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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第35話 ハンナの再出発

ハンナが事務局に戻ってきたのは、わたしが局長に就任して一週間後のことだった。


謹慎処分が正式に解除され、一般事務官として復帰。降格はなし。ただし、レンツ局長への協力に関する記録は永久に残る。


「イルメラ局——イルメラさん。本日より復帰いたします」


事務局の入り口に立つハンナは、髪をきちんと結い、背筋を伸ばしていた。


でも、目が泳いでいる。周囲の視線が怖いのだろう。


「おかえり、ハンナ。席はそのまま空けてあるわ」


「……ありがとう」


「お礼はいいから、さっさと座って。四半期報告の集計が溜まってるのよ」


ハンナが少し笑った。


泣き笑いに近い、ぎこちない笑顔だ。


席に着いたハンナの周囲には、微妙な空気が漂っている。


裏切り者が戻ってきた——そう思っている同僚もいるだろう。


「みんな。ハンナが復帰しました。彼女は自発的に証言し、調査に多大な貢献をしてくれました。今後は同僚として、よろしくお願いします」


わたしの声が、事務局に響いた。


局長の言葉は重い。同僚たちが、ぎこちなくも頷く。


モニカが真っ先にハンナの席に近づいた。


「ハンナさん、おかえりなさい。四半期報告の書式、わたしが教えますね。イルメラさんの引き継ぎ資料に全部書いてあるので」


「……ありがとう。モニカちゃん」


「ちゃん付けは恥ずかしいのでやめてください」


「ごめん。モニカさん」


小さな笑いが生まれた。


まだ完全ではない。でも、始まりとしては十分だ。




昼休み、食堂でハンナと向かい合った。


「ねえ、イルメラ」


「何?」


「局長になって、変わった?」


「椅子が硬くなった」


「そうじゃなくて」


「冗談よ。——変わったのは立場だけ。やることは同じ。書類を読んで、判断して、定時に帰る」


「あなたらしいわ」


「ハンナ。ひとつ聞いていい?」


「何?」


「謹慎中、何をしていたの」


「……考えていた。自分が何を間違えたのか」


「答えは出た?」


「出た。わたしは——怖くて黙っていた。レンツ局長に脅されて、おかしいと思いながら従った。あなたみたいに声を上げる勇気がなかった」


「わたしだって、十年間黙ってたわよ」


「でも最後に声を上げたでしょう。定時退勤という形で」


「ハンナも声を上げたじゃない。自白という形で」


ハンナの目が、潤んだ。


「……ありがとう。そう言ってくれるの、あなただけよ」


「アーデルハイトさんにも謝りに行った?」


「行った。怒られるかと思ったけど——」


「何て言われたの」


「『もう終わったことよ。これからどう生きるかが大事』って。あの人、強いわね」


「薬務官ですからね。毒も薬も、使い方次第だってわかってる人よ」


午後五時。定時退勤。


門を出ると、ハンナが隣に並んだ。


「イルメラ。明日も定時に帰る?」


「もちろん」


「わたしも帰る」


「えらいわね」


「あなたに褒められると、くすぐったい」


「ねえ、イルメラ」


「何?」


「わたし、復帰してから気づいたことがあるの」


「何に」


「この事務局、変わったわ。あなたがいなかった十日間で」


「どう変わった?」


「みんなが自分の仕事をやってる。以前は、困ったらすぐあなたに頼んでた。でも今は、まず自分で考えて、それでもダメなら隣の人に聞く」


「それが普通の職場よ」


「普通が、どれだけ大変か。あなたが定時退勤を始めなかったら、この『普通』は永遠に来なかった」


「大げさよ」


「大げさじゃないわ。——わたしも、変わりたい」


「どう変わりたいの?」


「あなたみたいに、正しいと思ったことを言える人間に。脅されても、黙らない人間に」


「……それは、もうできてるわよ。あなたは自白したでしょう。それが、声を上げるということ」


ハンナの目が、また潤んだ。


でも今度は、悲しみではなく、何か別のものだった。


「ねえ、イルメラ」


「何?」


「ノルベルトさんとは、うまくいってるの?」


「……なぜ急にその話を」


「だって、門の前で毎日待ち合わせてるのは知ってるわよ。宮廷中の噂になってる」


「噂?」


「『氷の監査官が、毎日五時きっかりに門の前に立っている。社畜令嬢を待っている』って」


「社畜令嬢はもうやめてほしいんだけど」


「無理よ。あなたはこの宮廷の伝説なんだから。定時退勤で国を変えた女」


「大げさよ」


「大げさじゃないわ。——で、ノルベルトさんとは?」


「……業務外の話はしないことにしてるの」


「それ自体が答えよ。業務外の関係があるってことでしょ」


「ハンナ。あなた、鋭くなったわね」


「脅されて黙ってた分、目が養われたのよ」


二人で笑った。


冬の風が冷たいが、笑っていると温かい。


門のところで、モニカが走ってきた。


「イルメラさん! ハンナさん!」


「どうしたの、モニカ」


「アーデルハイトさんが伝言です。『薬草茶の新しいブレンドができたから、みんなで飲みましょう』って」


「みんなで?」


「はい。グレーテさんが調合したそうです」


ハンナがわたしを見た。


「行く?」


「もちろん。——定時後の自由時間ですからね」


薬務室に向かった。


アーデルハイトとグレーテが、温かい茶を用意して待っていた。


「おかえり、二人とも」


「ただいま。——グレーテ、腕を上げたわね」


「えへへ。アーデルハイトさんに教わりました」


五人で茶を飲んだ。


イルメラ、ハンナ、モニカ、アーデルハイト、グレーテ。


半年前には想像もできなかった光景だ。


敵だった人、裏切った人、毒を盛られた人——全員がひとつのテーブルを囲んでいる。


「美味しい」


「本当? よかった」


温かい茶が、冬の身体に沁みる。


これが——定時退勤のその先にある景色だ。


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