第2部 第3話「多重人格の罠(3)」前編
CH1
-ある女性の墓前-
灰色の雲が空を覆い尽くし、冷たい雨が途切れることなく降り続いていた。
郊外にある小さな墓地。手入れの行き届かない雑草の合間で、ひときわ新しい墓標が雨粒を受け、鈍く光っている。
その前に、1人の男が立っていた。
――デイモン。
白いシャツは泥と雨で重く身体に貼りつき、前髪は濡れて額に垂れ、視界を遮っている。
それでも、彼の視線が墓から離れることはなかった。
墓碑に刻まれている文字。
「マリア・グリーリー 愛する母へ」
「……守れなかったんだ」
小さく、誰に向けるでもなく呟いた声は、雨音に溶けて消えた。
頬を伝うものが涙なのか、雨なのか――本人にも判別がつかない。
「俺が……あの時、もっと強かったら……
ヴィンセントも、ネイサンも……こんなふうには……」
拳を握りしめたまま、デイモンは膝をついた。
濡れた土がズボンの裾を汚す。
胸の奥に沈み続けていた痛みが、ようやく輪郭を持ったかのように、肩を震わせていた。
そのとき――。
「……傘、要るか?」
静かな声が、頭上から降ってきた。
デイモンが顔を上げると、雨の幕の向こうに、黒い傘を差し出すカイルの姿があった。
そこに敵意も警戒もない。
ただ――同じ痛みを知る者の、静かな眼差しだけがあった。
「……」
デイモンは一瞬、迷うようにその傘を見上げる。
そして、泣き出しそうで、かすかに笑うような表情を浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「……これは、俺が背負う雨だから」
「そうか」
カイルはそれ以上言わず、傘を畳むと、そのまま隣にしゃがみ込んだ。
2人の肩に、同じリズムで雨が落ちてくる。
しばらく、墓前に言葉はなかった。
あるのは、雨音と――消えきらない記憧の残響だけ。
それらが、静かに、降り続いていた。
CH2
-マリア・グローリーの墓前-
雨は止む気配を見せず、空は重く沈み込んだままだった。
デイモンの隣にしゃがみ込んだカイルは、しばらく無言で墓を見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「……さっき、父親から話を聞いた」
デイモンは反応しない。
視線は墓碑に落とされたまま、動かない。
「“妻は子供を甘やかした”――そう言ってた。
一見すれば、何気ない一言にも聞こえる。けど……妙に引っかかった」
雨音に溶けるように、カイルの声は低く続く。
「今ならわかる。あれは……お前を、セオを、母親が必死に守っていたことへの言葉だったんだな」
デイモンの指先が、かすかに震えた。
「父親の暴力から、守ろうとしたんだ。あんたの母親は。
それを“甘やかし”なんて言葉で片づけるものじゃない。俺は、そう思う。
――だから、ここに来た。あんたが、なぜこの墓の前にいるのか……分かった気がしたから」
デイモンは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに怒りも嘲りもない。
長い時間、閉じ込めてきたものが、わずかに緩んだような静けさだけがあった。
「……あの人は、いつも俺たちの前に立ってくれた。
殴られそうになると、代わりに傷を負った。
セオが黙り込んで、消えるようになったのも……あの頃だ」
言葉を探すように、デイモンは一度息を詰める。
それでも、初めて胸の奥をそのまま差し出すように続けた。
「……だから、ここにだけは、嘘をつきたくなかった」
カイルは静かに頷いた。
「俺は、お前を連れ戻しに来たわけじゃない。
ただ……“あんた自身”として、どう生きるかを、決めてほしかった」
再び、墓前に静寂が戻る。
だがそれは、先ほどまでの重苦しい沈黙とは違い、どこか余白を含んだものだった。
――雨はまだ降っていたが、風の匂いが、わずかに変わった気がした。
カイルは無意識に墓石へ視線を落とす。
刻まれた名前の下に並ぶ数字を、指先で二度、なぞった。
一瞬、何かが引っかかる。
だが、その正体を掴む前に、彼は視線を外した。
墓前に佇む2人。
雨音だけが静かに耳を打つ中で、デイモンがようやく口を開いた。
「……お願いがある」
カイルは黙ったまま、その横顔を見つめる。
「1つめは……ヴィンセントとネイサンを、二度とあの男に近づけないでほしい」
声は乾いていたが、その奥に宿る熱は揺るがなかった。
「どんな理由があっても……あいつのそばに戻れば、また壊される。
ネイサンはまだ、あいつを“父親”だと信じたがってる。
ヴィンセントも、怒りを鎮めるために……“赦そう”とするかもしれない。
でも、それじゃ……また……」
言葉が途切れる。
握りしめた拳が、小さく震えていた。
「……俺が生まれた意味が、なくなる」
カイルは、迷いなく頷いた。
「約束する。ゴーストとしても、個人としても……絶対に近づけない」
しばし沈黙し、カイルは降り続く雨のように言葉を胸に落とす。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……わかってる。お前の言う通りだ。
あの男のそばに戻れば、また壊される。……それは、俺も同じ考えだ」
デイモンの視線が、わずかに揺れた。
「……けどな。壊されるだけじゃない。
“壊されたまま”で終わらせたら、ヴィンセントもネイサンも、ずっと囚われたままだ」
カイルは拳を膝に置き、言葉を選ぶように続けた。
「だから――一度だけ、条件付きで会わせたい。
監視下で、逃げ道を塞いで、俺たちが横に立つ。
それ以上の接触は許さない。……ただ、その一度きりで、彼ら自身に“終わり”を選ばせたい」
「……終わり?」
「ヴィンセントにとっては、赦すでも、殴るでもいい。
ネイサンにとっては、“父親像”を守るか、壊すか――はっきりさせることだ。
俺たちが奪うんじゃない。彼ら自身の意思でだ。……そうしなければ、いつまでも統合には進めない」
デイモンの呼吸が乱れた。
震えを抑えるように、唇を強く噛む。
「……お前は、あいつらを、もう一度地獄に突き落とすつもりか」
「違う。地獄に突き落としたのは、あの男だ。
俺たちは……出口を示すだけだ」
沈黙が落ちる。
雨音に包まれた静けさの中で、デイモンは俯き、肩を小さく震わせた。
やがて、掠れながらも確かな声で呟く。
「……条件は絶対だ。一度だけだ。
二度と……二度と、繰り返させるな」
カイルは頷き、その横顔を真っ直ぐに見つめた。
「約束する。俺たちが、必ず守る」
その言葉を受けて、デイモンの表情がわずかに緩む。
だが、続いた言葉は、さらに重かった。
「そして……もう1つ」
ゆっくりと、デイモンはカイルを見る。
「俺の人格を、消去してほしい」
カイルの目が、静かに揺れた。
「……本気か?」
デイモンは迷いなく頷く。
「俺は、“誰かを守るため”に生まれた。
セオが、ヴィンセントが、ネイサンが壊れないように……
母さんの代わりになりたくて、ここまで来た。
でも、もう……守る相手はいない。あんたが、ちゃんとやってくれるなら、それで十分だ」
声は穏やかだった。
そこにあったのは、戦いの果てに辿り着いた、静かな覚悟だった。
「怒りだけを抱えて生き続けるのは……もう、疲れた」
カイルは目を伏せる。
その言葉の重さも、意味も、胸に深く沈んでいった。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、雨の中で静かに答える。
「わかった。……だが、それを決めるのは、ヴィンセントたちだ。
彼らが納得しない限り、俺は強制しない」
デイモンは微笑んだ。
皮肉でも、挑発でもない。ほんの一瞬の、安堵の笑み。
「……ああ。それでいい」
2人の間に、再び沈黙が流れる。
雨はまだ止まない。だが、その中にあったのは、悲しみだけではなかった。
それは、長い苦しみの果てに差し込んだ、かすかな“終わり”の兆しだった。
CH3
-CIAR地下第2処置室-
薄明かりに包まれた静かな空間。
機器の駆動音だけが、かすかに耳に届いていた。
ベッドに横たわるデイモンの表情は、不思議なほど穏やかだった。
その傍らに腰掛けたエミリーは、記録装置に視線を落とし、ひと呼吸置いてから口を開く。
「……本当に、いいのね?」
声には、わずかな揺れがあった。
デイモンは静かに微笑む。
「俺は、“そのため”に生まれた。
守るべきものがなくなったなら……俺の役目は、もう終わりだ」
処置室のガラス越しに、ヴィンセントとネイサンが並んで立っている。
ネイサンは唇を小刻みに噛みしめ、ヴィンセントは拳を固く握ったまま、視線を逸らさずにデイモンを見つめていた。
「……始めるわ」
エミリーは端末を操作し、神経干渉ユニットへアクセスする。
処置は“削除”ではない。
デイモンという人格に繋がる記憶経路を遮断し、活性を停止させる――
言葉にすればそうだが、それは“生きている記憶”を、静かに眠らせる行為に他ならなかった。
(……これは、ただの死じゃない)
そう心の中で呟きながら、エミリーは作業を進めていく。
端末に表示された脳波が、徐々に平坦になっていく。
防衛反応も、興奮反応も見られない。
まるで、自ら消えていくことを受け入れているかのようだった。
デイモンのまぶたが、ゆっくりと閉じられる。
「……ありがとう、セオ。ネイサン。ヴィンセント」
それが、最後の言葉だった。
脳波は完全な沈黙を示すラインを描き、記録装置が処置完了を告げる電子音を鳴らす。
静寂。
「……終わったわ」
エミリーは息を吐き、そっと瞼を伏せた。
ガラスの向こうで、ネイサンの肩が小さく震える。
ヴィンセントは黙って、その肩に手を置いた。
「デイモンは……俺たちを守ってくれた」
「……うん」
ネイサンは涙をこらえながら頷く。
「ずっと……あの人がいなかったら、俺は……」
処置室の中で。
デイモン――“守るために生まれた人格”は、静かにその役目を終えた。
その顔には、どこか満ち足りたような、安らぎが浮かんでいた。




