↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/40

第34話 予算は嘘をつけない

予算は嘘をつけない。嘘をついているのは、いつも人間の方だ。


局長に就任して三日目。わたしは予算の全面見直しに着手した。


五年間にわたるレンツ局長の偽造で歪められた予算配分を、正しい形に戻す。


膨大な作業だ。でも、わたしには十年分の記憶がある。


「イルメラさん。各課から予算の再申請書が届きました」


モニカが、分厚い束を持ってきた。


「ありがとう。まず薬務室の分を見せて」


「はい。アーデルハイトさんが自ら作成したそうです」


薬務室の予算申請書を開く。


アーデルハイトらしい、丁寧で正確な書式だ。必要な薬品のリスト、人員の配置計画、設備の更新予定。


「五年間で三割削減されていた予算を、元の水準に戻す申請ですね」


「はい。さらに、解毒薬の備蓄増加と、緊急時の対応マニュアルの整備費用も含まれています」


「二度と、薬が足りなくて人が死ぬことがないように、か」


「ゲオルク爺さんのことを、忘れていないんですね」


「忘れるわけがないわ」


次に、保管室の予算。


ゲオルク爺さんが三十年間ひとりで管理していた文書保管室。今は庶務課の職員が三人体制で管理している。


「保管室の増員予算も承認します。これは五年前にゲオルク爺さんが十二回申請して、すべて却下されたもの」


「十二回……」


「ええ。一回も通らなかった。レンツ局長が予算を手当に流用していたから」


ペンを走らせる。


承認印を押す手に、力がこもった。


ゲオルク爺さん。あなたの申請を、やっと通すことができました。



◇


午後、監査局との定期監査の初回打ち合わせ。


ノルベルトが、新しい制度の設計書を持ってきた。


「四半期ごとの定期監査。各課の予算執行状況を、監査局が独立して検証します」


「素晴らしい。でも、監査局の人員は足りていますか」


「正直に言えば、足りません。監査局長が亡くなってから、士気も下がっています」


「増員の予算を確保しましょう。監査局が機能しなければ、改革は絵に描いた餅です」


「ありがとうございます。——局長、いい響きですね」


「局長はやめてください。イルメラさんで」


「業務中は局長と呼ぶべきでは」


「業務中もイルメラさんでいいです。堅苦しいのは嫌いです」


「……わかりました。イルメラさん」


その呼び方が、やけに甘く聞こえた。


業務中なのに。


「ところで、侍従長の裁判の日程が決まりました」


「いつですか」


「来月の十五日。公開裁判です。ヨアヒム殿下の勅命で、市民にも傍聴が認められます」


「公開裁判か。侍従長は——」


「全面否認を続けています。しかし、証拠は十分です。レンツ局長の証言、ハンナさんの証言、偽造文書の物的証拠。三方向から固めています」


「わたしの証言も必要ですか」


「ええ。十年間の業務記録を、あなた自身の口から証言していただきます」


「十年分ですか。長い証言になりそうですね」


「定時までに収まりますか」


「収めます。わたしの記憶は、要点をまとめるのも得意ですから」


午後五時。定時退勤。


門を出ると、ノルベルトがいつもの場所に立っていた。


「今日の成果は」


「薬務室と保管室の予算を承認しました。ゲオルク爺さんの増員申請を、五年越しで通した」


「五年越し……」


「ゲオルク爺さんが生きていたら、何て言ったでしょうね」


「『やっとかい、お嬢ちゃん』でしょうか」


思わず笑った。


ノルベルトがゲオルク爺さんの口調を真似るとは。


「似てないですよ」


「自覚はあります」


「でも、嬉しいです。ゲオルク爺さんのことを覚えていてくれて」


「忘れません。あの方の副本がなければ、わたしたちの調査は成り立たなかった」


「ええ。あの人が三十年間守り続けた書架が、この国を救った」


夕暮れの空を見上げた。


高い空に、鳥が飛んでいる。


「ノルベルトさん。わたし、この仕事が好きです」


「局長の仕事が?」


「いいえ。——この国のために、正しいことをする仕事が」


「……わたしもです」


並んで歩く。


もう冬が近い。風が冷たいが、隣に人がいると温かい。


「ノルベルトさん。ひとつ提案があります」


「何でしょう」


「予算の不正を二度と起こさないために、すべての決裁文書を複写制にしたい。原本と副本を別の場所に保管する」


「ゲオルク氏がやっていたことですね」


「ええ。あの人が個人的にやっていたことを、制度にする。二重管理にすれば、一方を改竄しても、もう一方で検証できる」


「素晴らしい提案です。監査局からも支持します」


「それと——副本の保管場所は、監査局の管轄にしてほしいんです」


「事務局ではなく?」


「事務局が原本を持ち、監査局が副本を持つ。互いに牽制し合う仕組みです」


「権力の分散ですね。一人に集中させない」


「ゲオルク爺さんが三十年間ひとりで守った仕事を、組織として引き継ぐんです」


ノルベルトが立ち止まった。


「イルメラさん。あなたは——本当にこの国のことを考えていますね」


「当たり前です。わたしはこの国の局長ですから」


「局長、という言葉が、あなたの口から出ると不思議な響きですね」


「まだ慣れませんか」


「慣れました。——誇らしいです」


その言葉が、やけに胸に沁みた。


「ノルベルトさん。もうひとつ提案があります」


「まだあるのですか」


「監査局の新しい局長を、早く選任してほしいんです」


「……それは、わたしに言うことですか」


「あなたが適任です」


ノルベルトが足を止めた。


「わたしが——局長?」


「あなた以外に誰がいるんですか。前局長の教えを受け継ぎ、この調査を最後までやり遂げた人間は」


「しかし、わたしは——」


「人間関係が苦手? 知っています。でも、局長に必要なのは人望ではなく公正さです。あなたほど公正な人間を、わたしは知りません」


「……考えさせてください」


「考える時間は差し上げます。ただし——」


「ただし?」


「定時までに答えを出してくださいね」


ノルベルトが、苦笑した。


「あなたに追い詰められると、逃げ場がない」


「褒め言葉として受け取ります」


夕方、事務局に戻ると、モニカが残業時間の比較データを完成させていた。


「イルメラさん。先月と今月の比較、できました」


「見せて」


「事務局全体の残業時間が、先月比で六割減です」


「六割……」


「外交課が一番減ってます。シフト制を導入した効果ですね」


「外交課長も協力してくれたのね」


「渋々ですけど。でも、データを見たら納得してました。『残業が減っても業務量は変わらない。つまり無駄な残業をしていたのか』って」


「気づいてくれてよかった」


「薬務室はもともと残業が少なかったんですが、アーデルハイトさんが復帰してからさらに効率が上がっています」


「あの人は元々有能ですからね」


「イルメラさん。このデータ、殿下に報告しますか」


「ええ。改革の成果は、数字で示す。それが一番説得力がある」


ペンを手に取った。


母のペンだ。銀の軸が、手の中で温まっている。


このペンで、報告書を書こう。


定時退勤が、この国を変えた証拠を。



「ノルベルトさん。侍従長の裁判の日程は」


「来月の十五日。公開裁判です」


「わたしの証言の準備も始めないと」


「十年分の記憶を整理するのは大変では」


「整理は得意です。書類を分類するのと同じ」


「……あなたの頭の中は、ゲオルク爺さんの保管室みたいですね。整然と分類されて、必要なものがすぐに出てくる」


「褒めてるんですか?」


「最大級の賛辞です」


——予算の正常化は始まった。だが、本当の決着はまだ先だ。侍従長の裁判が、この国の不正に最終的なけじめをつける。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。