第2部 第6話「潜入、ブラッククリニック(1)」前編
CH1
-ゴースト本部格納庫通路付近-
ノアはふと視線を落とし、カイルに向けていた意識を、わずかに過去へ引き戻した。
「……ニーナが目を覚ます前にな。
ひとつだけ、俺は決めなきゃならないことがあった」
あのときの、応接用の小さな部屋。
CIARの白衣を着た医師が、タブレットを開いていた。
椅子に座っているはずなのに、ノアの足元には地面の感覚がなかった。
医師は落ち着いた声で、淡々と告げる。
「ステラさんの脳波は、完全にフラットです。
脳幹反射も消失しています。
現行の医療技術では、回復の可能性はありません。
……医学的にも、法的にも“脳死”と判定されます」
“脳死”という言葉だけが、やけに鮮明に耳に残った。
「ただ、身体そのものはよく保護されていました。
臓器機能も正常です。
“人格を宿すための脳の働き”だけが、完全に失われている状態です」
医師は画面を切り替え、ニーナのデータを表示する。
「ニーナさんは、その逆です。
脳の活動は保たれていますが、身体への損傷があまりにも大きい。
このままでは、生命維持はあと数時間が限界です」
ノアの喉がひりついた。
指先に、力が入らない。
医師はタブレットを閉じ、言葉を選ぶように続けた。
「……本来であれば、人格移植には倫理審査委員会の承認が必要です。
ですが今回は、時間がありません。
法令上、“脳死が確認された提供側の同意”と、
“受け手となる人格の家族の同意”があれば、
CIARの責任のもとで、緊急措置としての人格移植が認められています」
ノアは顔を上げた。
医師の瞳には、決して軽くはない重さがあった。
「簡単に言えば……
ステラさんの“空になった脳”に、ニーナさんの人格パターンを移すことで、
ニーナさんだけは助けることができます。
助けられる人格は──ひとつだけです」
沈黙が落ちる。
ノアは、自分の声が自分のものではないように感じながら、かろうじて口を開いた。
「……それは……合法なんですよね」
医師は、はっきりと頷いた。
「ええ。
これは、違法なブラッククリニックのような行為ではありません。
あくまで救命目的の、正規の人格移植です。
ただし……選ぶのは、ご家族です」
ノアは拳を握りしめた。
差し出されたペンと、目の前に置かれる同意書。
そこに並ぶ文字は、ほとんど頭に入ってこなかった。
それでも、サインだけは震えずに書いた。
「……ニーナを、助けてください」
***
ノアが語り終えると、控えめな沈黙が場の温度をわずかに下げた。
カイルはしばらく目を伏せていたが、やがて静かに問いを置く。
「……事故のあと……ニーナは、人格移植を受けていた……のか」
少し遅れて、ノアは小さく頷いた。
「……ああ。だが、誤解しないでくれ。
ニーナは“別の体に移った”だけだ。法的にも、社会的にも──ニーナはずっとニーナだ」
カイルが眉を寄せるのを見て、ノアは続ける。
「ゴースト本部の入口にある虹彩認証のことを、気にしてるんだろ。
あれは虹彩そのものじゃない。“人格IDのリンク値”を読み取ってる」
一度言葉を切り、淡々と補足する。
「人格移植の直後は、人格と身体の同期が不安定になる。
だいたい5週間……その間は、虹彩の反応も安定しない」
カイルは黙って聞いていた。
「だからCIARでは、移植後に経過観察期間を置く。
同期が安定したあとも、月に1回の定期検査が義務だ」
ノアは視線を上げ、まっすぐに言う。
「ステラの体への移植が完了した時点で、
ニーナの人格IDはCIARで正式に再登録されている。
安定期間も、定期検査も……全部、クリアしてる」
「……つまり──」
「そうだ」
ノアは短く肯定した。
「登録さえ済んでいれば、
ゴースト入館時の簡易検査も、月例の検査も問題なく通る。
ニーナは“正規に安定した人格”だ」
一拍置き、ノアの声がわずかに低くなる。
「……逆に言えば、
もし誰かが第三者の人格にすり替えられていたら──
同期は必ず揺らぐ。
虹彩リングは不安定になるし、
簡易検査か定期検査の、どこかで必ず引っかかる」
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうなのか」
カイルは視線を落とし、静かに言葉を継いだ。
「便利でもあり……残酷でもある仕組みだな」
ノアは、苦笑にも似た息を漏らす。
「……ああ。
だが、その“残酷さ”を承知の上で作られた制度だ」
短い沈黙のあと、カイルは今度こそ核心へ踏み込んだ。
「……それで。
その事故の原因は……結局、何だったんだ?」
ノアは、ため息のようにゆっくり息を吸い、視線を落とす。
「……最初は、俺たちもただの故障だと思ってた。
AIの誤作動か、交通システムの単なる不具合か……
誰だって、そう考える」
カイルは黙って頷いた。
だが、ノアの表情には薄い影が差している。
「……だが、調べていくうちに分かった。
同じような事故が、各地で起きていたんだ」
「各地で?」
カイルが眉を寄せる。
「ああ。
しかもどれも、“外傷は少ないのに、脳だけが致命傷”という、妙な共通点があった」
ノアは声を落とし、押し殺した怒りを滲ませた。
「……ブラッククリニックだ」
カイルの瞳が、わずかに揺れる。
ノアは淡々と続けた。
「やつらは、人格移植に使える脳死の身体と、
臓器移植用の“損傷の少ない遺体”を確保するために──
自動運転車の安全モジュールに、違法なパッチを仕込んでいた」
「……事故を、誘発するためにか」
カイルの声は低く沈む。
ノアは深く頷いた。
「直接ぶつけるわけじゃない。
“事故が起きやすい状態”を作るだけだ。
急ブレーキの反応を鈍らせたり、
回避アルゴリズムのレスポンスを遅らせたり……」
カイルは唇を固く結んだ。
ノアは続ける。
「そうやって事故を増やし、
脳に致命的な損傷を残しながら、身体や臓器が使えるケースを“効率的に”集めていた。
結局……俺たちの事故も、その1つだった。俺たちの場合は救急ドローンの方が早かった。」
机に置かれたノアの指先が、わずかに震える。
「ステラの脳死も……
ニーナが身体を失ったのも……
母さんが死んだのも……
全部、あいつらの仕業だ」
それは怒鳴り声ではなかった。
低く沈み、沸点を超えた憎悪の響きだった。
カイルはしばらく言葉を失い、
胸の奥に、ゆっくりと怒りが沈殿していくのを感じる。
「……だから、ニーナは今回の潜入に?」
ノアは短く息を吐いた。
「ああ。
俺たちにとってブラッククリニックは……“母と妹を殺した組織”だ。
そして──人格移植という技術そのものを、踏みにじり続けた連中でもある」
目を伏せ、ノアは静かに続ける。
「……だから俺たちはゴーストに入った。
ブラッククリニックを──根絶やしにするためにな」
カイルは、静かに頷いた。
「……わかった。
理由は、十分すぎる」
ノアは軽く目を閉じ、震えを押さえるように言う。
「……だから頼む。
あいつを連れて……全員で帰ってきてくれ。……俺は別件で動く」
それだけ言い残し、ノアは通路の奥へ歩き去っていった。
カイルはしばらく、その背中を見送っていた。
何かを感じ取った気もしたが、すぐに思考を切り替え、
次の任務へと足を進めた。
CH2
-ゴースト3階第3チームデスク-
「バニング隊長。
ニーナの過去を、あなたは知っていますよね?」
サザーランドは感情を抑えきれないまま、真正面からバニングを見据えた。
「今回の潜入で人格移植を行えば、これで2度目です。
しかも……潜入後に元へ戻すなら、3度目になる」
一拍、息を置く。
「自我の境界が削れる。
――“ニーナとして戻れる保証”は、ありません」
バニングは、すぐには答えなかった。
しばらく沈黙が落ち、やがて低い声が返る。
「……分かっている」
その一言に、言い訳も反論もなかった。
視線を逸らさぬまま、バニングは静かに言い切る。
「だが、ニーナの分析能力は今回の任務に不可欠だ。
ブラッククリニックを叩けるのは、今しかない。
ここを逃せば、次がいつ来るか分からん」
声は低い。
だが、その調子に迷いはなかった。
「それでも――!」
サザーランドは一歩、踏み出す。
「彼女は、我々の仲間です。
代えの利く駒じゃない。
……私は、承服できません!」
一瞬、言葉を切り、噛みしめるように続けた。
「分析官なら、他にもいるでしょう。
……スタンリーでは、ダメなんですか!」
その名が出た瞬間、バニングの表情がわずかに曇る。
「……スタンリーは、人格移植そのものに強いトラウマを抱えている」
低く、抑えた声だった。
「人格を弄る現場に立たせたら、
自我を保てるかどうか……保証できん」
サザーランドは、はっとしたように息を呑む。
「……相棒の、メイソンの件ですか……」
バニングは答えなかった。
ただ、わずかに目を伏せる。
数秒の沈黙。
やがて、絞り出すように言った。
「……それに」
一拍置いて、
「俺だって、同じだ」
その一言は、命令でも弁解でもなかった。
覚悟を決めた人間が、それでも捨てきれなかった痛みを、正直に認める声だった。
「できることなら、大事な部下に
危険な2回目の人格移植と、潜入捜査なんぞ――
させたくはない」
その瞬間、サザーランドは悟った。
――今回の任務で、誰よりもニーナを出したくないのは。
――目の前に立つ、この男なのだと。
サザーランドは何か言いかけ、そして、静かに口を閉じた。
「……分かりました」
深く息を吸い、言葉を選ぶ。
「最善を尽くします。医師としても、仲間としても」
バニングは、短く頷いた。
「……すまんな」




