第37話 グレーテの白衣
グレーテ・アンブロス嬢が白衣を着る日が来るとは、誰も予想していなかった。
薬務室の見習いとして、アーデルハイトの指導のもと、薬草の勉強を始めたのだ。
「イルメラさん。見て、この薬草茶。わたしが調合したの」
昼休み、食堂でグレーテ嬢が小さな瓶を差し出した。
銀の髪を後ろで一つに結び、白衣の袖をまくっている。公爵令嬢の面影はほとんどない。
「飲んでも大丈夫?」
「大丈夫よ。アーデルハイトさんの検査済み」
一口飲んだ。
甘くて温かい。身体に沁みる味だ。
「おいしい」
「本当? よかった」
「才能あるんじゃない?」
「才能というか……薬草の勉強って、面白いのよ。毒と薬は紙一重——アーデルハイトさんの口癖なんだけど」
「あの人の口癖ね。よく聞いたわ」
「わたしの父がやったことは取り消せない。でも、わたし自身の手で、人を助けることはできる」
グレーテ嬢の目が澄んでいる。
あの泉のそばで泣いていた女性とは、別人のようだ。
「お父上の裁判は——」
「来週よ。侍従長と一緒に。わたし、証人として出廷するわ」
「辛くない?」
「辛いわ。でも——もう黙らないと決めたから」
あの言葉が、グレーテ嬢の中にも根づいている。
沈黙は美徳ではない。
◇
午後、アーデルハイトが局長室を訪ねてきた。
「イルメラさん。グレーテさんの件で報告。あの子、すごく飲み込みが早いわ」
「公爵令嬢の教育は伊達じゃないわね」
「それもあるけど、それ以上に——真剣なのよ。薬の知識を、人を助けるために使いたいって」
「父親が毒で人を殺したから——その反対のことをしたいのかもしれませんね」
「そうかもね。動機が何であれ、あの子の手は確かよ。将来、いい薬務官になるわ」
「アーデルハイトさんの後継者ですか」
「まだ気が早いわよ。でも——後継者を育てることの大切さは、あなたに教わったわ」
「わたし?」
「モニカさんを見てればわかるわ。あなたが『ひとりで抱え込まない組織を作る』と言ったとき、わたしも薬務室でそうしようと思った」
「……ありがとうございます。それが一番嬉しい言葉です」
午後五時。定時退勤。
門を出ると、ノルベルトが待っていた。最近は、これが日課になりつつある。
「今日もお迎えですか」
「監査官の定時退勤です。たまたま門の前にいるだけです」
「たまたまが毎日続いていますね」
「偶然の積み重ねです」
「統計的には、それを偶然とは呼びません」
ノルベルトの耳が赤くなった。
冬の寒さのせいとは言えない。
「ノルベルトさん。グレーテが薬草茶を作ったんですよ」
「美味しかったですか」
「ええ。——あの子、変わりましたね」
「人は変われるということですね。環境が変われば」
「環境だけじゃない。自分で変わろうと決めたから変われたんです。グレーテも、ハンナも」
「あなたも」
「わたしも?」
「十年間黙っていた人が、声を上げた。それは——環境のせいではなく、あなた自身の決断です」
「……褒めすぎですよ」
「事実を述べているだけです」
並んで歩く。
冬の夕暮れは早い。もう空に星が見え始めている。
「ノルベルトさん。裁判のあと、海に行くんでしたよね」
「ええ。三日間の休暇を申請しました」
「監査官が休暇を取るのは珍しいんじゃないですか」
「建局以来初だそうです」
「建局以来初。……わたしの定時退勤と同じですね」
「前例のないことをするのは、もう慣れました。あなたのそばにいると」
「それは褒め言葉ですか」
「最大の褒め言葉です」
街灯が灯り始めた。
冬の夕暮れは短いが、その分、灯りの温かさが際立つ。
「ノルベルトさん。裁判では、十年分のすべてを話します」
「覚悟は決まっていますか」
「ゲオルク爺さんが保管室で副本を守り続けた三十年間。アーデルハイトさんが薬の足りない薬務室で踏ん張った十五年間。そしてわたしの十年間。全部、無駄じゃなかったと証明します」
「無駄ではありませんでした。それは、わたしが保証します」
「監査官の保証ですか」
「個人としての保証です」
「ノルベルトさん。ひとつ聞いていいですか」
「何でしょう」
「あなたは——わたしのどこを好きになったんですか」
不意打ちだった。
ノルベルトが一瞬固まって、それから目を逸らした。
「……突然ですね」
「裁判の前に聞いておきたくて。明日、何があるかわからないから」
「何もありません。わたしたちが負けるわけがない」
「わたしの台詞を取らないでください。——で、答えは」
「……最初に会ったとき、あなたは『定時で帰ります』と言いました」
「ええ」
「あの言葉が——とても眩しかった。わたしは『正しいことを正しいと言えない人間』をたくさん見てきた。でもあなたは、規定どおりのことを規定どおりにやると、堂々と宣言した」
「それだけ?」
「それだけです。でも、それがすべてです」
「……不器用な告白ですね」
「自覚はあります」
「でも——嬉しいです。わたしも、あなたの『定時までで結構です』が好きでした」
「あの言葉がですか」
「ええ。初めて言われたとき、十年間で誰にも言ってもらえなかった言葉だと思って——」
声が詰まった。
「……明日、がんばりましょう」
「ええ。一緒に」
門のそばで立ち止まった。
冬の星が、ひとつずつ増えていく。
「ノルベルトさん。裁判が終わったら、わたしたちは——」
「わたしたちは?」
「普通の——恋人になれるんでしょうか」
「普通の恋人、ですか。わたしは普通ではないのですが」
「わたしも普通じゃないです。王族の隠し子で、元社畜令嬢で、現局長ですから」
「なるほど。普通でない者同士」
「お似合いじゃないですか」
ノルベルトが、声を出して笑った。
この人の笑い声を聞くたびに、世界が少し明るくなる。
「お似合いかどうかは——海に行ってから判断しましょう」
「判断に時間がかかるんですね」
「慎重なのは、監査官の性分です」
帰り道、グレーテとすれ違った。
白衣に薬草の匂いを纏って、駆け足で薬務室に戻ろうとしている。
「グレーテ、まだ仕事?」
「薬草の煮出しが途中で——あと三十分で終わります」
「定時は過ぎてるわよ」
「ごめんなさい。でも、薬草は待ってくれないの」
「それはそうだけど——アーデルハイトさんは?」
「先に帰りました。『若い子に任せる』って」
「後継者に任せる。いい判断ね」
「イルメラさん。わたし、来週の裁判で証人として出廷するわ」
「覚悟は?」
「できてます。父がやったことを、わたしの口から言います。娘として」
「辛いわね」
「辛いです。でも——黙ったままの方がもっと辛い。あなたが教えてくれたこと」
「わたしが教えた?」
「沈黙は美徳ではない。——あの言葉のおかげで、わたしは声を上げられるようになった」
胸が熱くなった。
あの言葉は、元々ゲオルク爺さんの生き様から学んだもの。それが巡り巡って、こんなところまで届いている。
「がんばってね、グレーテ」
「ありがとう。イルメラさんも」
「あの言葉がですか」
声が詰まった。
泣きそうだ。裁判の前日に泣くわけにはいかない。
「ええ。一緒に」
「来週の裁判、緊張しますか」
「少し。でも——あなたがいるから大丈夫です」
「業務上の同席ですが」
「業務外の安心感です」
ノルベルトが、ほんの少しだけ微笑んだ。
「今日も定時ですね」
「もちろん。——来週の裁判の準備は」
「万全です。証拠はすべて揃っている。あとは——あなたの証言だけです」
「十年分の記憶を、すべてぶつけます」
「頼もしい」
——裁判が近づいている。この国の不正に、最終的なけじめをつける日が。




