第2部 第15話「Parallel Drift(2)」前編
CH1
-7年前、アリウスの世界-
夕方。
作業場の戸を開けると、油の匂いがふっと鼻をかすめた。
ロイクは工具の手を止め、こちらを見るなり眉をひそめる。
「……何があった。酷い顔をしているぞ。」
「……アカネが……」
言葉が続かなかった。
それでも、あの日の出来事を断片的に話していく。
ロイクは途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
やがて深く息を吐き、短く言う。
「……確かにニュースでCIARの火災事故を見たな。」
作業場に静寂が落ちた。
壁の時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
ロイクはゆっくり立ち上がり、真っ直ぐこちらを見た。
「……構えろ。稽古をつけてやる。」
「いまはそんな気分じゃ……」
「いいから構えろ。
心が動かないときは、体を動かすんだ。」
拒む気力もなく、俺は弱々しく構えを取った。
ロイクは一歩前へ出て、静かに言う。
「……来い。」
八極拳の基本姿勢から踏み込み、拳を突き出す。
ロイクは何も言わず、その拳を受け止めた。
続けざまに連撃を放つ。
足裏で床を押し、腰を捻る。肩から肘へと力を流す。
拳はまっすぐ走り、次の瞬間には肘打ちへ変わる。
ロイクは逸らさない。すべて受け止める。
裏拳。
衝拳。
崩しの肩当て。
何度打ち込んでも崩れない。
それでもロイクは反撃せず、ただ黙って受け続けていた。
打ち込むうち、不意にアカネとの記憶が胸に浮かぶ。
初めて2人で見た映画。
夕暮れの公園で並んで座った日。
大学へ進むと話したときの、誇らしげな顔。
未来を語り、笑っていた声。
視界が滲んだ。
頬を伝う涙を拭う暇もなく、拳を突き出す。
「……っ!」
拳が震える。
呼吸が乱れ、喉が詰まる。
それでも拳を振るう。吐き出すように、何度も。
ロイクは一度も声を上げず、ただ受け続けていた。
まるで、俺の痛みそのものを受け止めるように。
いつの間にか、嗚咽が漏れていた。
「……っ、う……う……っ……!」
拳の重さも、涙の熱さも分からない。
ただ腕を振り続ける。
ロイクは黙ったまま拳を受け止める。
その掌は父でも兄でもない。ただ“支える者”の手だった。
やがて力が抜け、俺はその場に膝をついた。
ロイクは何も言わず、静かに息を吐いた。
***
そのあと――ロイクとどう別れたのか覚えていない。
何を話し、何を考え、どんな足取りで歩いたのかも思い出せなかった。
気がつけば夜だった。
俺はアシュフォード研究所の古い研究室に立っていた。
扉の鍵をどう開けたのかも分からない。
そもそも、どうやって研究所に入ったのかさえ思い出せなかった。
室内は薄暗い。
照明の半分が落ち、影が静かに床へ沈んでいる。
父が生前、誰にも見せなかった実験機材が、そのまま積まれていた。
部屋の隅に、埃をかぶったアタッシュケースが置かれている。
何かに導かれるように近づき、俺は無意識に蓋を開けた。
――その瞬間。
低く唸るような機械音が、静かな研究室に響いた。
ケースの内部で装置が起動する。
隣の空間が、青白くゆらりと歪み始めた。
やがてそこに、楕円形の光が浮かび上がる。
人1人が通れるほどの大きさだった。
光は静かで、冷たい。
それでいて、どこか美しかった。
触れれば消えてしまいそうな透明感。
だが、なぜか目を逸らすことができない。
胸の奥で、誰かが囁くような感覚があった。
呼ばれている。
そう思った。
気づけば俺は――
その光の中へ、足を踏み入れていた。
***
光の向こうは、公園だった。
見覚えのある場所だった。
アカネと何度も歩いた道。何度も見上げた街路樹の影。
――なのに。
アシュフォード研究所が見当たらない。
いつも視界の端にあったはずの巨大な建物が、どこにも存在していなかった。
胸の奥で、ざわりと違和感が走る。
さらに歩くと、CIARの建物が見えた。
だが掲げられている名前が違う。
見慣れたロゴはなく、代わりに刻まれていたのは「再生医療院」という聞いたことのない名称だった。
まるで――
この街そのものから、俺の知る“何か”だけが欠けている。
俺は立ち止まり、知らず息を呑んでいた。
ここは……俺のいた世界とは違うのか?
確信は持てない。
だが否定できないほどの“ズレ”があった。
しばらく街を歩き回り、その違和感だけを胸に抱えたまま、再び青白い光の場所へ戻る。
光をくぐると、そこは元の古い研究室だった。
足元には、先ほど起動した小型装置が置かれている。
それを見下ろしたとき、ひとつの仮説が頭に浮かんだ。
――この装置は、世界を越えた?
俺は研究室の資料を片端から調べ始めた。
散乱したファイルの奥から、父の古いノートが見つかる。
そこに書かれていた装置の名前。
『Parallel Machine』
さらに読み進めていくうちに、父の研究の意図が見えてきた。
父――マルコム・アシュフォードは、母を救うために“時間を越える装置”を作ろうとしていた。
だが時間は越えられず、辿り着いたのは――
同時に存在する別の世界へ接続する技術だった。
俺は震える息を吐いた。
――これで。
――この装置で、アカネに……また会えるかもしれない。
胸を焼く絶望の中で、初めて小さな熱が灯った。
***
俺は夜通し、研究室の資料を読み続けた。
並行世界の存在、パラレルマシンの構造、父の研究の断片。
読み進めるほど、胸の奥の熱が強くなっていく。
(これだ……これしかない。これで、アカネに――)
やがて朝日が差し込むころ、俺はロイクの家の前に立っていた。
「……なんだ? こんな朝っぱらから。しかも、ずいぶん良い顔してるじゃねぇか。」
「ロイク、聞いてくれ!」
「何をだ。」
「親父が……すごいものを開発していた。パラレルマシンだ!」
ロイクの眉がわずかに寄る。
「パラレル……? なんだそりゃ。」
「並行世界へ行ける装置だ!」
「ほう。そりゃまた……冗談みてぇな話だな。」
「冗談じゃない。こいつを使えば、別の世界のアカネに――会いに行ける!」
その瞬間、ロイクの表情から色が消えた。
「……正気か。会ってどうする?
そのアカネは“この世界のアカネ”じゃない。お前のことなんぞ知らんぞ。」
「……確かに、そうだな……」
俺は一度うつむく。
だが次の瞬間、胸の奥で火花のような考えが弾けた。
「──そうだ。アカネと“俺”が生きている世界を探せばいい。
その世界の俺とすり替わるんだ。
そうすれば、その世界でアカネと生きられる。」
ロイクの目が細くなる。
「落ち着け、カイル。……すり替わる? どうやってだ。
その世界の“お前”をどうするつもりだ。」
「人格移植装置があれば……そいつに俺を上書きできる。
……いや、殺してしまった方が早いか――」
その瞬間、空気が軋んだ。
ロイクの声は低く、怒りを押し殺していた。
「自分が何を言っているのか分かっているのか。」
「ああ。分かってるよ。」
乾いた声だった。
狭い部屋で、ロイクの瞳と俺の瞳がぶつかる。
ロイクがゆっくりと構えた。
「……どうやら本気で言っているらしいな。」
「なんだよ、急に。言ってることはそんなにおかしくないだろ。
俺はただ、アカネにもう一度会いたいだけ――」
言い終わる前に拳が飛んできた。
反射的に身をかわす。
「そんなことのために八極拳を教えたんじゃない!!」
ロイクの怒号が部屋を震わせる。
続けざまに蹴りが飛ぶ。俺は後ろへ跳んだ。
「いいか、カイル!!」
壁が揺れるほどの声だった。
「人生はな、何があっても続きがある。
どんなに辛い時でも……まだ続くんだ。
“失ったから終わり”だなんて、そんな単純な理屈で人生を投げ捨てるな!」
「……心外だな。分かってくれると思ったのに。」
俺は静かに構えた。
ロイクも迷いなく構える。
「目を覚まさせてやるぞ、カイル!」
ロイクが踏み込む。
その拳を受け流し、俺は全力の靠法を打ち込んだ。
衝撃でロイクの身体が弾かれ、壁へ叩きつけられる。
「う……っ」
「大丈夫か、ロイク。」
ロイクは肩を震わせながら、ゆっくり顔を上げた。
「……強くなりすぎたな、お前。
だが――覚えておけ。」
「?」
「お前を止める者は……必ず現れる。」
その言葉は呪いのように重く、静かに胸へ沈んだ。
だが、そのときの俺には理解できなかった。
アカネに会える。
それだけで、胸がいっぱいだった。




