第2部 第19話「人間(じんかん)、至る所に青山あり」前編
CH1
-アシュフォード研究所食堂-
食堂の照明は、いつもより暖色に落とされていた。
天井から吊るされた簡易装飾が揺れ、わずかな非日常を添えている。
研究所の調理チームが手配した料理が、ビュッフェ式に並んでいた。
炭酸やジュース、アルコールも一通り揃い、皿やカップがテーブルに雑然と置かれている。すでに何人かが料理へ手を伸ばしていた。
カイルとアキトは炭酸水のボトルを抱え、中央のテーブルへ向かう。
「にぎやかだな」
「うん……思ったより本格的」
アキトは少し緊張した様子で答えた。
そのとき、低い声が場を制した。
「――静かに」
グラスを手に、バニングが立ち上がっていた。
周囲を一度見渡す。それだけで、食堂のざわめきが静まっていく。
「……ええと、今日のこの会は、CIARの協力と――我々ゴースト第1・第5チームの働きによって得られた勝利を祝うものだ」
あまりに真面目な語り口に、数人が小さく笑みを交わした。
だがバニングは構わず続ける。
「ツェアビルド戦は終結した。犠牲はあったが……我々は守るべきものを守った」
その言葉に、誰かが静かに頷いた。
「個々の功績をここで語るには時間が足りん。だが言っておく。
お前たちは、誇っていい。よくやった」
言葉を切り、バニングはグラスを持ち上げる。
「……乾杯の音頭など柄ではないが。こういうときくらいはな」
珍しく、わずかな笑みが浮かんでいた。
だが彼は、いったんグラスをテーブルに置く。
「……まず、ひとつだけ」
低く、確かな声だった。
「我々は勝った。ツェアビルドを倒し、世界を守った。
だが、その代償に――ノアを失った」
空気が一瞬で冷えた。
バニングは視線を落とす。
「……黙祷」
椅子を引く音すらない。
全員が静かに目を閉じた。
白いクロスのかかった席が一つ。
空の皿とグラスが置かれ、椅子はテーブルへ向けられている。
その中央に、一輪の白い花。
数秒の静寂が流れた。
やがてバニングが顔を上げる。
「ノアのためにも、我々は生きる。そして戦う。
その誓いを胸に――今日ここで、勝利を祝おう」
再びグラスが掲げられる。
「この戦いに。そして……ノアに。乾杯」
「乾杯!」
グラスの音が一斉に鳴り響いた。
張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていく。
やがて食堂には、明るい笑い声が少しずつ戻っていった。
***
祝勝会は、笑いと歓声に包まれていた。
アキトが背伸びした口調でアリウスに食ってかかり、バニングはグラス片手に部下と肩を組んで笑っている。いつもの食堂とは思えない賑わいだった。
そのとき、バニングがふと思い出したように言った。
「そうだ、面白い写真があるぞ」
制服の内ポケットから、小さな写真を取り出す。
やや色褪せた1枚だった。
3人の若者が肩を組んで写っている。
「これ、見てみろ」
アカネ、ニーナ、エミリーの前に差し出された。
アカネが目を細める。
「一番右の人、見覚えがあるような……」
「分からんか? こいつは……」
エミリーが息を呑んだ。
「……まさか!」
「そう、若き日のスタンリーだ!」
「えーっ!」
3人の声が揃った。
ニーナが写真を凝視する。
「うそ……しかも、やせるとイケメンじゃない?」
「確かに! もったいないわね〜」
アカネが楽しそうに続ける。
「2人とも言いすぎ!」
エミリーが即座に突っ込んだ。
4人は顔を見合わせ、笑い合う。
その少し離れた席で、当のスタンリーは妙に早いペースで酒をあおっていた。
顔は赤く、視線は宙を彷徨っている。
グラスを勢いよく置き、深く息を吐く。
何かを振り切るように、ふらりと立ち上がった。
向かった先は――ニーナだった。
「ニーナ!」
突然の声に、ニーナが振り返る。
「え……なに?」
「俺と、結婚してくれ!」
右手が差し出された。
会場の空気が、凍る。
「は?……え……」
完全に虚を突かれた顔だった。
数秒の沈黙。
やがてニーナが眉を寄せる。
「っていうか……あまり親しくない間柄で、酔ってプロポーズって……ダサい」
スタンリーの顔が曇った。
「そうね」
アカネがすぐに追撃する。
「親しい仲なら、酔って素直に……ってのも分かるけど」
さらに表情が沈む。
エミリーも静かに続けた。
「心理学的にも、酔った勢いでのプロポーズは判断力が鈍るわ。
“計画性ゼロの本音”じゃ困るもの」
スタンリーの表情が、見る見る沈んでいく。
それでも差し出した手は引っ込めなかった。
そのとき、ニーナが例の写真を手に取る。
「でも……この写真のときみたいに痩せたら、考えても良いわよ」
スタンリーの目が輝いた。
「よっしゃ! 式場はどこにしようか!」
そのままニーナの手を握る。
「いや、まだ“考える”って言ってるだけでしょ! 気が早い!」
ニーナが顔を赤くして抗議する。
「痩せるなんて簡単だ! 愛は……愛は時空を超えるんだ!!」
唐突な叫び。
一瞬の静寂のあと、会場は爆笑に包まれた。
笑いの渦の中、アカネがグラスを手にぼそりと呟く。
「でも、女って……言葉にしてくれるのは嬉しいよねー」
ちらりと、カイルを見る。
カイルは飲みかけのグラスを持ったまま、視線を逸らした。
それを、アリウスが見逃すはずがない。
「……お前、まだアカネに何も言ってないのか?」
「……あ……いや、まあ……」
歯切れの悪い返事だった。
アリウスが顔を寄せる。
「今からでも俺と変われよ」
冗談とも本気ともつかない声音。
カイルは思わずグラスをこぼしそうになる。
だが、顔は笑っていた。
アカネがくすくすと笑い、アリウスは肩をすくめてグラスを傾ける。
食堂のあちこちで、再び温かな笑いが広がった。
喧騒から少し離れた隅のテーブル。
ヴィクターが車椅子をわずかに動かし、隣のエミリーへ声をかける。
「なあ、俺の義足、やっぱりレーザー仕込みで頼む。できれば格納式で」
「……はあ? 何言ってるの。これでも医療機器のエンジニアなんだけど」
「……ちっ、ロマンが通じねえ」
「ロマンで命張るような人、嫌いじゃないけどね」
「……お?」
「冗談よ。足にレーザーなんて付けたら、保険下りないわよ」
ヴィクターはわずかに眉を上げ、
笑いを噛み殺すようにグラスを傾けた。
***
夜も更けていた。
それでも研究所の食堂には、まだ賑わいの余韻が残っている。
マルコムはグラスを片手に、隅に立っていた。
輪の中には入らず、静かに場の様子を眺めている。
ふと視線の先に、片付けを手伝うニーナの姿があった。
マルコムは迷うように一歩踏み出す。
「……ニーナ」
声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。
マルコムの表情を見て、すぐに何かを察したようだった。
「なんですか?」
数秒、言葉を選ぶ沈黙が落ちる。
やがてマルコムは目を伏せた。
「ノアの件だ。……改めて、謝らせてくれ」
ニーナはその言葉を、淡く微笑んで受け止めた。
「……そんなの、もういいですよ」
「いや、そうは言っても……カイルをこの世界に連れてきたのは私だ。
それでツェアビルドが現れた。奴が現れなければ……ノアは生きていた。
……その責任を、私は忘れていない」
ニーナは少しだけ視線を逸らす。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、ノアがいなくなったのは悲しかったです。何度も夢に見ましたし、今も心に残っています」
言葉を切り、まっすぐにマルコムを見る。
「夢の中で、時々分からなくなることもあります。
自分が誰なのか、どこに立っているのか。
……こうなる可能性は、分かっていました」
一拍置く。
「でも、この世界で私は人を好きになることを知ったんです。……カイルがいたから。そういう感情を、ちゃんと感じられました」
マルコムは何も挟まない。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「そして、そんな自分を……好きになれたんです。前より、少しだけ。
だから――この世界が、私は好きなんです」
マルコムは目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……若いのに、よくそこまで考えられる。立派だと思うよ」
「それに……」
ニーナは少し照れたように笑い、肩をすくめる。
「自分を好きだって言ってくれる人も現れましたしね」
マルコムの表情が、わずかに揺れた。
だがすぐに柔らかく笑い、グラスを軽く傾ける。
やがて表情を引き締め、深く頭を下げた。
「……改めて、ノアのことは申し訳なかった」
ニーナは、丁寧に会釈を返す。
外はすでに深い夜だった。
それでも食堂には、どこかあたたかな空気が静かに満ちていた。




