第1部 第11話「静かな通報(2)」後編
CH4
-ゴースト本部への帰路-
昼下がりの街を、ゴーストの車両がゆっくりと進んでいた。
午後の陽はやや白く、ビルの窓に反射して揺らめいている。
沈黙を破ったのは、ハンドルを握るヴィクターだった。
「……なあ、カイル。さっきの判断、本当に良かったのか?」
カイルは助手席で腕を組み、窓の外に視線を向けたままだった。
「虹彩リングの確認も済んでる。記録上、人格移植は確定だ。
つまり、彼女は――」
「誰の人格を奪ったんだ?」
静かな声が、その言葉を遮った。
ヴィクターは一瞬、言葉を失い、ハンドルを握る手に力を込める。
「……誰もいない」
カイルの声は低く、揺れがなかった。
「彼女は“自分自身”を装っただけだ」
「それでも、正式な手続きを経ずに人格移植を行った。完全な違法行為だ」
「だが……その罪で、誰かが消えたわけじゃない」
車内の空気が、わずかに張り詰める。
ヴィクターは眉を寄せ、フロントガラスの向こうへ目をやった。
街路樹の緑が風に揺れ、遠くで子供たちの笑い声が響いている。
カイルは、静かに言葉を続けた。
「……母親がいない子供は、可哀そうだ」
その声音には、どこか遠くを見つめるような淡さがあった。
ヴィクターの脳裏に、かつての訓練所の記憶がよぎる。
無口で、常に冷静だった青年――カイル・アシュフォード。
──確か、彼の母親は、もうこの世にいなかったはずだ。
「……」
何か言いかけて、ヴィクターは言葉を飲み込んだ。
午後の光が車内に柔らかく差し込み、
その中で、2人の影だけがゆっくりと伸びていった。
CH5
-ゴースト本部1階第1チームデスク-
夕方前。
ゴースト本部第1チームのデスクに、全員が揃っていた。
透明な仕切り越しに、報告書の電子光が淡く反射している。
カイルは端末を閉じ、簡潔に口を開いた。
「レイチェル・グラントの件について報告する。
虹彩リングの確認は――なし。
よって、違法な人格移植ではありませんでした」
一拍置き、淡々と続ける。
「外見や話し方、歩き方が変わっていたのは、本人が自分を変えようとした結果です。
有体に言えば……“イメージチェンジ”ですね」
ニーナが眉をひそめた。
「……でも、少し引っかかる。
どうして偽名を使わなかったの?
その方が、夫に見つかりにくかったはずでしょ」
短い沈黙が落ちる。
カイルは一度視線を伏せ、静かに答えた。
「おそらく――旧姓には、強い思い入れがあった。
自分の“名前”まで偽ることは、できなかったんだと思う」
その声には、わずかな哀しみが滲んでいた。
スタンリーが書類を閉じながら、小さく呟く。
「……そういうものか。人には、人なりの執着がある、か」
ヴィクターは終始、難しい表情のまま黙っている。
バニングが腕を組み、全員を見渡した。
「違法な人格移植で、誰かの人格が失われたわけじゃない。
なら、本件はここで終了だ」
その一言で、場の空気がわずかに緩んだ。
各々が端末を閉じ、席を立つ。
夕方の光が窓際から差し込み、机の縁を淡いオレンジ色に染めている。
カイルだけが立たず、報告書の余白を見つめていた。
「……旧姓を守る、か」
小さく零れたその呟きは、誰の耳にも届かなかった。
***
定時後。
第1チームの執務フロアには、ほとんど人影がなかった。
落とされた照明の下で、カイルはひとり、事件報告書をまとめている。
端末の淡い光が、机上の書類を静かに照らしていた。
背後から、低く落ち着いた声が響く。
「……ヴィクターから、全部聞いた」
カイルは手を止めずに答えた。
「……すみません。先ほどの公式報告とは、食い違います」
「だが――あの親子を守ったんだろ?」
カイルは言葉を返さず、ただ視線を落とした。
バニングは小さく笑った。
「なら、それでいい。俺は何も言わんし、何も知らん。
……ああ、レイチェルの新しいIDも、もう申請しておいた」
「……ありがとうございます」
短い沈黙が流れる。
カイルは思案するように、静かに続けた。
「……ただ、今回の件には、どうしても腑に落ちない点があります」
「どこだ?」
「人格移植の“使い方”です。それと――ニーナが指摘した、“偽名を使わなかった理由”」
バニングが顎に手を当てる。
「……ほう。どう見る?」
「レイチェルは民間企業の広報担当です。
人格移植の理論に詳しいとは考えにくい。
それなのに、外見も人格も変えず、虹彩リングだけを残す――
そんな“痕跡だけが残る使い方”を、独力で思いつくとは思えません。
それに、一般には知られていない虹彩リングまで知っていた」
「……確かにな」
「それに、偽名を使わなかった点も不自然です。
もし偽名を使っていれば、通報があっても“他人の空似”で終わった可能性が高い。
それなのに、あえて“レイチェル”を名乗り続けた。
……まるで、通報されることを前提にしていたかのようです」
バニングが腕を組んだ。
「つまり……ゴーストの介入を、最初から想定していたと?」
「ええ。人格移植に詳しい誰かの“助言”があったと考えるのが自然です」
カイルは一拍置き、声を低くする。
「……もしかすると、通報したのもその人物かもしれません。
ゴーストが“見逃す”ところまで、計算に入れていた可能性があります」
バニングの表情が、わずかに引き締まった。
「……そういえばな」
「何か?」
「レイチェルの新ID申請をCIARに通した時だ。
やけに処理が早かった。まるで“待っていた”かのようにな。
しかも、ゴースト名義での再発行申請がなければ、本来通らない案件だ」
「……なるほど。最初から、それを見越して――」
カイルは黙ってバニングを見た。
「……もしお前の推測が正しいなら」
バニングは静かに言う。
「CIARの上層部にも顔が利く人物が、裏で動いた可能性がある」
「……アカネには話しましたが、彼女にそんな素振りはありませんでした」
バニングは目を細めた。
「……もし、“レイチェルの友人”だとしたら?」
「……30代前半、女性。
人格移植に詳しく、CIAR上層部に影響力がある……」
2人の間に、重い沈黙が落ちる。
「……1人、心当たりはあるがな」
「……まさか」
バニングは小さく息を吐いた。
「まあ、この件はこれで終わりだ。報告書を仕上げて出しておけ」
「……了解です」
カイルは端末を閉じ、短く頷いた。
そのとき、不意に脳裏をよぎった言葉があった。
――「お仕事、頑張ってね。」
理由もなく、ほんの少しだけ、カイルは気恥ずかしそうに口元を緩めた。
***
夜。
アパートの灯りの下。
子供が寝息を立てる静かな部屋で、レイチェルは机の上の写真立てを手に取った。
そこには、若い頃の自分と、もう1人の女性。
眼鏡をかけたその人物は、寄り添うように微笑んでいる。
レイチェルは、小さく、震える声で呟いた。
「……ありがとう、エミリー」
窓の外で夜風が吹き、カーテンを静かに揺らす。
その音は、遠くCIARの研究棟へと続いていく――
淡く、消えない余韻のようだった。




