グレープフルーツジュース
──果てしなく続く空は、どこまでもどこまでも青かった──
──僕たちのかじる果実はいつまでもいつまでも苦かった──
「さわくん、何飲んでるの?」
女子の黄色い声に、さわくんと呼ばれた少年は爽やかな笑みを浮かべ、応える。
「濃縮還元の百パーセントグレープフルーツジュース」
すらすらと出てきた言葉に女子が驚く。
「えー! それってすっごく苦いやつじゃん」
「その苦味が乙なんだよ。コーヒーと一緒かな」
「あたし、コーヒーブラックで飲めない」
「子どもかよ」
横合いから別の女子がツッコミに入り、わやわやとさわくん──半澤通から離れていく。
半澤はストローでちゅう、と一口ジュースを飲んだ。濃縮還元のグレープフルーツジュースは先の女子が言った通り、苦い。半澤はコーヒーと表現したが、コーヒーのようなコクもなければ深みもない。ただただ苦いだけだ。人はそれを不味いという。
けれど、そんなことはおくびにも出さずに、半澤はグレープフルーツジュースを飲んだ。苦味なんてそこにないかのように。あるいは、もっと苦いものを流し込んでいるのかもしれない。
窓の外は校庭で、青い空が見える。夢のない話をすると、塵の反射だ。海と同一視される空の青だが、海は水に通る光の色の都合であって、空を映しているわけではない。ロマンも何もない、ただの理科の話だ。
ついでにロマンも夢もない話をするなら、空は果てしないが、海には果てがある。空は宇宙。どこまで広がっているかわからない未知の領域。だが、海は地球という惑星に縛られた、限りある水源である。空と違って、簡単に汚染されてしまう、儚い存在である。
空が青いのは塵の反射なわけだが、塵が多ければ多いほど、空が青くなっていくわけではなく、やはり、塵は塵。集合すれば濁った灰色になり、空気を汚染する。だが、地球上の空気が汚染されたところで、宇宙から見たら、一惑星が汚染されたに過ぎない。環境汚染が進むというのでぎゃーすかびーすか喚いている人間が、まるでちっぽけな存在のようだ。実際に宇宙全体からしたら、人間こそ塵同様の存在なのだろう。
空を見上げた半澤は、そんなことは考えていない。人間が空を見上げることになんて、大抵意味はない。それと同様に半澤は、特に意味もなく、空を見上げた。それから、ぽつりと呟く。
「……学校の窓から見上げる空は、つまらないな」
両手の人差し指と親指を合わせて、目の前に映る光景を四角く切り取る。
ここは特に立地がいいわけでも悪いわけでもない。平々凡々とした学校である。学校の窓の光景など、つまろうがつまるまいが気にしない。ただ、つまらないと呟いた半澤の声色は少し憂いを帯びていた。
そんな横顔が、女子たちからはウケがいいのだが。
「黄昏れてるさわくんもかっこいい」
「さわくんは綺麗なんだよ」
「とりあえずさわくんが飲んでたあのストローを誰か私にください」
「お巡りさん、こいつです」
「待って、別によからぬこととか企んでないから! 間接とか企んでない、私はただあのストローを家宝にぃぃ!」
「お巡りさん、やっぱりこいつです」
「無情!」
そんなコントのようなやりとりなんて、半澤には聞こえていない。
「やっぱり坂の上からの方がいいかな……」
「何の話?」
黄昏れている半澤に話しかけにいったのは、口元のほくろが特徴的な女子。半澤は振り向いて微笑んだ。
「独り言ですよ、園崎さん」
そう言って、半澤は口元に人差し指を当てる。どうやらこれ以上追及されたくないらしい。
「ふぅん……」
園崎と呼ばれた彼女──花隣は特に興味がある様子もなく、ただ聞き流した。
半澤はクラスメイトに明かしていないことがある。それは、半澤が写真を撮るのが好きであるということ。先程の四角いのはフレームを模したものだ。
半澤が写真が好きであることを知っている人物は少ない。この学校では彼の中学の先輩である写真部の部員と、彼の友人である海道美好だけだ。
それを言ったら、花隣も半澤の友人なのだが……花隣の幼なじみである美好からあることを教えられてから、彼女には打ち明けないことに決めている。
中学時代から美術系の賞を総嘗めしてきたという花隣は美術部で絵が上手い。そんな彼女には昔からこんな信念があるらしい。曰く、「写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの」と。
そんな花隣の信念を半澤は素敵だと思うし、そういう信念や根っこを持てること自体に憧れたりもする。だから、花隣を尊敬してすらいる。だが……それを肯定するには、半澤には些か、後ろめたさがあった。
半澤も写真において、中学途中で写真部を辞めるまでは右に出る者はいなかった。写真展などに入賞作品として飾られるほどに、半澤の写真の腕は確かなものだった。
一方で、あまり知られていないし、花隣ほどではないが、半澤は絵の方面にも覚えがある。あるとき、美術教員にこう言われた。「半澤くんの絵は写実画でありながら、その心を写し出しているようだ」と。「写真のようでありながら、心を惹き付ける絵」とも言われた。
それが高校になって出会った花隣に対して後ろめたさを抱くきっかけにもなった。
写真みたいな絵を描く自分……もしかしたら、写真は絵のようになっているのかもしれない、そう思っていた。
それだと、花隣の信念を真っ向から否定してしまう形になる。半澤はそんなことは望んでいなかった。……花隣のことが好きだから。花隣を傷つけるようなことはしたくなかった。
何故花隣を好きになったのかは明確に説明できない。半澤は半澤的言語でしかその「好き」という感情を表現することができない。曰く、「園崎さんの絵を描いている姿を撮りたいと思ったから」だ。……とても、実行に移す勇気などないが。
友達になれたものの、こうして何気ない会話を交わすのが精一杯。本当の気持ちを伝えるなんて、できるはずもない。何故なら──花隣は幼なじみの美好のことが好きだから。そうだとわかるからだ。
花隣に直接聞いたことはないが花隣の一挙手一投足を見ていればわかる。学年内で暗黙の了解になるほど、花隣の美好に対する好意は明瞭だ。
花隣は美人だ。大人びていて、顔立ちが綺麗だし、性格も問題ない。口元のほくろが色っぽさを演出している。それこそ「絵になる」ほどの美人だ。だから、花隣に片想いしている男子は多い。だが、美好を前にしたときの花隣を見てしまえば、そんな男子は全員、戦わずして敗北してしまう。
半澤には誰よりもそれがよくわかった。考えると、胸が痛くなる。
花隣は美好の前でしか屈託のない笑顔を見せないのだ。半澤らしい言葉で言うなら、「写真に撮りたくなるような笑顔」を。
敵わないんだなあ、と半澤は素直に思った。だから、花隣のことは諦めている。そういう男子は半澤の他にも多くいるだろう。
だが、ここで辛いのが、美好の対応だ。
美好は花隣の好意には全くといっていいほど気づいていない。むしろ、悪意を向けられていると感じているらしい。それは花隣本人の行動に起因するところがあるのでなんとも言えないが……花隣を好きだけれど諦めた男子にとって、美好のその鈍感さは手痛いものだった。どうせなら好きな人には幸せになってほしいものだが、そこにこの美好の鈍感さは花隣のことが好きな男子たちをいたたまれない気分に陥れた。半澤も例外ではない。
けれど、半澤は美好を憎んだり妬んだりしない。いつか、美好に言った通り、半澤は美好のことが好きなのだ。
依存しているのかもしれない、と半澤は思う。美好とは高校に入ってから知り合った、二ヶ月くらいの仲だ。親友、という言葉を使うのは烏滸がましい気がする。けれど、半澤にとって美好の存在はかけがえのないものだった。
それは被写体としても、友人としても、だ。他人に言えないことを明かせる仲にまでなっている。例えば、中学時代の先輩とのいざこざとか、自殺志願であることとか、リストカットをしているとか……美好の前では半澤は何も隠せなかった。隠したいとも思わなかった。
そうやってなんでもさらけ出せるようになっていって……二ヶ月足らずで、ほとんど自分の全てを知らせたような気がする。
そんなことはすぐに花隣にばれる。故に、半澤は花隣に嫉妬されていた。「あたしのみーくんをとるなんてずるい」と。とっているつもりなんて、さらさらない。
半澤は目を瞑り、グレープフルーツジュースを飲む。苦くて痛い思いを飲み下すために。




