第1部 第13話「紅い襲撃者(2)」後編
重い沈黙が落ちた。
「記憶が……混ざってる……」
カイルは息を呑む。
知らないはずの情景、声、断片的な夢。
ここ数日の違和感が、静かに輪郭を帯びていく。
アカネが静かに問いかけた。
「じゃあ……カイルの中に、“誰か”の一部が残っている可能性があるの?」
エミリーは慎重に頷く。
「ええ。そして、それは完全には排除されていない。
逆に言えば、今もどこかで──意識の奥底に存在している可能性がある」
彼女はモニターを覗き込み、淡々と補足した。
「このリングの境界、断層が三層構造になっている。
通常は代謝層と光屈折層の二層構成だけど……外周に微細なノイズが走っているわ。
人工的な干渉、あるいは装置の出力誤差。いずれにしても自然発生じゃない」
ヴィクターが低く唸る。
「……つまり、意図的に“何か”を施した痕跡がある、と」
「可能性はあるわ」
エミリーの声は静かだった。
「ただし、このノイズは異常なほど微弱。通常の検知システムでは拾えないレベルよ」
彼女は続ける。
「この程度の形成不全なら、ゴースト本部の入館ゲートにあるスキャナーでは“正常”と判定される。
検知の閾値に達しないの」
「じゃあ、月例の健康診断の精密検査でも……?」
ニーナの問いに、エミリーは短く息を吐いた。
「理論上は検出できる。
でも、このケースみたいにリング自体が“ほぼ形成されていない”場合、
人体の代謝ノイズと区別がつかない。見落とされる可能性があるわ」
ヴィクターが眉をひそめる。
「……完璧に人格移植されたように見せかけて、潜入も可能だってことか」
エミリーは静かに頷いた。
「ただし、長期的には無理。代謝の同期が取れず、必ず破綻する。
本人の精神にかかる負荷が大きすぎるから」
彼女は淡々と続けた。
「記憶の混乱、情動の不安定化、最悪の場合は多重人格に近い症状が出る。
――本人が一番、それに苦しむことになる」
カイルは黙ったまま、自分の手を見つめていた。
――自分は、すり抜けてきたのか。知らないうちに。
エミリーはスライドを切り替え、厳しい表情で言う。
「補足しておくけど、この虹彩リングのような“未完全体”は、私たちの想定にもプロトコルにも存在しない。
本来、人格移植が行われれば、リングはもっと明瞭に形成される。
ここまで不安定な反応は、理論上……ほとんど起こりえないはずだった」
スタンリーが口を挟む。
「もし意図的に人格移植を仕掛けたとしたら……犯人は粗悪コピーの装置を持っている。
だが問題は……」
彼は室内を見渡し、低く続けた。
「――誰が、何の目的で、カイルに人格移植を試みたのか。
そして、それが“襲撃”とどう繋がっているのか」
誰も答えなかった。
ただ、モニターの光だけが彼らの顔を照らしている。
そのとき、カイルの虹彩に、再びわずかなリングが反射した。
脈動のように一瞬だけ光り──
そして、何事もなかったかのように消えた。
***
沈黙が落ちた。
ヴィクターが何かを言いかけた、その瞬間。
スタンリーが手を挙げ、空気を切り替えるように口を開いた。
「……一度、整理しよう。今わかっていることをまとめる」
彼は携帯端末を操作し、モニターにいくつかの項目を映し出す。
淡いホログラフィック文字が、静かに浮かび上がった。
「一、襲撃者の血液サンプルから検出されたDNAは、カイルと完全一致。
二、虹彩リングは未完成状態にあり、簡易スキャンや通常の精密検査では検出が困難。
三、“アリウス”と名乗る人物が、カイルに人格移植を試みた形跡がある。
ただし、装置の不完全性により移植は失敗している。
四、犯行動機および最終的な目的は不明。
だが、高度な技術と、意図的な対象選択が関与している可能性が高い」
一呼吸置き、スタンリーはモニターから視線を外した。
「……つまり俺たちは、“もう1人のカイル”と向き合っている可能性がある。
そいつは、おそらくカイルに――“成り代わろうとしていた”」
重い沈黙が、再び室内を包み込んだ。
誰も口を開かない。
それぞれが胸の内で、同じ問いを反芻していた。
――なぜ、カイルなのか。
モニターに映るカイルのスキャンデータが、
一瞬だけ、微細なノイズを走らせる。
誰の目にも留まらぬまま、
光は静かに揺らぎ、そして元に戻った。
CH2
-ゴースト本部1階第1チームデスク-
19時。
CIAR第2研究室での報告を終えたカイルたちは、ゴースト本部の第1チームデスクに戻っていた。
バニングは机の前で腕を組み、無言のまま彼らの説明に耳を傾けている。
スタンリーが要点だけを簡潔にまとめた。
「襲撃者のDNAはカイルと一致。虹彩リングは未完成状態。人格移植の痕跡あり。
詳細は、すべてCIARのデータに残してあります」
報告を聞き終えたバニングは、しばらく言葉を発しなかった。
その眼光は鋭い。だが同時に、何かを押し殺しているようにも見える。
「……事情は理解した」
低く、区切るように言ってから続けた。
「だが、今夜はもう動くな。
カイル、お前はしばらく外出禁止だ。仮眠室を使え。外に出るよりは安全だろう」
カイルは小さく頷いた。
「わかりました」
バニングは視線をヴィクターへ移す。
「ヴィクター。護衛につけ。
今夜は、カイルの行動を最優先で監視しろ」
「承知しました」
短い返答。
ヴィクターの声には、迷いはなかった。
CH3
-ゴースト本部3階仮眠室-
カイルはシャワーを浴び、制服のシャツに袖を通していた。
壁の時計は、すでに20時を回っている。
鏡に映る自分の顔。
その瞳の奥で、あの薄いリングが一瞬だけ反射した。
(アリウス……お前は、何者だ)
考えれば考えるほど、思考は渦を巻く。
襲撃者の正体。未完成の虹彩リング。自分と同じDNA。
そのすべてが、“自分という存在”を内側から締めつけてくる。
――なぜ、俺なんだ。
そのとき、ポケットの端末が震えた。
画面に表示された名は「アキト」。
「アキト? どうし――」
『カイル!? 姉さん、まだ帰ってきてないんです!』
アキトの声は、はっきりと震えていた。
カイルの意識が、一瞬で研ぎ澄まされる。
「アカネが……? いつから連絡が取れない?」
『最後のメッセージは、“帰る”って送られてきたやつで……もう二時間前です』
カイルの瞳が鋭く光る。
「わかった。すぐに連絡を回す。
アキト、家から出るな。鍵は必ず閉めておけ」
『……わかりました』
通信が切れた。
カイルは即座にTSRを装着しながら、
仮眠室のベッド脇で警戒態勢に入っていたヴィクターへ視線を向ける。
「ヴィクター。バニング隊長に連絡を頼む。
アカネが帰っていない。状況確認を急いでくれ」
ヴィクターが顔を上げる。
その表情は険しかった。
「待て!……どう考えても、これは罠だ!」
カイルは一瞬だけ動きを止めたが、すぐにTSRを腰に固定する。
「分かっている!
だが――アカネを放っておくことはできない!」
その声に、迷いはなかった。
ヴィクターが何かを言いかけたが、
カイルはすでにドアへ向かっている。
靴音が床を打ち、
廊下の照明が感知センサーに反応して、冷たい白光が次々と点いた。
カイルは振り返らずに言う。
「頼んだ、ヴィクター!」
そのまま、夜の通路を駆け抜けていった。
ドアが閉まり、仮眠室に静寂が戻る。
ヴィクターは短く息を吐き、即座に通信端末を操作する。
「こちら第1チーム、ヴィクター。カイルが出ました。
……隊長、これは――罠の可能性があります」
短い報告のあと、
彼の表情に、かすかな焦りが走った。




