第2部 第2話「多重人格の罠(2)」後編
CH6
-ホテル・リンクウェスト403号室-
「ったく……こんな狭い部屋に閉じ込めやがって。
俺は元警察官僚だぞ。犯罪者じゃない!」
苛立ちを隠そうともせず、中年の男がホテルの内線電話の受話器を乱暴に置いた。
ヴィンセントの実父、ロバート・グリーリー。
灰色の髪を後ろへ撫でつけたその男は、短気な性格のまま、CIARとゴーストによる保護措置に不満を爆発させていた。
「おい、お前も何とか言えよ!」
ロバートが振り返って怒鳴った先には、部屋の隅に立つ若い警護員の姿がある。
威圧的なロバートを前に、終始言葉を失っていた。
「……連絡があるまで、ここを離れないよう指示されています」
「ふざけるな。こんなところに、いつまで――」
言葉が途切れた、その瞬間。
部屋のドアが、控えめにノックされた。
「ホテルの者です。ルームサービスをお届けに参りました」
低く、くぐもった男の声。
警護員が一瞬、不審そうに視線を向けるが、ロバートが先に声を荒げる。
「頼んでない! 追い返せ!」
「は、はい……」
戸惑いながら、警護員はドアへ向かう。
のぞき窓も確認せず、チェーンロックもかけないまま、ドアノブに手を伸ばした。
ガチャリ。
ドアが半開きになった瞬間、黒い制服姿の男が、滑り込むように室内へ踏み込んだ。
警護員が「え――」と声を漏らすのと同時に、男の肘が一直線に顎を打ち抜く。
ドン、という鈍い音。
壁に叩きつけられた警護員は、抵抗する間もなく意識を失い、床に崩れ落ちた。
「な……なんだ、お前! 誰だ!」
ロバートが、恐怖と怒りに歪んだ声で叫ぶ。
その視線の先で、偽装制服の男は無言のまま、ゆっくりとドアを閉め、鍵をかけた。
***
部屋の中は、不自然なほど静まり返っていた。
ロバート・グリーリーは、目の前に立つ男を見て、言葉を失ったまま硬直している。
制服の襟元を緩め、帽子を脱いだその若者は、もはやホテル従業員を装う気配すらなかった。
「……誰だ、お前……何者だ?」
震えを含んだ問いに、男はようやく口を開く。
その声音には、先ほどヴィンセントが見せた理知とも、ネイサンの怯えとも異なる、冷たく研ぎ澄まされた光が宿っていた。
「俺の名前は――デイモン」
静かだが、はっきりとした名乗り。
その一言が、空気を凍りつかせる。
「……デイモン? 聞いたことも……」
「当然だ。俺の存在に、お前が気づくはずもない」
デイモンの目が、わずかに細められる。
「殴るたび、怒鳴るたび、物を投げつけるたび……ネイサンは怯え、ヴィンセントは黙って耐えた。
そして、どちらも――自分じゃ守れなかった」
ロバートの顔色が一気に変わる。
「何の話だ……そんなのは――」
「言い訳はいらない!」
炸裂する怒声。
壁が震えたかのような錯覚に、ロバートは反射的に数歩後ずさった。
「ネイサンを守るために生まれた。ヴィンセントの傷は、全部俺が背負ってきた。
お前がしたこと、俺はすべて覚えてる。母さんが泣いてた顔も……最後まで守ろうとして、倒れた姿も!」
デイモンの手がポケットに伸び、銀色の折りたたみナイフを取り出す。
刃がカチリと開き、鈍く光を返した。
「もう、誰も守らなくていい。
今度は俺が――裁く番だ」
ナイフを握ったまま、デイモンが一歩、また一歩と詰め寄る。
壁際に追い詰められたロバートは、恐怖に歪んだ声を絞り出した。
「やめろ……誰か、助け――!」
その瞬間。
ガンッ!!
ドアが激しく開き、黒いコートの男――カイルが室内へ飛び込んだ。
衝撃に、デイモンの手からナイフが弾かれ、乾いた音を立てて床を跳ねる。
「もうやめろ!」
カイルが踏み込み、デイモンの手首を捉えてねじ上げにかかる。
だが、その瞬間、デイモンの表情が変わった。
理性を呑み込む怒りと、揺るがぬ決意が瞳に宿る。
「……まだ、終わってない」
低く呟いた次の瞬間、デイモンは自ら体重を後ろへ倒し、強引に体勢を崩した。
バランスを取ろうとしたカイルの一瞬の隙を突き、床に手をついて跳ね起きる。
「待て!」
背後からニーナの声が飛ぶ。
だが、デイモンは迷わずドアノブを引き、廊下へと躍り出た。
踏み込もうとした警備補佐を肩で弾き飛ばし、そのまま非常階段へ向かって駆け下りる。
カイルも即座に追う。
すでに数段先を跳ねるように降りていく、デイモンの背が見えた。
「くそっ……!」
床に転がるナイフを一瞥し、カイルは無線を取る。
「カイルだ。ホテル西側非常階段から逃走!
バイク、または車両での移動を警戒。監視班は即座に周囲を封鎖しろ!」
非常階段に響いていた足音は、やがて下層階の扉が開閉する音とともに途絶えた。
――デイモンは、再び闇へと溶け込んだ。
ホテルの一室では、蒼白になったロバートが床に尻餅をつき、呆然と扉を見つめている。
カイルは階段の踊り場で拳を握りしめ、静かに言葉を落とした。
「……お前は、まだ怒りの中にいるのか」
***
部屋の中は荒れ放題だった。
床には警備員が倒れ、低く呻いている。
壁際に座り込んだロバート・グリーリーは、顔色を失い、震えが止まらない。
カイルは無言のまま近づき、膝をついて視線を合わせた。
「……何を言われたんですか。あの子に」
ロバートは目を逸らし、かすれた声で答える。
「……“デイモン”と名乗った。聞いたこともない名だ……だが、強い恨みを向けてきた……」
「恨み、ですか。心当たりは?」
短い沈黙が落ちる。
カイルは言葉を選ばず、問いを重ねた。
「……子どもに、暴力を振るったことはありませんか?」
ロバートの表情が、はっきりと歪んだ。
「……妻が、あいつらを甘やかした。俺は、正そうとしただけだ……!」
「奥さんにも、手をあげたことは?」
ロバートは口を閉ざし、やがて観念したように吐き出す。
「……一度、口論になってな。突き飛ばした。頭を打って、動かなくなった。事故だ……
俺は、隠した。警察に知られたら……すべて終わりだった……」
カイルは静かに立ち上がり、冷えた声で告げる。
「……あなたは、もう終わっています。とっくに」
背を向けると、短く言い残した。
「記録は取っています。覚悟しておいてください」
そうして、カイルは部屋を後にした。
CH7
-ホテル・リンクウェスト廊下-
「ニーナ」
廊下を進んでいたニーナを、カイルが呼び止めた。
彼女は現場の収拾に手早く動いていたが、その声に即座に振り返る。
「なに?」
「ロバート・グリーリーの警護を、君に任せたい」
「私が?」
ニーナはわずかに眉を上げる。
「専門外だけど……いいの?」
「任せられるのは君しかいない。あの男に、これ以上の逃げ道は必要ない。
ただ……誰かの目は要る。君の目なら、どんな言い訳を並べられても、嘘は通じない」
ニーナは数秒だけ沈黙し、それから静かに頷いた。
「わかった。目は、離さない」
「頼んだ」
カイルは短く告げ、その場を後にする。
ニーナはその背中を見送り、腰のホルスターに手を伸ばした。
指先の操作ひとつで、収まっていた金属製のバトンが静かに伸びる。
微かな電磁音を確かめると、軽く握り直し――
無言のまま、ロバートのいる方へと視線を向けた。




