第2部 第5話「救えた命、救えなかった命」後編
CH2
-ゴースト本部格納庫通路付近-
工具の音が断続的に響く整備エリアを抜けた先、通路の陰で1人、壁にもたれている影があった。
カイルが足を止めると、ノアが気づいて軽く片手を上げる。
「おう。出発前に捕まってくれて助かるわ」
「……何かあったのか?」
ノアは一瞬だけ視線を逸らし、静かに息を吐いた。
「……ニーナのことだ。
今回の潜入作戦、あいつ……自分から立候補したらしいな」
カイルは壁に背を預け、わずかに目を細める。
「ああ。“ブラッククリニックは許せない”って言ってた」
ノアは小さく眉を寄せ、諦めにも似た息を漏らした。
「……お前になら、話してもいいと思ってな」
そう言って、胸ポケットから一枚の写真を取り出す。
指先で軽く整えるように撫でてから、カイルへ差し出した。
「……これだ。俺と、ニーナと……ステラ」
カイルは写真を受け取り、視線を落とす。
並んで笑う3人。
中央にノアが立ち、その左右に、2人の少女が肩を寄せるように写っていた。
ノアが写真の端を指で示す。
「髪が短い方がステラだ。
長い方が……ニーナ」
「なるほど……」
そう言いかけたところで、カイルはほんのわずかに眉を寄せた。
(……ん?)
写真の中の2人の少女。
どこか似ている。
年の差のせいか、雰囲気のせいか。
はっきりと言葉にできない“引っかかり”が、指先に残った。
だが、その違和感を口には出さず、写真を丁寧にノアへ返す。
「……そうか。可愛らしい姉妹だな」
ノアは小さく頷き、
「……ああ」
とだけ答えた。
その声の奥に、何かを強く押し込めている気配があることに、カイルはまだ気づいていない。
「ああ……。
……けど、もういない」
その一言に、カイルは息を呑み、言葉を失う。
「……」
ノアは写真に視線を落としたまま、静かに続けた。
「ニーナとステラは仲が良かった。
よく2人で俺に張り合ってきてな。
……でも、どっちも俺の、大切な妹だった」
カイルは小さく頷き、何も言わずにノアの次の言葉を待った。
「6年前のことだ。家族で旅行に行ってて……」
そこでノアは、いったん言葉を切った。
まぶたの裏に浮かぶのは、消えてしまったはずの柔らかな朝の光だった。
「……出発する前のこと、今でも覚えてる。
父さんはやたら張り切って、意味もなく早起きしてさ。
母さんは“まだ時間あるでしょう?”って文句を言いながら……
結局、誰よりも早く荷物を車に積んでた」
ノアの口元に、ほんの一瞬だけ、微かな笑みの影がよぎる。
「ニーナは例によって本を読みながら、
“目的地に着くまでに読み終えたいから急いで”なんて言ってた。
ステラは……はしゃぎすぎて朝ご飯をこぼして、
母さんに叱られて泣いて……でも、すぐに笑って。
俺は俺で、その騒ぎを聞きながら
“またかよ”って、ぼやいてた」
指先が、写真の縁を軽く押す。
「……あんな、どうでもいいやり取りが、
今思えばどれだけ幸せだったのか……
あのときは、分からなかった」
ノアは小さく息を吸い、静かに続ける。
「車に乗ってからも、ステラはずっと窓の外を見て、
“雲が山みたい”とか、“あれ絶対、動物の形だよ”とか言ってな。
ニーナはニーナで、母さんと目的地の食べ物の話をしてた。
父さんは“帰りは温泉でも寄るか”なんて言って……
本当に、なんでもない家族旅行だった」
そこまで語ったところで、ノアの声がわずかに低く沈む。
「……けど、その日が、
俺たち家族の“終わり”になった」
***
ノアは写真を指先でなぞりながら、遠い景色を見るように口を開いた。
「……天気のいい日だった。
渋滞もなくて、父さんはご機嫌でさ。
母さんは助手席で地図アプリをいじって、
後ろではニーナとステラが、またどうでもいいことで騒いでた」
かすれた笑みが、ほんの一瞬だけ口元に浮かび、すぐに消える。
「いつも通りだった。
本当に、ただの“普通”だったんだ」
言葉を置き、ノアは短く息を吐く。
その“普通”が、どれほど遠いものになったのかを噛みしめるように。
「……異変に気づいたのは、ほんの一瞬だ。
自動運転の補助AIが、急に速度を落とし始めて……
いや、“落としたつもりになっていただけ”だったんだろうな。
実際の車体は、減速していなかった」
カイルが眉をひそめる。
「制御の錯乱……か」
ノアは静かに頷いた。
「ああ。
対向車線に配送ドローン車が来ていて……
そいつの回避アルゴリズムも、同じパッチで狂ってたらしい。
どっちも、“避けたと誤認したまま”直進した」
その結果がどうなるかは、言わずとも分かるほど単純で、残酷だった。
「父さんが手動に切り替えようとした。
……でも、間に合わなかった。
視界が白く弾けて、衝撃で車は横転した」
言葉は淡々としている。
だが、その奥には押し殺した震えが、確かに滲んでいた。
「……気づいたら、車内はめちゃくちゃだった。
母さんは……その時には、もう息をしていなかった。
父さんは血だらけで、意識も半分なくて……
ハンドルに身体を預けるようにして、動かなかった」
カイルは静かに目を伏せる。
「……ニーナは?」
ノアは一度息を吸い、短く吐いた。
「ひどい状態だった。
でも……まだ、息はあった。
逆にステラは、見た目はほとんど無傷でさ。
……ただ、頭を強く打ってた。
呼んでも、叫んでも、何の反応もなかった」
握った写真の端が、ノアの指先でかすかに震える。
「救急ドローンが来て、病院に運ばれて……
そこで、全部言われた」
淡々とした声。
だが、その静けさが、かえって痛みを際立たせていた。
「母さんは死亡。
父さんは脊椎損傷で、半身不随。
ステラは脳死。俺は脚の骨折で済んだ。
ニーナは……身体が、もうどうにもならない状態でな。
あと数時間も持たないって言われた」
カイルは言葉を失ったまま、ただノアの語りを受け止めていた。
――その頃の記憶を、ノアは静かに辿っている。
柔らかな光が、まぶた越しに射し込んだ。
薬品の匂いと、人工呼吸器が刻む規則的な吐息音。
そのどこか遠い世界の縁から、ニーナはゆっくりと浮かび上がるように意識を掴んだ。
「……ニーナ」
低く、押し殺した声。
視界はまだ霞んでいるのに、その声だけははっきりと届いた。
「ノア……?」
言葉を発した瞬間、喉がひりつく。
ノアが椅子から身を乗り出してきた。
「大丈夫だ。意識は戻ってる」
やがて焦点が合い、白い天井が視界に入る。
その下で、ノアが目の下に深いクマを作り、何日も眠っていない顔でこちらを見ていた。
「……ここ、病院……?」
ノアはゆっくりと頷く。
その仕草が、妙に重かった。
ニーナは視線を巡らせ、喉の奥が自然とひりつくのを感じる。
「お父さんと……お母さんは?」
ノアは一度だけ目を閉じた。
ゆっくり開いたその瞳に、わずかな翳りが宿る。
「……母さんは、だめだった。
父さんは生きてる。
でも……下半身の感覚は戻らないってさ」
ニーナは息を呑んだ。
だが、胸の奥にはまだ、探している名前があった。
「……ステラは?
ステラは、どこ……?」
ノアは答えなかった。
代わりに、ベッド脇の棚から小さな手鏡を取り上げる。
「ニーナ……落ち着いて聞いてくれ」
胸の内を、不吉な予感が締め上げる。
ノアはその鏡を、重石を置くように、静かに差し出した。
震える指で受け取る。
ニーナは、ゆっくりと鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは――
自分ではない顔。
いつも幼い笑みを浮かべていた、
妹・ステラの顔が、鏡の中でこちらを見つめていた。
「……え?
これ……ステラ……?
どういう……こと……?」
声が震え、言葉が追いつかなかった。
ノアは両手を膝に置いたまま、その指を固く握りしめて言った。
「事故で……お前の身体は、もう数時間ももたなかった。
医者が言ったんだ。“助けられる人格は、ひとつだけだ”って」
ニーナは息を呑み、ただその先を待つしかなかった。
「ステラは……身体は無事だった。
でも、頭を……強く打ってた。
脳の活動は、完全に止まっていた。
医者は、『もう戻らない』って……」
ノアは何度も言葉を飲み込み、喉を鳴らしながら、ようやく最後を絞り出す。
「……だから。
お前の人格を……ステラに移した。
──俺が、サインをした」
病室の静寂が、さらに深まったように感じられた。
ニーナは鏡の中の“ステラの顔”を見つめたまま、声を失う。
「ニーナ……ごめん。
でも……助けられる命は……お前しか、いなかった」
ノアの声は震えていた。頬を、涙が伝っている。
それでも必死に、妹を守ろうとする兄の声だった。
ニーナの指先から鏡が落ちそうになり、彼女は反射的にそれをぎゅっと握りしめた。
「……そんな……ステラ……」
ノアもまた、拳を強く握る。
静かで、痛くて、もう引き返せない真実だけが、
病室の空気の底に、重く沈殿していた。




