第34話 予算は嘘をつけない
予算は嘘をつけない。嘘をついているのは、いつも人間の方だ。
局長に就任して三日目。わたしは予算の全面見直しに着手した。
五年間にわたるレンツ局長の偽造で歪められた予算配分を、正しい形に戻す。
膨大な作業だ。でも、わたしには十年分の記憶がある。
「イルメラさん。各課から予算の再申請書が届きました」
モニカが、分厚い束を持ってきた。
「ありがとう。まず薬務室の分を見せて」
「はい。アーデルハイトさんが自ら作成したそうです」
薬務室の予算申請書を開く。
アーデルハイトらしい、丁寧で正確な書式だ。必要な薬品のリスト、人員の配置計画、設備の更新予定。
「五年間で三割削減されていた予算を、元の水準に戻す申請ですね」
「はい。さらに、解毒薬の備蓄増加と、緊急時の対応マニュアルの整備費用も含まれています」
「二度と、薬が足りなくて人が死ぬことがないように、か」
「ゲオルク爺さんのことを、忘れていないんですね」
「忘れるわけがないわ」
次に、保管室の予算。
ゲオルク爺さんが三十年間ひとりで管理していた文書保管室。今は庶務課の職員が三人体制で管理している。
「保管室の増員予算も承認します。これは五年前にゲオルク爺さんが十二回申請して、すべて却下されたもの」
「十二回……」
「ええ。一回も通らなかった。レンツ局長が予算を手当に流用していたから」
ペンを走らせる。
承認印を押す手に、力がこもった。
ゲオルク爺さん。あなたの申請を、やっと通すことができました。
◇
午後、監査局との定期監査の初回打ち合わせ。
ノルベルトが、新しい制度の設計書を持ってきた。
「四半期ごとの定期監査。各課の予算執行状況を、監査局が独立して検証します」
「素晴らしい。でも、監査局の人員は足りていますか」
「正直に言えば、足りません。監査局長が亡くなってから、士気も下がっています」
「増員の予算を確保しましょう。監査局が機能しなければ、改革は絵に描いた餅です」
「ありがとうございます。——局長、いい響きですね」
「局長はやめてください。イルメラさんで」
「業務中は局長と呼ぶべきでは」
「業務中もイルメラさんでいいです。堅苦しいのは嫌いです」
「……わかりました。イルメラさん」
その呼び方が、やけに甘く聞こえた。
業務中なのに。
「ところで、侍従長の裁判の日程が決まりました」
「いつですか」
「来月の十五日。公開裁判です。ヨアヒム殿下の勅命で、市民にも傍聴が認められます」
「公開裁判か。侍従長は——」
「全面否認を続けています。しかし、証拠は十分です。レンツ局長の証言、ハンナさんの証言、偽造文書の物的証拠。三方向から固めています」
「わたしの証言も必要ですか」
「ええ。十年間の業務記録を、あなた自身の口から証言していただきます」
「十年分ですか。長い証言になりそうですね」
「定時までに収まりますか」
「収めます。わたしの記憶は、要点をまとめるのも得意ですから」
午後五時。定時退勤。
門を出ると、ノルベルトがいつもの場所に立っていた。
「今日の成果は」
「薬務室と保管室の予算を承認しました。ゲオルク爺さんの増員申請を、五年越しで通した」
「五年越し……」
「ゲオルク爺さんが生きていたら、何て言ったでしょうね」
「『やっとかい、お嬢ちゃん』でしょうか」
思わず笑った。
ノルベルトがゲオルク爺さんの口調を真似るとは。
「似てないですよ」
「自覚はあります」
「でも、嬉しいです。ゲオルク爺さんのことを覚えていてくれて」
「忘れません。あの方の副本がなければ、わたしたちの調査は成り立たなかった」
「ええ。あの人が三十年間守り続けた書架が、この国を救った」
夕暮れの空を見上げた。
高い空に、鳥が飛んでいる。
「ノルベルトさん。わたし、この仕事が好きです」
「局長の仕事が?」
「いいえ。——この国のために、正しいことをする仕事が」
「……わたしもです」
並んで歩く。
もう冬が近い。風が冷たいが、隣に人がいると温かい。
「ノルベルトさん。ひとつ提案があります」
「何でしょう」
「予算の不正を二度と起こさないために、すべての決裁文書を複写制にしたい。原本と副本を別の場所に保管する」
「ゲオルク氏がやっていたことですね」
「ええ。あの人が個人的にやっていたことを、制度にする。二重管理にすれば、一方を改竄しても、もう一方で検証できる」
「素晴らしい提案です。監査局からも支持します」
「それと——副本の保管場所は、監査局の管轄にしてほしいんです」
「事務局ではなく?」
「事務局が原本を持ち、監査局が副本を持つ。互いに牽制し合う仕組みです」
「権力の分散ですね。一人に集中させない」
「ゲオルク爺さんが三十年間ひとりで守った仕事を、組織として引き継ぐんです」
ノルベルトが立ち止まった。
「イルメラさん。あなたは——本当にこの国のことを考えていますね」
「当たり前です。わたしはこの国の局長ですから」
「局長、という言葉が、あなたの口から出ると不思議な響きですね」
「まだ慣れませんか」
「慣れました。——誇らしいです」
その言葉が、やけに胸に沁みた。
「ノルベルトさん。もうひとつ提案があります」
「まだあるのですか」
「監査局の新しい局長を、早く選任してほしいんです」
「……それは、わたしに言うことですか」
「あなたが適任です」
ノルベルトが足を止めた。
「わたしが——局長?」
「あなた以外に誰がいるんですか。前局長の教えを受け継ぎ、この調査を最後までやり遂げた人間は」
「しかし、わたしは——」
「人間関係が苦手? 知っています。でも、局長に必要なのは人望ではなく公正さです。あなたほど公正な人間を、わたしは知りません」
「……考えさせてください」
「考える時間は差し上げます。ただし——」
「ただし?」
「定時までに答えを出してくださいね」
ノルベルトが、苦笑した。
「あなたに追い詰められると、逃げ場がない」
「褒め言葉として受け取ります」
夕方、事務局に戻ると、モニカが残業時間の比較データを完成させていた。
「イルメラさん。先月と今月の比較、できました」
「見せて」
「事務局全体の残業時間が、先月比で六割減です」
「六割……」
「外交課が一番減ってます。シフト制を導入した効果ですね」
「外交課長も協力してくれたのね」
「渋々ですけど。でも、データを見たら納得してました。『残業が減っても業務量は変わらない。つまり無駄な残業をしていたのか』って」
「気づいてくれてよかった」
「薬務室はもともと残業が少なかったんですが、アーデルハイトさんが復帰してからさらに効率が上がっています」
「あの人は元々有能ですからね」
「イルメラさん。このデータ、殿下に報告しますか」
「ええ。改革の成果は、数字で示す。それが一番説得力がある」
ペンを手に取った。
母のペンだ。銀の軸が、手の中で温まっている。
このペンで、報告書を書こう。
定時退勤が、この国を変えた証拠を。
「ノルベルトさん。侍従長の裁判の日程は」
「来月の十五日。公開裁判です」
「わたしの証言の準備も始めないと」
「十年分の記憶を整理するのは大変では」
「整理は得意です。書類を分類するのと同じ」
「……あなたの頭の中は、ゲオルク爺さんの保管室みたいですね。整然と分類されて、必要なものがすぐに出てくる」
「褒めてるんですか?」
「最大級の賛辞です」
——予算の正常化は始まった。だが、本当の決着はまだ先だ。侍従長の裁判が、この国の不正に最終的なけじめをつける。




