第2部 第1話「多重人格の罠(1)」後編
医師は、言葉を選び損ねた。
夢に現れるのは、記憶の残滓かもしれない。
人格が消失した後も、イメージだけが脳内に留まる例は報告されている。
だが、その夜から、ヴィンセントの様子は急速に変わり始めた。
寝台の柵を蹴り、部屋の壁に何度も拳を叩きつける。
監視マイクには、うわ言のような呟きが繰り返し記録された。
「戻るな……お前はもう、いない……いないはずだ……!」
「やめろ……やめてくれ。俺の頭から、出ていけ……!」
3日目の朝。
CIARに呼び出されたエミリーとスタンリーは、記録データを前に難しい表情を浮かべていた。
「移植は、確かに成功してるわ。人格同定パルスの一致率も問題ない。脳波の反応時間も術後は安定していた。身体的な異常は見当たらない」
スタンリーは映像を巻き戻しながら言う。
「じゃあ……なんで“ネイサン”がまだいるって、ヴィンセントは言ってる?」
「移植自体は本物よ。ネイサンのデータも整合していた。……でも、彼が見ているものは、もっと根深い可能性がある」
「まさか……“戻ってきた”とかじゃないよな?
人格が、自分の意思で元の脳に戻るなんて……」
エミリーは首を振った。
「それはあり得ない。移植された人格が、別の身体から元の脳へ自力で戻るなんて、今の技術では不可能よ。少なくとも、合法技術では」
「じゃあ……じゃあ、移植されたのは……」
「本当に、ネイサンだったのか?」
低く落とされたエミリーの声が、室内に沈んだ。
スタンリーの手が止まる。
「……待ってくれ。それって、つまり……?」
「最初から“ネイサン”じゃなかった可能性がある。
──彼らの中に、私たちが気づかなかった、もう1つの人格が存在していたとしたら」
「3人目……?」
「人格解離の診断で、すべての人格を完全に特定するのは難しいわ。
隠れるの。表に出ないまま、観察者を欺くこともある」
エミリーはタブレットを操作し、移植前の精神鑑定映像を再生した。
そこには、穏やかな表情で話すネイサンの姿が映っている。
「ぼくは……もう、この体じゃない方がいいと思ってるんだ。ヴィンセントが辛そうだから」
もし、あの言葉を口にした存在が、“ネイサン”ではなかったとしたら。
もし、“第3の人格”がネイサンを装い、移植を受け入れたのだとしたら――。
「……俺たちは、騙されたってことか?全員……?」
「人格は、“嘘をつける”。それも、とても巧妙に」
その一言で、部屋は静まり返った。
スタンリーは黙ったまま、映像に映る“彼”の微笑を見つめていた。
それは、臆病なネイサンのものには見えなかった。
CH6
-CIAR 3階第4処置室-
CIAR第4処置室は、本来であれば最も警備が厳重な隔離観察区の1つだった。
だが、その朝。
セキュリティログには、不自然なタイムラグが記録されていた。
アクセス履歴に残っていたのは、存在しないはずの職員ID。
そして、たった1度きりのロック解除。
監視カメラは、数秒の空白を挟んで再起動している。
だが、その時点で、すでにベッドは空だった。
“ネイサン”として移植された若者――
いや、“彼”は、跡形もなく姿を消していた。
CH7
-ゴースト本部2階ブリーフィングルーム-
カイル、ヴィクター、ニーナ、そしてバニング隊長がブリーフィングを進めていた。
エミリーとスタンリーから事前に提出されたCIARの異常報告は、すでに“違法な人格移植の可能性”を示す赤色フラグ付きで、ゴーストへ共有されている。
「つまり──移植されたのはネイサンではなかった。
第3の人格が、術前診断でも見抜かれず、合法処置をすり抜けて肉体を得た可能性がある……という報告だな?」
バニングの確認に、ニーナが静かに頷いた。
「はい。移植先の肉体はCIARの管理下にありますが、もしそれが犯罪性を帯びた人格であれば、事件化する可能性は高いです。
移植の段階で虚偽があったとすれば、技術の濫用に他なりません」
「人格名は?」
「記録には存在しません。
──ただ、ヴィンセントが“あれはネイサンじゃない”と断言しています。内部で偽装された人格がいた可能性は、かなり高いと見ています」
そのときだった。
ブリーフィングルームの天井スピーカーが、一斉に警告音を響かせた。
――『緊急警報。CIAR第4処置室より、移植被験者“セオ・グリーリーB体”の逃走を確認。コードレベル3。近隣チームに即時対応を要請』
その場にいた全員が、反射的に立ち上がる。
「今、なんて……?」
スタンリーが駆け込んでくる。
「セオのB体が逃走。──“あれ”が動いた」
「まだ、ヴィンセントとは接触してないよな?」
「不明だ。ただし、可能性は十分にある」
バニングが間髪入れずに指示を飛ばした。
「カイル、ヴィクター、ノア。CIARへ急行しろ。
ニーナは現地でエミリーと連携、医療側のサポートに回れ。
スタンリー、セオの元データを総洗いだ。“そいつ”の行動目的を割り出せ」
カイルが一歩前に出て、低く問いかける。
「……あいつは、本当に“ただの人格”なんですか?」
一瞬の沈黙。
だが、誰も否定しなかった。
そこには、確かに“何か”がいる。
──“人格”と呼ぶには、あまりにも計画的で、あまりにも強い“意志”を持った、何かが。
CH8
-CIAR本館前-
ゴーストの車両がCIARに到着したのは、警報発令からわずか20分後だった。
施設正面はすでに警備用ドローンと非常灯の赤い閃光に覆われ、静穏な医療機関の面影は失われている。
警備チームの一部は自動小火器を構え、廊下の交差点ごとに封鎖線が張られていた。
カイルたちがバッジを提示して通過すると、周囲の職員が一斉に顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、恐怖と混乱、そして“想定外”を突きつけられた者特有の戸惑いだった。
「状況は?」
ヴィクターが現地責任者に詰め寄る。
「第4処置室から被験者が消失しました。ドアロックは偽装IDで突破され、セキュリティカメラは一時的に停止しています。看護師が異常に気づいた時には、すでに……!」
「使用されたIDは?」
ノアが無線を調整しながら問う。
「解析中です。ただ、施設内部の職員を模したものらしい。……かなり高度な擬装です」
カイルは黙ったまま、足元に視線を落とした。
「争った形跡がない。侵入者じゃない……本人の意思で出て行ったように見える」
「最初から逃げるつもりだったみたいね」
ニーナが小さく呟く。
その瞬間、カイルの脳裏に、診断レポートの一文が浮かんだ。
──人格ネイサンは、臆病かつ従属的。逃亡の意志や計画性は見られない。
だとすれば。
この“逃げた存在”は──本当にネイサンだったのか。
「……やはり、移植されたのは別人格か」
低く落とした声が、廊下に響く。
ヴィクターが即座に指示を出した。
「スタンリーの解析班にログを送れ。ドローンと交通カメラで外部接触を洗え。
それから……」
「……この施設内に、まだ潜んでいる可能性がある」
カイルが言葉を継ぐ。
冷たい光を反射するガラス張りの廊下。その奥へ、彼の視線が向けられた。
──そして、その先の病室から、何かがじっとこちらを見ているような気配がした。




