、わたしの人生ですから」
「ええ。イルメラさんはイルメラさんです」
「何度目ですか、その台詞」
「何度でも言います」
冬の風が冷たいが、隣にこの人がいると温かい。
「ノルベルトさん。ベアーテさんがね、お母様のペンをくれたの」
「ペン?」
「お母様が手紙を書くときに使っていたペン。銀軸の、古いもの」
「……お母様の形見が、もうひとつ増えましたね」
「ええ。ペンダントとペン。どちらも銀色」
「お母様は、銀がお好きだったのかもしれませんね」
「そうかもしれない。——このペンで、明日から仕事をします」
「お母様も喜ばれるでしょう」
「喜ぶかな」
「間違いなく。あなたがそのペンで、この国の予算を正すんですから」
「ペンはこの国で最も強い武器——ベアーテさんの受け売りですけど」
「受け売りでも、真実です」
門を出ると、冬の空に星がひとつ光っていた。
帰り道が、少しずつ短くなっている気がする。隣に人がいると、時間が早く過ぎるのだ。
「ノルベルトさん。ベアーテさんが、ひとつお願いがあると言ってました」
「何でしょう」
「文具店のインクを、宮廷の公用品として採用してほしいそうです」
「それは——私情が入っていませんか」
「入ってます。でも、品質は本物です。わたしが十年間使ってきましたから」
「品質の問題ではなく、公正な調達手続きの問題です」
「では、入札にかけましょう。ベアーテさんのインクが一番いい品質なら、正当な手続きで採用される」
「……それなら問題ありません」
「監査官らしい回答ですね」
「監査官ですから」
「でも、ベアーテさんが喜びますよ。あの人にとって、インクは命みたいなものだから」
「ペンは武器で、インクは弾薬、ですか」
「うまいこと言いますね」
「あなたの影響です」
文具店の明かりが、通りの向こうに見えた。
小さな灯りだが、確かに輝いている。
ベアーテの店が戻ってきた。
この街にも、少しずつ日常が戻りつつある。
「ノルベルトさん。ベアーテさんから聞いた話で、気になることがあるんです」
「何でしょう」
「お母様が孤児院に預けたとき、手紙を残していたそうなんです。でもベアーテさんが見せてくれた手紙は一通だけ。他にもあるはずだと」
「他の手紙が——どこかに」
「お母様は几帳——いえ、丁寧な方だったそうです。すべてを記録に残す人だったと」
「あなたに似ていますね」
「ええ。だとすれば、お母様はアンブロス公爵家での出来事も記録に残しているかもしれない」
「それは——侍従長の裁判に使える証拠になり得ます」
「ベアーテさんに聞いてみます。お母様の手記が、どこかに残っていないか」
「慎重にお願いします。もし公爵家の邸宅に残っているなら、押収の手続きが必要です」
「わかりました。定時内に段取りを組みます」
「定時内に」
「もちろん」
門を出て、夜の街を歩く。
冬の空気が澄んでいて、星がよく見える。
「ノルベルトさん。お母様の手記が見つかったら——」
「見つかったら?」
「わたしの知らない母の言葉を、もっと読めるかもしれない」
「……見つかるといいですね」
「見つけます。ゲオルク爺さんの副本だって見つけたんですから」
——母の手紙を胸に、わたしは宮廷に戻る。侍従長の裁判が、目前に迫っている。




