第2部 第11話「黒い影」後編
次の刹那。
音すら置き去りにして、影が跳ぶ。
「……っ!」
反射的にTSRを引き抜き、受け止める。
だが衝撃は想像を超えていた。
腕の骨が軋み、足元のアスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れる。
「カイル!」
ヴィクターが左腕を構えて割り込み、横合いから拳を叩き込む。
しかし影は微動だにしない。
逆に肘を払われ、ヴィクターの身体が弾き飛ばされる。
右腕のない身体は受け身を取る間もなく、街路灯の支柱に叩きつけられた。
鈍い音が夜気に響く。
「速すぎる……!」
息を切らしながら、カイルはTSRを振るう。
だが影は軌道を正確に読み取り、半歩でかわすと即座に反撃。
漆黒の腕がカイルの胸元を掠め、冷たい痺れが全身を走った。
ヴィクターが再び距離を詰め、左腕で連打を叩き込む。
拳は確かに命中している。
それでも触れた部分は黒い靄へと崩れ、次の瞬間には、何事もなかったかのように再構築されていた。
「……物理が通らないのか……!」
ヴィクターの表情が、険しく歪む。
影は2人を同時に捉えるように間合いを詰めた。
圧倒的な速度と質量。受けた瞬間、全身が押し潰される錯覚と、むき出しの殺気が襲いかかる。
カイルとヴィクターは背を合わせ、防御姿勢を取った。
だが、次の一撃を受け切れる保証はない。
黒い影が再び動こうとした、その直前。
低く唸るエンジン音とともに、装甲車が交差点へ滑り込んだ。
車体側面のハッチが跳ね上がり、第5チームの重装兵が次々と飛び出す。
「第1チーム、下がれ! ここは俺たちが押さえる!」
重厚な自動小銃とショットガンが一斉に火を噴いた。
曳光弾が夜を切り裂き、火花と薬莢が雨のように散る。
榴弾が路面を抉り、爆炎と粉塵が視界を覆った。
それでも影は止まらない。
揺らぐ靄のまま爆煙を突き抜け、至近距離の兵士の銃口を掴み、そのまま捻じ曲げた。
横合いから体当たりを仕掛けた兵士も、影の腕に迎え撃たれ、胸部装甲を紙のように抉り取られる。
「押し返せない……!」
血の気を失った声が、無線越しに響いた。
その瞬間――
鋭い銃声が、夜空を裂いた。
ビルの屋上。
風を切るようなスコープ調整音とともに、第5チームの狙撃手ノアが引き金を絞る。
「カイル、ヴィクター、無事か!」
無線に飛ぶ叫び。
弾丸は風を裂き、正確に黒い影の左肩を貫いた。
鈍い衝撃音。
影の動きが、初めて止まる。
肩口から黒い靄が噴き出し、輪郭が不規則に崩れた。
「……やったか」
ヴィクターが、息を詰める。
だが影は、ゆっくりと顔を上げた。
深い闇の奥で、赤黒い光が脈打つ。
次の瞬間、地面に散らばる瓦礫へと腕を伸ばした。
ギシリ、と不快な音。
片腕で容易く引き抜かれたのは、人1人を押し潰せるほどの巨大なコンクリート塊だった。
「……嘘だろ……」
カイルが目を見開く。
次の刹那。
巨塊は矢のような速度で、屋上へ向けて投げ放たれた。
空気を裂く轟音が、ノアの位置を覆い尽くす。
「ノア、下がれ!」
ヴィクターの声が響く。
ノアは反射的に転がり、回避を試みた。
だが瓦礫は逃げ場を読んでいたかのように進路を塞ぎ、そのまま直撃する。
砕けた破片が四散し、衝撃で身体が仰け反る。
狙撃銃が手を離れ、屋上の縁を転がり落ちていった。
「……っ……!」
ノアの口から、声は漏れなかった。
崩れ落ちた身体が屋上の影に沈む。
同時に、戦場から音が消えた。
そして次の瞬間。
黒い影は、何事もなかったかのように、再びこちらへ歩を進めてきた。
***
「ノアァ――――ッ!」
カイルの絶叫が、夜気を震わせた。
その声に呼応するように、黒い影が突進する。
第5チームの隊員たちは必死に火線を張るが、銃弾の嵐は靄を裂くだけで、形を削ることができない。
影は弾道の隙間を縫って迫り、腕や脚を無造作に粉砕しては、兵士たちを地面へ叩き伏せていく。
割れたフェイスガードの奥から、呻き声が濁った息とともに漏れた。
硝煙と鉄の匂いが空気を満たし、戦場は瞬く間に地獄絵図と化す。
「くっ……!」
ヴィクターが左腕で影の一撃を受け止めた瞬間、骨伝導のような重い衝撃が全身を貫いた。
義肢の金属が悲鳴を上げ、彼は片膝をつく。
続けざまに肘打ちが側頭部を捉え、視界が白く弾けた。
義体の警告灯が赤く明滅し、動作が完全に停止する。
ヴィクターは操り糸を断たれた人形のように、路面へ崩れ落ちた。
孤立したカイルへ、黒い影がにじり寄る。
空気が圧縮され、呼吸が途切れた。
触れた瞬間――
頭蓋の奥で、見えない鉤爪が意識を引き裂くような感覚が走る。
脳の深層に沈んだ記憶と感情が、無理やり表層へ引きずり出され、何かに絡め取られていく。
(……なんだ……これは……?)
視界の縁が暗く滲み、音が遠のいていく。
足元の感覚が失われ、立っているのか、倒れているのかさえ分からない。
目の前の影の中心――赤黒く脈打つ光だけが、不自然なほど鮮明に浮かび上がっていた。
「……やめ……ろ……!」
喉からこぼれた声は、自分のものとは思えないほど掠れている。
必死にTSRを振るうが、触れた瞬間、武器は靄に呑み込まれ、跡形もなく消えた。
全身の奥から、人格そのものが静かに、しかし抗えない力で引き剥がされていく。
記憶が1枚、また1枚と剥離し、色も形もない虚無へ沈んでいく。
抵抗するほど、頭の奥に鈍い痛みが広がり、思考はさらに脆く崩れていった。
黒い靄が首元まで迫り、意識はほとんど闇に沈みかけていた。
赤黒い脈動が、視界の中央で異様な存在感を放つ。
次の瞬間には、自分という存在が完全に終わる――
――轟音。
横合いから、鋭く切り裂く風圧が叩き込まれた。
黒い靄が一瞬で吹き飛び、カイルの身体を締め付けていた冷たい感触が消える。
「……っ!?」
反射的に息を吸い込む、その視界を、閃光が横切った。
黒い影の胴体を、真紅の光が一直線に薙ぎ払っていた。
衝撃で影は数メートル後方へ吹き飛び、街路灯をなぎ倒して地面に叩きつけられる。
黒い靄が暴風のように散り、影は形を保てないまま、低い唸りを漏らした。
カイルは咄嗟に、光の主へ視線を向ける。
街灯の逆光に立つ、長身の人影。
フードの影に顔は隠れ、目元すら見えない。
だが、両手に握られたそれ――紅く輝くTSRだけが、異様な存在感を放っていた。
胸の奥に、かすかな既視感が走る。
「……よう、兄弟。」
その声に、カイルの心臓は、一瞬だけ鼓動を忘れた。




