08 河間
臧洪と程恭は斥候の先導で外郭の柵を抜け、陣へと通される。名を問う門吏が木札に筆を走らせ、来由を聞き終えると衛士が手綱と佩刀を改めた。往還する隊伍が地を横切る。
しばらく二人は待った。柵の向こうで槍が列を正し、伝令の旗が上下する。内側の帷は固く閉ざされ、要人の居ることが気配で知れた。門吏がうなずき、使いを走らせる。
やがて帷の内から文官風の男が現れ、二人の前で歩みをとめた。陳琳である。臧洪は軽く首を垂れた。影が一瞬重なり、すぐに離れる。
「いつでも訪ねてこいと言っていただろう」
「冀州にだ。戦場にとは言っていない」
旧交の温みが、わずかな言葉で戻る。程恭が口の端をわずかに上げた。
「孔璋は相変わらず要所を外さぬなあ。子源の言は半分で切っておくのが肝心ですよ」
「元直の舌は昔から長いな」
笑いは短く、音を残さぬ。陳琳は衛士へ目で合図し、二人に向き直った。
「本初殿の幕下にはすでに通している。子源、元直、内へ。私が取り次ぐ」
臧洪はうなずき、胸中で言の順を確かめる。広陵の主の名、当坐の務め、懐の書簡、いずれも乱れなし。帷の綴じ目がわずかに揺れ、灯が透ける。
内では、袁紹が静坐していた。帷の隙から見えた三人のやり取り。押しつけがましくない近しさ、目で交わす合図。その調子に、若き日の友の姿が胸裏をよぎる。張邈と曹操、肩を並べて同じ方角を見た日の記憶である。衣を正し、通せ、と顎で示した。
陳琳がふり返り、目で促す。衛士が帷の口を押さえ、道が開いた。地の踏み心地は確かである。冗談はここまで、次は志の言であった。臧洪は軽く息を吸い、一歩、内へと身を進める。
帷の口が押し開かれた。几の上に文が並べられ、左右に屏が立つ。臧洪と程恭は履を正し、陳琳の導きで一歩進んで拱手した。坐上には袁紹があり、衣はあでやかに過ぎず、眼は澄んでいる。侍は退き、室は言のために広くなった。外の武は帷で断たれ、ここは言のみが通う場である。
「私が袁本初である。子源殿、孔璋より来由は聞いた。坐し、語られよ」
臧洪は先に辞を述べ、自らが広陵太守・張超に仕える吏であり、世の乱れを憂え、北面の徳ある劉虞に助を請わんとして道に上ったことを語った。程恭は名を添えて頭を垂れる。
袁紹は目元を和らげ、几の端に手を置いた。
「私も劉公の徳を重んずる一人だ。天下の器を量るに、礼と信をもって先とすべき人である。ゆえに、その力を借りる道を思っていた」
袁紹は相手の息づかいと視線の揺れを測るのに長けている。臧洪の返す言が虚飾に触れぬのを見て、折れぬ竹のごとしと胸で評した。言は誠から出て、飾りがない。
臧洪は拱手したまま受けとめ、言葉を返した。
「本初殿の御志、しかと承りました。われらは義を誤らぬよう、道の先を確かめたく思うのみ」
袁紹はうなずき、少し身を起こす。
「子源殿は若き日の孟卓を思わせるところがあるな。張太守は、さぞ貴公を重用していることであろう」
その言は称揚に聞こえながら、器量と手並みを試す秤でもあった。臧洪は頭を垂れ、胸中で名と義の順を崩さぬと定める。
「さて、事だ。劉公の件は、まず私に任せよ。その代わり、貴公には頼みたいことがある。青州刺史・焦和が没したことは知っておるか。兵と民の心が揺れ、州は治を欠いておる。貴公は青州へ入り、政を立てて兵を撫でてもらいたい」
臧洪は顔を上げず、しかし声を明らかにした。
「恐れながら、私は張太守の吏。主の許しなくば、勝手は致しません」
「で、あろうな」
袁紹は即坐に応える。
「張太守の人となりは、孟卓を通じ知っている。私が書を遣わそう。貴公の才は使いより州に用うべきであり、これに異存はあるまい」
陳琳が一歩退いて筆を取り、主簿に目で合図した。几の端に置かれた札が移り、印の支度がすすめられる。程恭は息を吐き、臧洪の背へ視を据えた。臧洪は再び拱手する。
「主の返書を待ち、然るのち青州へ向かいましょう」
袁紹は笑みをわずかに見せた。
「孔璋、取り次ぎと書簡の手配、怠るな」
陳琳が承知と応じる。袁紹は最後に言を添えた。
「子源殿。ここでの道は、私が広くする。貴公は前を行け」
臧洪は拱手し、席を下がった。几の色が眼に残り、義と名の順が変わらず据わっている。門外は騒がず、人の歩みだけが続いていた。
× × ×
陽が二たび巡るあいだに、陣の気は少しずつ入れ替わった。伝令の往還は穏やかになり、硯は乾きを見せる。ある朝、衛士が一歩進み出て書簡を捧げた。封泥には広陵の印が確かにある。臧洪は拱手し、几の上で封泥を割った。
『青州の務めを許す。政を正し、兵を労え。お前の名は、この私が責任を持って保証し、引き受けよう。』
張超の字には、相変わらずどこか繊細さがある。臧洪は目を閉じ、書簡に指を当てた。これよりは手を下ろすより先に心を定めるのみ、と自らに言い聞かせる。
その時、陳琳が帷を開いて声を掛けた。
「子源、元直。すでに支度はさせている。行程の目安も記した。確認してくれ」
差し出された小札には、井や亭の位置、宿営に適した地の名が簡に記されている。
「孔璋はいつも過不足がないな」
臧洪が言うと、陳琳は首を横に振った。
「私は筆を運ぶばかりだがな。道を通すのはお前たちだ」
目を伏せ、陳琳は声の角をわずかに硬くする。ここからは務めの場であった。
「本初殿より言を預かっている。今は軍務せまり、直に見送る余裕なく、無礼を詫びよ、とのことだ」
呼吸の間に、決意が濃くなる。臧洪は姿勢を正し、言葉を選ぶ。
「本初殿に拝謝を」
出立の支度は軽い。衣は余計を持たず、器は要のみ。馬の腹帯を締め、鞍の紐を確かめると、程恭が小さく笑った。
「青州までは十日はかかる。私が歌でも歌おうか」
「いらぬわ」
軽口を交わす二人に陳琳が半歩寄り、声を落とす。
「子源。道は別れても、志は同じだ」
臧洪はうなずく。
「いつかまた、顔を合わせよう」
三人は笑みを浅く交わし、それ以上の言を重ねなかった。
帷の綴じ目が開き、外の景色が一段明るくなる。伝令の旗は遠く、槍の列は揺れた。臧洪は書簡を懐に収め、鞍に掌を置く。馬が一度鼻を鳴らし、程恭が並ぶ。
「元直、行くぞ」
「承知」
二人は袁紹の陣営を背に、東の方角へ馬首を向けた。前方の道は細くとも、踏めば形になる。臧洪は風を受け、手綱をわずかに絞った。




