第1部 第1話「目覚め」後編
エミリーはホログラフを切り替える。
映し出されたのは眼球の拡大図。虹彩の縁に、淡いリング状の光が浮かんでいる。
「人格移植が行われると、約24時間以内に虹彩の縁に微細な発光が現れます。これが“虹彩リング”です。現在の技術では、このリングを偽装することは不可能です。
……ただし、人格移植の“証拠”となるこのリングは、犯罪を助長する恐れがあるため、一般には公開されていません。
皆さんが入館時に毎回受けている虹彩スキャンは、このリングを確認するためのものです」
カイルは思わず目元を指でなぞった。
その一瞬、胸の奥を冷たいざわめきが走る――理由は分からない。
エミリーは続けた。
「違法な移植の多くは、旧型のコピー品や密造装置によって行われます。精度が低く、神経系に深刻な損傷を与える危険性が高い」
そこでヴィクターが腕を組み、静かに口を開いた。
「つまり、装置の不具合やプロセスの未完成によって、人格そのものが破綻する可能性がある……ということか」
淡々とした、分析的な口調。冷徹に響くが、論理に無駄はない。
エミリーは小さく頷いた。
「その通りです。倫理と安全性を無視した手法は、多くの犠牲を生みます。だからこそ、監視機関の存在が不可欠なのです」
その言葉を受け、後方で壁にもたれて沈黙していた男が口を開いた。
「違法移植は、人間の尊厳を踏みにじる最悪の犯罪だ」
バニングの低い声が、研修室の空気を震わせる。
「我々ゴーストの任務は、法を守ることじゃない。“人格を守ること”だ。肝に銘じろ」
厳しさの奥に静かな怒りを宿した視線に、隊員たちは自然と背筋を正した。
ニーナ・ブルーダーは無言のままその眼差しを受け止め、僅かに頷いて応じる。
ニーナは第1チーム所属――カイルやヴィクター、スタンリーと同じ隊の人間だ。
小柄な体格だが、その佇まいに弱さはない。金髪のショートヘアも揺らさず、言葉を発することなく視線を受け止める。
下から這い上がってきた者の強気が、声より先に、その目に宿っていた。
講義は続いていく。
だがカイルの心の奥には、今触れたばかりの虹彩の話が、不穏な重みとなって残り続けていた。
CH4
-3カ月前-
有名な若手空手家、ローガン・ピアースは、世界大会の決勝戦の最中に脊髄を損傷し、全身麻痺となった。
突きが交錯した刹那、背中から落ちる鈍い音が会場に響き、実況アナウンサーの悲鳴混じりの声がスピーカーを震わせる。
「ローガンが……動かない!」
医療スタッフが駆けつけ、担架が差し込まれた。
数万人を収容する観客席は一瞬で静まり返り、押し殺した嗚咽だけが点々と漏れる。
将来を嘱望された天才の突然の転落は、格闘技界に留まらず、一般社会にまで大きな衝撃を走らせた。スポーツニュースは連日この事故を報じ、SNSには祈りと絶望が入り混じった声が溢れ返った。
──そして、数カ月後。
彼の父、デヴィッド・ピアースに関する奇妙な通報が、人事局に寄せられる。
「高齢のはずなのに、動きが若すぎる」
「受け答えに、妙な違和感がある」
「まるで若者のようだ」
一つ一つは些細に見える報告だった。
だがそれらはやがて線となり、ゴーストの耳に届く。
こうして、静かに――事件の幕が上がった。
CH5
-ゴースト本部2階ブリーフィングルーム-
スクリーンの前に立ったダグラス・バニングが、低く鋭い声を響かせた。
「全員揃ったな。これより、人事局から通報のあったデヴィッド・ピアースについて精査する」
ブリーフィングルームには第1チームが集まっていた。
カイル、ヴィクター、スタンリー、ニーナが席に着き、誰も言葉を発さぬままモニターを見つめている。
スタンリーが端末を操作し、淡々と告げた。
「監視カメラ映像を投影します」
画面に映し出されたのは、1人の老人だった。
白髪交じりの髪をコートの襟に収め、街路を歩いている――はずの姿。
「……妙だな」
映像を一時停止し、スタンリーが指先で重心線を示す。
「ご覧の通り、歩幅が一定で無駄がない。膝の屈伸も自然で、常に間合いを測るような体の使い方です。……訓練された格闘家の所作ですね」
カイルが目を細め、息を呑んだ。
「空手家か……?」
「ですが、記録上は武道経験なし。デヴィッド・ピアースは、ただの会計士です」
会議室に重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、カイルが静かに口を開いた。
「……なら、中身はローガン本人かもしれない」
ヴィクターが即座に、冷静な声で問い返す。
「合法な移植の記録は?」
「存在しません。CIARの監査ログにも、該当はなし」
ニーナの即答に、空気がさらに冷えた。
「つまり──違法だな」
バニングの声は厳しい。だが、その視線には隊員たちへの静かな配慮が宿っていた。
「違法移植者は、精神的にも肉体的にも不安定になりやすい。油断すれば命を落とす」
再び沈黙。
ヴィクターが小さく首を振る。
「父を器にしてまで生き延びる……理解に苦しむ選択だ」
カイルは何も言わず、拳を握った。
“父”という言葉が、胸の奥に古い痛みを呼び覚ます。
「カイル、ヴィクター。2人でデヴィッドを追え」
バニングは2人を見据え、低く念を押した。
「いいか。相手は洗練された格闘家だ。絶対に油断するな」
「わかりました!」とカイル。
「承知しました」とヴィクター。
2人が会議室を後にする。その背中を見送りながら、スタンリーは端末に残る数値へと視線を落とした。
父と子の間に起きた“何か”が、静かに、その輪郭を現し始めていた。
CH6
-とある住宅街-
通報を受け、現場に到着したカイルとヴィクターは、周辺住民への聞き込みを進めていた。
「ここ最近、妙にキビキビした老人を見かけるようになって……」
そう語る中年女性にカイルが頷いた、その直後だった。
数軒先の交差点から、鋭い悲鳴と怒号が響く。
「バッグを渡せ!」
「やめて、誰か──!」
反射的に、2人は駆け出した。
交差点に飛び込むと、フードを被った若い男が女性のバッグを奪い、そのまま走り抜けようとしている。
――その瞬間。
通行人の群れを割るように、初老の男が前へ出た。
一歩の踏み込みに無駄はなく、次の瞬間には足払いから背負い投げ。強盗の身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
乾いた衝撃音に、周囲の群衆が息を呑んだ。
「動くな」
鋭い声。
老人は迷いなく手首を取り、関節技で相手を制圧する。その動作は軍人のように正確で、一切の隙がない。
「……お見事だ」
思わず声をかけながら、カイルはバッジを示して駆け寄った。
「ゴーストの者です。迅速な対応、感謝します」
「……いえ。当然のことをしたまでです」
老人――デヴィッド・ピアースと名乗った男は、丁寧に応じた。
だが、背筋の伸びた立ち姿と鋭い眼光は、年齢を明らかに裏切っている。
(……違う。素人じゃない。むしろ、熟練の格闘家だ)
肩の落とし方、重心の置き方、呼吸の取り方。
どこかで見覚えのある動きだった。
「ヴィクター、少し先に行っててくれ。この方と少し話す」
路地裏へ誘導しながらそう告げると、ヴィクターは訝しげに目を細めつつも、何も言わずに頷き、先へ進んだ。
路地裏に入り、2人きりになった瞬間。
カイルは距離を取り、声を低く落とす。
「……あなた、ローガン・ピアースだな?」
一瞬、老人の表情が硬直した。
次の瞬間、視線が鋭く変わり、自然と構えを取る。
その足さばきは――やはり、空手家そのものだった。




