第2部 第3話「多重人格の罠(3)」後編
H4
-ゴースト本部2階取調室3-
ロバート・グリーリーは腕を組み、椅子に深くもたれかかったまま、ヴィクターの問いかけに一切応じようとしなかった。
「私が、何をしたというんだ」
その言葉を受け、尋問官は反論せず、静かにモニターへ視線を向ける。
画面には、ヴィンセントの証言映像がリアルタイムで映し出されていた。
「……これは、あなたの息子の証言です。
警察官僚だったあなたなら、証拠の重みが何を意味するか……理解できるはずだ」
ロバートの表情は崩れない。
だが、口元だけが、ほんのわずかに引きつった。
向かい側でメモ端末を操作していたヴィクターが、ふと手を止め、無言で顔を上げる。
数秒の沈黙が、室内に落ちた。
やがてヴィクターは、何でもない仕草でインカムのスイッチに触れ、小さく呟く。
「……“3つ数えたら、降ろしてくれ”」
説明はない。
だが、インカムの向こうから、スタンリーが息を吐く微かな音が返ってきた。
「了解。カメラD、準備完了……」
ヴィクターは、何事もなかったかのように立ち上がり、ロバートに視線を向ける。
「じゃあ……少し、外の空気でも吸いましょうか」
CH5
-ゴースト本部2階取調室3前廊下-
カイルのインカムに、スタンリーの抑えた声が入った。
「……カメラD、準備完了」
「了解」
「……感情に引っ張られるなよ」
その直後、モニターに映っていた廊下の映像が、ふっと黒く沈む。
ほぼ同時に、カイルはロビーのベンチに座るヴィンセントのもとへ歩み寄った。
「……今、ロバートが出てくる」
ヴィンセントは一瞬だけ眉を動かし、無言で頷く。
カイルが小さく合図すると、廊下の奥の扉が開き、ヴィクターがロバート・グリーリーを伴って姿を現した。
「……あいつが、ロバート?」
「間違いない」
ヴィンセントはゆっくりと前へ出る。
ロバートもその存在に気づいたが、わざとらしく視線を逸らした。
「あー、そういえば奥さん、子供のこと――」
唐突に、ヴィクターがロバートへ声をかける。
ロバートが反射的に顔を向けた、その瞬間だった。
ヴィンセントの拳が、鋭く、重く振り抜かれる。
「ぐっ!!」
拳が左頬を打ち抜く鈍い音が廊下に響き、ロバートの身体は壁に叩きつけられた。
体勢を崩し、足がもつれて、そのまま床に尻餅をつく。
「廊下で転ばないでくださいよー……」
カイルが苦笑混じりに言いながら、ロバートへ駆け寄る。
「おい、見てただろ! あいつ、俺を殴ったんだぞ!」
必死に喚くロバートの肩を、ヴィクターが無表情で押さえた。
「はいはい。よかったですね。じゃあ、早く向こうへ行きましょうねー」
「ふざけるな! この仕打ちは――っ!」
ロバートの叫びは、ヴィクターの強引な誘導に遮られながら、廊下の奥へと遠ざかっていった。
カイルは、黙ってその背中を見送っていたヴィンセントの隣に立つ。
「……すまない。俺たちにできるのは、これくらいだ」
ヴィンセントは一度だけ、ゆっくりと息を吐き、小さく頭を下げた。
「……いえ。ありがとうございました」
その声には、静かで穏やかな感情が宿っていた。
それは、これまでのヴィンセントでも、ネイサンでも、デイモンでもない。
――セオ、なのかもしれない。
数分後。
廊下には再び、通常の監視カメラ映像が戻っていた。
CH6
-ゴースト本部1階第1チームデスク-
翌日。
カイルは事件の報告書をまとめている途中で、ふと手を止めた。
デイモンの証言では、母親が「動かなくなった」のは5年前だと言っていた。
だが、墓石に刻まれていたマリア・グリーリーの没年は2335年――4年前だ。
1年のズレ。
単なる記憶違いだろうか。
そう思おうとして、思考が引っかかる。
カイルはマリア・グリーリーの居住履歴を調べた。
記録によれば、彼女は2334年にロバート・グリーリーと別居している。
以後は、未成年の息子セオと2人で、郊外の古いアパートに暮らしていた。
違和感は、徐々に確信へと近づいていく。
カイルは、そのアパートを訪ねた。
当時を知る住人から話を聞くと、事件は「強盗」として処理されていたことが分かった。
警察から事情聴取も受けたという。
ただ、その住人は、強盗事件としては不自然だったと語った。
人通りの少ない古いアパートで、外部から侵入する理由が薄いこと。
争ったような物音や叫び声を聞いた記憶がないこと。
そして、この一帯では、事件そのものが珍しかったこと。
カイルは礼を述べ、その足で、当時の現場を管轄していた警察署へ向かった。
当時の調書には、こう記されていた。
――内部犯行の可能性は低い。
ただし、未成年同居人の関与については、精神的影響を考慮し、これ以上の追及は行わない。
画面を見つめたまま、カイルはゆっくりと息を吐いた。
「……強盗は、いまだ逮捕されていない……」
さらに、低く言葉を継ぐ。
「……住人の話が本当だとしたら……
多重人格のせいにして……」
一拍、間を置く。
「……記憶を、封じたのか」
短い沈黙。
「……強盗だったとしても。
そうじゃなかったとしても――あいつは、逃げた」
その独り言は、誰に向けられることもなく、
静まり返った室内に、静かに落ちていった。
CH7
-CIARエントランス-
薄暗くなり始めた窓際のベンチで、カイルとアカネは並んで座っていた。
ガラス越しに、霧雨に滲む街並みが、ぼんやりと広がっている。
アカネは紙カップのコーヒーを差し出しながら、何気ない調子で口を開いた。
「……何かあったの?」
「……後味の悪い事件だった」
「例の、DID患者の件ね」
「ああ」
短いやり取りのあと、アカネは少し間を置いてから、静かに尋ねた。
「……ねえ。セオって、“本当は”どんな人格だったの?」
カイルはカップを受け取り、しばらく黙ってから答える。
「……エミリーが言ってた。
セオは、第一人格じゃなかったって」
「……?」
「正確には、第四人格だ。
ヴィンセント、ネイサン、デイモン――その奥に、セオがいた」
アカネが小さく息を呑む。
「そんな……」
「抑圧が深すぎた。誰も気づけなかった。
……本人でさえ」
アカネの表情に、かすかな痛みが走った。
「……じゃあ、あの子が最初から“持ち主”だったんだね」
カイルは、静かに頷く。
「父親の暴力から逃げるために、人格を分けた。
そして、自分自身を一番奥に押し込めた。
それが、セオが“消えた理由”だ」
「……でも、父親を殴った、あの瞬間……」
「たぶん、初めてだった。
セオが、自分の意志で外に干渉できた瞬間だ」
窓の外へ視線を向けたまま、カイルは続ける。
「エミリーは言ってた。
あの対話をきっかけに、3人は統合へ向かうだろうって」
アカネは、ほっとしたように微笑んだ。
「……よかった。
デイモンが“守るものがなくなった”って言ってたのも、そういうことだったんだね」
カイルは言葉を返さず、ただ一度だけ頷いた。
「そういえば……」
アカネが、少しだけ声を和らげる。
「“時には父親を殴ることも必要なのよ”って、エミリーが言ってたわ」
カイルは一瞬、きょとんとした後、眉をひそめた。
「……あれは、俺たちがロバートを許せなかっただけだ。
……というか、なんで知ってるんだ。
本当に専門家の意見か、それ」
アカネは口元に手を添え、静かに笑う。
「でしょ。でも……分かる気もする」
カイルは目を細め、窓の外に落ちる雨を見つめた。
「……親族の意向で、母親の墓に、あいつの名前も刻まれたらしい。
“デイモン・グリーリー”。母親の隣に」
アカネは、息を止めた。
「……親族が決めたそうだ。
生前の様子を知っていて……1人にはできなかったって」
アカネは、静かに目を閉じる。
「……そう。
それで、よかったのかな」
カイルはしばらく黙ってから、視線を外に向けながら低く呼びかけた。
「……アカネ」
「なに?」
「母さんを……大切にな……」
一拍の間。
「……うん」
アカネは意味を問い返さず、ただ小さく頷いた。
雨は、まだ止まない。
だが、どこかで――確かに、何かが終わっていた。
CH8
-アシュフォード研究所地下室-
無人の通路を抜け、マルコム・アシュフォードは広い部屋へと足を踏み入れた。
そこには、ひとつだけ石碑が立っている。
石面には、名も日付も刻まれていなかった。
マルコムは静かに膝をつき、白い百合を供える。
「……20年も、経ったのか」
細められたその目の奥には、後悔とも、執念ともつかない色が滲んでいた。
「どうか……許してくれ」
しばらくの沈黙のあと、マルコムは立ち上がる。
振り返ることなく、何も言わずに扉を閉めた。
地下の静寂の中で、名も持たぬ墓碑だけが、変わらずそこに残されていた。




