写真と絵と
放課後。することもないなら帰ればいいのだが、なんとなく、絵を描いていた。写真で風景画を撮ることが多いので、教室の窓の外の風景を。
何の変哲もない青空。向こう側に少し緑が茂るグラウンド。校木だと紹介されたあの木は何だったかな、と考えながら、整列する木々を描いていく。
色は塗らない。水彩が好きなのだが、絵の具は美術室に管理されている。美術部員でもないのに絵の具を取りに行くなんておかしいだろう、と半澤は色は塗らなかった。代わりに鉛筆で陰影や濃淡をつけていく。空が青く見えることを念頭に、描いていく。空にはちらほら白い雲。淡い色をした空に、地面に根を張る木。疎らにグラウンドを行き交っているのはサッカー部だろうか。そんなことを考えながら描く。
絵は上手いとは言われるものの、半澤は自分で上手いとは思っていなかった。絵は目の前の光景を見ながら描き進めていくものだ。一瞬目を離すと、光景が変わっているなんてよくある話だ。半澤はここだと思ったその一瞬を写真できっちりと写す。その方が好きだ。絵は、結局のところ、自分に焼きついた一瞬を描き出しているだけで、なんだか偽物のような気がしてくる。決してそのようなことはないとわかっているのだが、個人的に納得がいかないというか。
「……できた」
一枚の鉛筆画が完成する。
上手いかどうかはわからない。そういう部分というのは受け手の感じ方だと思うから。
ふと、笑う。
「きっと、海道くんなら、さらっと上手いな、なんて言っちゃうんだろうな」
半澤から見た美好は、鈍感な分、照れもなく、こそばゆいことを言ってしまうところがある。言われた方はこそばゆくて仕方ないのだが、本人は本気で言っているのだから手に負えない。
本気で上手いとか綺麗とか言ってくれるから、それが反面嬉しいこともある。実力を認めてもらえているんだと実感できるから。あんまり率直に言われると恥ずかしいが、嘘のない言葉だからこそ、心に響くものがある。
そんな美好だから、花隣は好きなのだろうと思うが。
と、まだ青い空を見上げていると、教室に入ってくる人物がいた。
「よ、半澤。なんか珍しいことしてるじゃん」
「あ、海道くん。今日も園崎さんのモデルだったの?」
「それが、違うんだなー」
ははっと空笑いすると、美好は隣の教室を示した。
「あー、実は補習でな」
「えっ、意外。海道くん成績よさそうなのに」
美好は肩を竦める。
「社交辞令どうも。いや、成績が芳しくないというわけじゃないんだ。その、半澤だって、一回くらいやったことあるだろ? その……宿題忘れたんだよ」
照れたようにそっぽを向く美好を前に、場違いではあったが、半澤はこう口にした。
「見つけた」
ぱしゃり。
携帯電話のカメラ機能で、珍しい表情の美好を撮る。美好は一瞬の硬直の後、なんでもないように写真を保存する半澤を揺さぶった。
「お前な、なんてもん撮ってんだよ!」
「え?」
「え? じゃない。消せ!」
「そんな。いいのが撮れたのに」
「消せってば!」
むきになる美好に、半澤は悪戯っぽい笑みで返す。
「嫌だよー、この写真を園崎さんに売るまでは」
「なんでよりによってリンに売るんだよ!」
また笑い話のネタにされるだろ、という美好の前に、半澤はぽんと今描いた絵を差し出した。
美好は虚を衝かれ、それから絵に見入る。そんなにがっつり見られるとは思っていなかったので、半澤は半歩後ろに退いた。……少し、怖い。
おかしいな、絵を評価されることが怖いだなんて、今までなかったはずなのに。半澤にとっては絵より写真の方が評価されたいものである。絵は描けるから描いているだけであって……
絵をじっと見入る美好の姿にだんだん心音が五月蝿くなっていく。まさか、ただ絵を見られるだけなのに、こんなに緊張するだなんて思っていなかった。
美好の審美眼は確かだと思う。なんだかんだ言って、花隣の絵はすごいというし、半澤の渾身の一枚も褒めてくれる。ああだこうだと言いはするが。美好が半澤の写真を貶したことはない。
ただ、絵はどうだろう。既に花隣という比較対象がいる中で、美好は半澤の絵をどう評価するのか、はっきり言って不安だった。絵にこんなに不安を抱いたことはないというのに。
美好は長い時間をかけて、半澤の絵をまじまじと見ていた。その真っ直ぐな目がどうしようもなく怖い。絵に写真ほどの神経は削っていないが、評価されるのは怖かった。このときばかりは。
息の詰まるような空気の中、やがて、美好が絵から目を離す。すぐに半澤と視線がかち合った。その瞬間、無意識に背筋を伸ばしたような気がする。
徐に美好は口を開いた。
「綺麗な絵だな。鉛筆なのに、不思議だ。空が青い」
半澤は目を見開いた。ついでに、両の目から涙を溢れさせていた。美好が慌てる。まさか泣かれるとは思っていなかったのだろう。
「お、おい、どうしたんだよ? いきなり泣いて」
「……いや、海道くんって、すごいなぁって思って」
涙を拭いながら、口にする。
「海道くんの言った通り。僕は空を青く描きたかったんだ。鉛筆しかないけど、青く描きたかったんだよ」
「おう」
美好はこくこくと頷く。
「見えるぜ。しっかり青い。鉛筆だけどな」
それからふっと笑い、こんなことを口にする。
「リン、この絵見たら、嫉妬するだろうな」
「なんで?」
訊くと、美好はからからと笑った。
「リンの信条は知ってるだろ?」
「ええと、『写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの』だっけ」
「そうそれ」
とん、と美好は半澤の絵を示す。
「お前の絵は、それを体現している」
「でも、これは風景画で」
「それが何だ」
美好は半澤が数分前まで見上げていた空を仰ぐ。
「景色や風景、動物じゃないものになんか、感情なんて宿らない。それも一種の真理だろう。だけどな、絵描きはそこに自分の感情を込めてこそ絵描きなんだ。ま、リンからの受け売りだけど」
でもさ、と美好は続ける。
「美術の授業受けてても思うよ。ゴッホの『ひまわり』には、ゴッホがひまわりに託した思いがそこに宿っているからこそ名画なんだって。ピカソの『ゲルニカ』だってそうだろ? あれは確か、戦争の残酷さを描いたんだったか。つまりさ、リンの言う信念ってそういうところにあるんじゃないかって思うんだ。絵が人の心を打つのはさ、そこに剥き出しの心っていうか……魂みたいなのが宿って、強く存在を主張してるからだろ? リンが目指すのはそこだってことなんだと思う」
……女心に疎い割に、的を射たことを言う。やはり、半澤が睨んだ通り、美好の審美眼は一般から逸脱している。感性が豊かなのだろう。
そんな美好の才能に半澤が嫉妬しているところまで、美好は見抜いているのだろうか。美好は半澤を引き合いに出して、自分の写真なんてまだまだだということを言っているが、半澤からすれば、美好の写真の方がよっぽど素晴らしい。何の飾り気もない分、独自に磨かれた素直な感性で撮られた写真は宝石よりも煌めきを放つ。
なんてことを思うのは、半澤自身の感性が独特だからかもしれないが、美好の写真を見るたび、一枚一枚大切に撮っているんだな、ということがよくわかる。
姉に二つ折携帯を旧世代の遺物と言われたことに対抗心を燃やして、なんて子どもっぽいと美好は言うが、それも立派な信念だと思う。信念があるからこそ、絵は絵になり、写真は写真になるのだと思う。
対して、半澤はどうだろうか。他人に胸を張って言えるような信念はあるだろうか。……いや、ない。
言えてもせいぜい、自分が写真がどうしようもなく好きだ、ということくらいだろう。
そんなことから劣等と壁を感じ、半澤は少し胸が痛んだ。また涙が流れそうになるのを空を見上げて誤魔化した。
胸の透くような蒼天が目に突き刺さって眩しい。だから、涙が出るのだ、と。




