第35話 ハンナの再出発
ハンナが事務局に戻ってきたのは、わたしが局長に就任して一週間後のことだった。
謹慎処分が正式に解除され、一般事務官として復帰。降格はなし。ただし、レンツ局長への協力に関する記録は永久に残る。
「イルメラ局——イルメラさん。本日より復帰いたします」
事務局の入り口に立つハンナは、髪をきちんと結い、背筋を伸ばしていた。
でも、目が泳いでいる。周囲の視線が怖いのだろう。
「おかえり、ハンナ。席はそのまま空けてあるわ」
「……ありがとう」
「お礼はいいから、さっさと座って。四半期報告の集計が溜まってるのよ」
ハンナが少し笑った。
泣き笑いに近い、ぎこちない笑顔だ。
席に着いたハンナの周囲には、微妙な空気が漂っている。
裏切り者が戻ってきた——そう思っている同僚もいるだろう。
「みんな。ハンナが復帰しました。彼女は自発的に証言し、調査に多大な貢献をしてくれました。今後は同僚として、よろしくお願いします」
わたしの声が、事務局に響いた。
局長の言葉は重い。同僚たちが、ぎこちなくも頷く。
モニカが真っ先にハンナの席に近づいた。
「ハンナさん、おかえりなさい。四半期報告の書式、わたしが教えますね。イルメラさんの引き継ぎ資料に全部書いてあるので」
「……ありがとう。モニカちゃん」
「ちゃん付けは恥ずかしいのでやめてください」
「ごめん。モニカさん」
小さな笑いが生まれた。
まだ完全ではない。でも、始まりとしては十分だ。
◇
昼休み、食堂でハンナと向かい合った。
「ねえ、イルメラ」
「何?」
「局長になって、変わった?」
「椅子が硬くなった」
「そうじゃなくて」
「冗談よ。——変わったのは立場だけ。やることは同じ。書類を読んで、判断して、定時に帰る」
「あなたらしいわ」
「ハンナ。ひとつ聞いていい?」
「何?」
「謹慎中、何をしていたの」
「……考えていた。自分が何を間違えたのか」
「答えは出た?」
「出た。わたしは——怖くて黙っていた。レンツ局長に脅されて、おかしいと思いながら従った。あなたみたいに声を上げる勇気がなかった」
「わたしだって、十年間黙ってたわよ」
「でも最後に声を上げたでしょう。定時退勤という形で」
「ハンナも声を上げたじゃない。自白という形で」
ハンナの目が、潤んだ。
「……ありがとう。そう言ってくれるの、あなただけよ」
「アーデルハイトさんにも謝りに行った?」
「行った。怒られるかと思ったけど——」
「何て言われたの」
「『もう終わったことよ。これからどう生きるかが大事』って。あの人、強いわね」
「薬務官ですからね。毒も薬も、使い方次第だってわかってる人よ」
午後五時。定時退勤。
門を出ると、ハンナが隣に並んだ。
「イルメラ。明日も定時に帰る?」
「もちろん」
「わたしも帰る」
「えらいわね」
「あなたに褒められると、くすぐったい」
「ねえ、イルメラ」
「何?」
「わたし、復帰してから気づいたことがあるの」
「何に」
「この事務局、変わったわ。あなたがいなかった十日間で」
「どう変わった?」
「みんなが自分の仕事をやってる。以前は、困ったらすぐあなたに頼んでた。でも今は、まず自分で考えて、それでもダメなら隣の人に聞く」
「それが普通の職場よ」
「普通が、どれだけ大変か。あなたが定時退勤を始めなかったら、この『普通』は永遠に来なかった」
「大げさよ」
「大げさじゃないわ。——わたしも、変わりたい」
「どう変わりたいの?」
「あなたみたいに、正しいと思ったことを言える人間に。脅されても、黙らない人間に」
「……それは、もうできてるわよ。あなたは自白したでしょう。それが、声を上げるということ」
ハンナの目が、また潤んだ。
でも今度は、悲しみではなく、何か別のものだった。
「ねえ、イルメラ」
「何?」
「ノルベルトさんとは、うまくいってるの?」
「……なぜ急にその話を」
「だって、門の前で毎日待ち合わせてるのは知ってるわよ。宮廷中の噂になってる」
「噂?」
「『氷の監査官が、毎日五時きっかりに門の前に立っている。社畜令嬢を待っている』って」
「社畜令嬢はもうやめてほしいんだけど」
「無理よ。あなたはこの宮廷の伝説なんだから。定時退勤で国を変えた女」
「大げさよ」
「大げさじゃないわ。——で、ノルベルトさんとは?」
「……業務外の話はしないことにしてるの」
「それ自体が答えよ。業務外の関係があるってことでしょ」
「ハンナ。あなた、鋭くなったわね」
「脅されて黙ってた分、目が養われたのよ」
二人で笑った。
冬の風が冷たいが、笑っていると温かい。
門のところで、モニカが走ってきた。
「イルメラさん! ハンナさん!」
「どうしたの、モニカ」
「アーデルハイトさんが伝言です。『薬草茶の新しいブレンドができたから、みんなで飲みましょう』って」
「みんなで?」
「はい。グレーテさんが調合したそうです」
ハンナがわたしを見た。
「行く?」
「もちろん。——定時後の自由時間ですからね」
薬務室に向かった。
アーデルハイトとグレーテが、温かい茶を用意して待っていた。
「おかえり、二人とも」
「ただいま。——グレーテ、腕を上げたわね」
「えへへ。アーデルハイトさんに教わりました」
五人で茶を飲んだ。
イルメラ、ハンナ、モニカ、アーデルハイト、グレーテ。
半年前には想像もできなかった光景だ。
敵だった人、裏切った人、毒を盛られた人——全員がひとつのテーブルを囲んでいる。
「美味しい」
「本当? よかった」
温かい茶が、冬の身体に沁みる。
これが——定時退勤のその先にある景色だ。




