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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第37話 グレーテの白衣

グレーテ・アンブロス嬢が白衣を着る日が来るとは、誰も予想していなかった。


薬務室の見習いとして、アーデルハイトの指導のもと、薬草の勉強を始めたのだ。


「イルメラさん。見て、この薬草茶。わたしが調合したの」


昼休み、食堂でグレーテ嬢が小さな瓶を差し出した。


銀の髪を後ろで一つに結び、白衣の袖をまくっている。公爵令嬢の面影はほとんどない。


「飲んでも大丈夫?」


「大丈夫よ。アーデルハイトさんの検査済み」


一口飲んだ。


甘くて温かい。身体に沁みる味だ。


「おいしい」


「本当? よかった」


「才能あるんじゃない?」


「才能というか……薬草の勉強って、面白いのよ。毒と薬は紙一重——アーデルハイトさんの口癖なんだけど」


「あの人の口癖ね。よく聞いたわ」


「わたしの父がやったことは取り消せない。でも、わたし自身の手で、人を助けることはできる」


グレーテ嬢の目が澄んでいる。


あの泉のそばで泣いていた女性とは、別人のようだ。


「お父上の裁判は——」


「来週よ。侍従長と一緒に。わたし、証人として出廷するわ」


「辛くない?」


「辛いわ。でも——もう黙らないと決めたから」


あの言葉が、グレーテ嬢の中にも根づいている。


沈黙は美徳ではない。





午後、アーデルハイトが局長室を訪ねてきた。


「イルメラさん。グレーテさんの件で報告。あの子、すごく飲み込みが早いわ」


「公爵令嬢の教育は伊達じゃないわね」


「それもあるけど、それ以上に——真剣なのよ。薬の知識を、人を助けるために使いたいって」


「父親が毒で人を殺したから——その反対のことをしたいのかもしれませんね」


「そうかもね。動機が何であれ、あの子の手は確かよ。将来、いい薬務官になるわ」


「アーデルハイトさんの後継者ですか」


「まだ気が早いわよ。でも——後継者を育てることの大切さは、あなたに教わったわ」


「わたし?」


「モニカさんを見てればわかるわ。あなたが『ひとりで抱え込まない組織を作る』と言ったとき、わたしも薬務室でそうしようと思った」


「……ありがとうございます。それが一番嬉しい言葉です」


午後五時。定時退勤。


門を出ると、ノルベルトが待っていた。最近は、これが日課になりつつある。


「今日もお迎えですか」


「監査官の定時退勤です。たまたま門の前にいるだけです」


「たまたまが毎日続いていますね」


「偶然の積み重ねです」


「統計的には、それを偶然とは呼びません」


ノルベルトの耳が赤くなった。


冬の寒さのせいとは言えない。


「ノルベルトさん。グレーテが薬草茶を作ったんですよ」


「美味しかったですか」


「ええ。——あの子、変わりましたね」


「人は変われるということですね。環境が変われば」


「環境だけじゃない。自分で変わろうと決めたから変われたんです。グレーテも、ハンナも」


「あなたも」


「わたしも?」


「十年間黙っていた人が、声を上げた。それは——環境のせいではなく、あなた自身の決断です」


「……褒めすぎですよ」


「事実を述べているだけです」


並んで歩く。


冬の夕暮れは早い。もう空に星が見え始めている。


「ノルベルトさん。裁判のあと、海に行くんでしたよね」


「ええ。三日間の休暇を申請しました」


「監査官が休暇を取るのは珍しいんじゃないですか」


「建局以来初だそうです」


「建局以来初。……わたしの定時退勤と同じですね」


「前例のないことをするのは、もう慣れました。あなたのそばにいると」


「それは褒め言葉ですか」


「最大の褒め言葉です」


街灯が灯り始めた。


冬の夕暮れは短いが、その分、灯りの温かさが際立つ。


「ノルベルトさん。裁判では、十年分のすべてを話します」


「覚悟は決まっていますか」


「ゲオルク爺さんが保管室で副本を守り続けた三十年間。アーデルハイトさんが薬の足りない薬務室で踏ん張った十五年間。そしてわたしの十年間。全部、無駄じゃなかったと証明します」


「無駄ではありませんでした。それは、わたしが保証します」


「監査官の保証ですか」


「個人としての保証です」


「ノルベルトさん。ひとつ聞いていいですか」


「何でしょう」


「あなたは——わたしのどこを好きになったんですか」


不意打ちだった。


ノルベルトが一瞬固まって、それから目を逸らした。


「……突然ですね」


「裁判の前に聞いておきたくて。明日、何があるかわからないから」


「何もありません。わたしたちが負けるわけがない」


「わたしの台詞を取らないでください。——で、答えは」


「……最初に会ったとき、あなたは『定時で帰ります』と言いました」


「ええ」


「あの言葉が——とても眩しかった。わたしは『正しいことを正しいと言えない人間』をたくさん見てきた。でもあなたは、規定どおりのことを規定どおりにやると、堂々と宣言した」


「それだけ?」


「それだけです。でも、それがすべてです」


「……不器用な告白ですね」


「自覚はあります」


「でも——嬉しいです。わたしも、あなたの『定時までで結構です』が好きでした」


「あの言葉がですか」


「ええ。初めて言われたとき、十年間で誰にも言ってもらえなかった言葉だと思って——」


声が詰まった。


「……明日、がんばりましょう」


「ええ。一緒に」


門のそばで立ち止まった。


冬の星が、ひとつずつ増えていく。


「ノルベルトさん。裁判が終わったら、わたしたちは——」


「わたしたちは?」


「普通の——恋人になれるんでしょうか」


「普通の恋人、ですか。わたしは普通ではないのですが」


「わたしも普通じゃないです。王族の隠し子で、元社畜令嬢で、現局長ですから」


「なるほど。普通でない者同士」


「お似合いじゃないですか」


ノルベルトが、声を出して笑った。


この人の笑い声を聞くたびに、世界が少し明るくなる。


「お似合いかどうかは——海に行ってから判断しましょう」


「判断に時間がかかるんですね」


「慎重なのは、監査官の性分です」


帰り道、グレーテとすれ違った。


白衣に薬草の匂いを纏って、駆け足で薬務室に戻ろうとしている。


「グレーテ、まだ仕事?」


「薬草の煮出しが途中で——あと三十分で終わります」


「定時は過ぎてるわよ」


「ごめんなさい。でも、薬草は待ってくれないの」


「それはそうだけど——アーデルハイトさんは?」


「先に帰りました。『若い子に任せる』って」


「後継者に任せる。いい判断ね」


「イルメラさん。わたし、来週の裁判で証人として出廷するわ」


「覚悟は?」


「できてます。父がやったことを、わたしの口から言います。娘として」


「辛いわね」


「辛いです。でも——黙ったままの方がもっと辛い。あなたが教えてくれたこと」


「わたしが教えた?」


「沈黙は美徳ではない。——あの言葉のおかげで、わたしは声を上げられるようになった」


胸が熱くなった。


あの言葉は、元々ゲオルク爺さんの生き様から学んだもの。それが巡り巡って、こんなところまで届いている。


「がんばってね、グレーテ」


「ありがとう。イルメラさんも」


「あの言葉がですか」


声が詰まった。


泣きそうだ。裁判の前日に泣くわけにはいかない。


「ええ。一緒に」


「来週の裁判、緊張しますか」


「少し。でも——あなたがいるから大丈夫です」


「業務上の同席ですが」


「業務外の安心感です」


ノルベルトが、ほんの少しだけ微笑んだ。


「今日も定時ですね」


「もちろん。——来週の裁判の準備は」


「万全です。証拠はすべて揃っている。あとは——あなたの証言だけです」


「十年分の記憶を、すべてぶつけます」


「頼もしい」


——裁判が近づいている。この国の不正に、最終的なけじめをつける日が。


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