第1部 第10話「静かな通報(1)」後編
CH4
-CIAR 4階第2研究室-
無菌灯の白い光が、銀色の器具とモニターの縁を淡く浮かび上がらせていた。
アカネとエミリーは並んで立ち、神経波形のグラフを静かに見比べている。
「同調域、少しずれてるわね。転送中の共鳴波、臨界値を超えてる」
「ホスト側の反応遅延じゃない?」
「それもある。……装置が古いのよ。そろそろ新型に換えてほしいところね」
エミリーがタブレットを軽く叩くと、画面上の波形がなだらかに収束した。
ノック音がして、扉が少し開く。
「入るよ」
カイルが顔を覗かせると、エミリーが手を止めて振り向いた。
「お、久しぶり。元気してた?」
「はい。これ、この前のお礼です」
カイルが差し出したのは、街角で評判のプリンだった。
「アカネにも。前に実家でご馳走になったので」
「ありがとう。母さんにも言っとくわ。そういえば、また来てって言ってた」
「ぜひぜひ」
「……少しは遠慮しなさいよ」
アカネが笑うと、エミリーが肩をすくめた。
「ほんと仲いいわね。でも付き合ってないのよね。不思議だわ」
その一言に、2人は同時に視線を逸らす。
カイルがわざとらしく咳払いした。
「……あ、そういえば」
空気を切り替えるように、カイルは表情を整える。
「この前のアレンの件、助かりました。知識の消去、完璧でした」
「人格移植装置、二度目の使用だったでしょう? 正直、危なかったわ」
「はい。もし記憶が崩壊してたら、アレンにも紫苑にも顔向けできなかった」
「そのへんは任せて。人格移植なら、私の専門だから」
「……頼りにしてます」
軽い笑いが交わされ、実験室の空気がわずかに和らぐ。
やがてカイルは腕時計に目を落とし、姿勢を正した。
「本部から呼び出しです。……じゃあ、仕事に戻ります。アカネ、母さんによろしく」
「分かってるけど……私の母さんだからね」
手を振るアカネの笑顔を背に、カイルは扉へ向かう。
その背中に、ふいにエミリーの声がかかった。
「あ。カイル」
「はい、なんですか」
「お仕事、頑張ってね」
「……? はい……」
応じはしたものの、わずかな違和感を胸に残したまま、カイルは研究室を後にした。
扉が閉まると、エミリーは書類をまとめながら立ち上がる。
「さて、私も上層部への報告。少し行ってくるわね」
「うん。私はデータまとめておく」
再び実験音が静かに響き、ガラス越しに光の粒が反射する。
無菌の静けさの中に、ほんのり甘いプリンの香りだけが残っていた。
CH5
-ゴースト本部1階第1チームデスク-
「通報内容は──人格移植の可能性あり、とのことです」
人事局からゴースト本部へ転送された報告書を、スタンリーが淡々と読み上げた。
ディスプレイには、ある女性社員に関する複数の証言が並んでいる。
――話し方がまるで違う。
――いつも結んでいた髪を突然切り、色まで変えた。
――服装が地味になり、笑い方も別人のようだった。
対象はレイチェル・グラント。三十代前半、民間企業の広報担当。
同僚の証言によれば、長期休暇明けを境に、振る舞いが一変したという。
「人格が変わった、と言うほどの証拠には見えないが……」
報告書を繰りながら、カイルが低く言った。
「通報は匿名だ。ただし、人格移植関連は優先的に一次調査を入れる決まりになっている」
バニングが淡々と補足する。
「身体や人格に関わる事案は、放置すれば被害が拡大する。一次で“別人のようだ”という所見が出れば、本格調査に移行する。今回は、その条件に当てはまる」
「最近、心療ケアセンターに通っていた記録もある」
その一言に、ヴィクターが腕を組んだ。
「匂うな。非公認の移植施設……いわゆる“ブラッククリニック”の線がある」
「とはいえ、本人を確認せずに断定はできない」
カイルは冷静に返す。
「虹彩リングの有無も、まだ未確認なんだろ」
「ああ。監視カメラ映像はあるが、解像度が足りない」
スタンリーが映像を切り替える。
受付ロビーの画面に、微笑むレイチェルの姿が映し出された。
短く切った髪。だが、その奥の印象が、どこか噛み合わない。
「……確かに、変わってるな」
カイルは目を細めた。
「立ち姿、視線の置き方、呼吸のリズム……全部、別人のパターンだ」
「人格移植か、あるいは深刻な解離か」
ヴィクターの声は、探索者のそれだった。
「どちらにせよ、直接会わなければ始まらない」
カイルは報告端末を閉じ、椅子から立ち上がる。
「スタンリー、通院記録とクレジット履歴を洗ってくれ。俺たちは現地確認に行く」
「了解。警察の民間協力枠は、すでに通してある」
「なら、即日で動こう」
ヴィクターが短く言った。
「仕込まれた人格なら、時間が経つほど痕跡は薄れる」
カイルは小さく頷き、ホルスターを装着する。
端末の青い表示灯が点滅した。
静まり返った研究棟の空気の中で、
2人の出動準備は、音もなく進んでいった。
CH6
-とある住宅街-
午後のアパート街。
築年数の経った三階建ての集合住宅──その二階の一室を、カイルとヴィクターが訪れていた。
チャイムに応じて扉を開けたのは、黒髪を後ろで束ねた細身の女性だった。
レイチェル・グラント。穏やかな表情の奥に、わずかな警戒が滲んでいる。
「ゴーストの者です。違法人格移植に関する通報があり、その確認に来ました」
ヴィクターがやや硬い声で名乗る。
「……私が、ですか?」
戸口に立ったまま、レイチェルは小さく目を見開いた。
「現時点では、事実確認のための聞き取りです」
カイルが一歩前に出て、声の調子を落とす。
「最近、生活や体調で変わったことはありませんか。記憶や感覚の違和感でも構いません」
「いいえ……特には」
レイチェルは即答した。
「夫と子供と、普通に暮らしています」
その背後で、小さな気配が動いた。
レイチェルの脚の陰から、5歳ほどの男の子がこちらを覗いている。
カイルは視線を下げ、ゆっくりと膝を折った。
「こんにちは。僕はカイル。ねえ──お母さん、最近なにか変わったことあった?」
男の子は首をかしげ、少し考える素振りを見せてから、屈託なく笑った。
「んーん、なにも。
ママはずっと同じだよ。ごはん作ってくれて、絵本読んでくれて、ぎゅってしてくれるの」
飾り気のない言葉だった。
作ろうとした形跡もない、ただの実感。
その瞬間、カイルの胸の奥で芽生えたのは“違和感”ではなかった。
むしろ──過剰なほどの整合。
「……ご協力、ありがとうございました」
ヴィクターが軽く頭を下げる。
「本日は聞き取りのみです。何かありましたら、こちらにご連絡ください」
レイチェルは安堵したように微笑み、扉を閉めた。
小さな手が、最後まで振られていた。
2人は無言のまま階段を下り、アパートの外に出る。
午後の風が、建物の隙間を抜けていった。
「……虹彩リング検査は?」
ヴィクターが低く切り出す。
「この状況なら、簡易検査だけでも──」
カイルは首を振った。
「できない」
即答だった。
「虹彩リングは人格への直接介入だ。
確証も同意もない段階で踏み込めば、俺たちが越えてはいけない線を越える」
「だが、通報はある。
そして──子供の証言が、逆に不自然だ」
ヴィクターの視線は、すでに先を見据えていた。
「“変わっていない”と言い切っていた」
カイルが静かに言う。
「作られた言葉じゃない。あれは本音だ」
「人格移植を受けていない、という意味にも取れる」
「……あるいは」
カイルは空を見上げ、言葉を選ぶ。
「移植という“前提”そのものが、間違っている可能性もある」
夕光が灰色の外壁に淡く反射していた。
街の喧騒から切り離されたように、2人の沈黙だけが、その場に残っていた。




