09 残火
石垣の隙間を渡る風は乾き、畦は崩れ、廨舎の戸板は半ば外れて地に傾いでいる。道を行く者は目を伏せ、声を潜めた。
臧洪は馬をおり、掌で土をつまむ。程恭も黙って膝を折り、砕けた陶片を拾い上げた。縁裏に墨の線が残り、家名の印が割れていると知れる。
里の端には白髪の戸長がいた。臧洪が拱手して名を告げると、戸長は浅く礼をとる。
「青州に兵は多く、矢も槍も倉に満ちております。しかし、前の刺史様は、賊の噂を聞けば廟に走り、夜通し筮竹を鳴らす有り様。見ただけで旗を退かせ、戦は一度もありませなんだ」
程恭が問う。
「賊を取りまとめておるものに心当たりはあるか」
「黄巾の残り火が草の根を伝い、山と川の陰で群れを継ぎました。名の立つ者は一人、李猛と呼ばれております」
戸長は廨舎の奥を示す。虫喰いの簿に徴の行が途中で絶え、印泥は艶を失っていた。臧洪は欠けを指でなぞり、舌に苦さを噛んだ。政の荒れは、兵の荒れより人を傷める。
程恭が小声で言う。
「さて、何から手をつけましょう」
臧洪は空へと眼を上げた。
「政は正しく、兵は撫す。主の札に道は尽きている。まずは道を通すぞ」
程恭がうなずき、二人は戸口へ引き返す。散らばった札を並べ直すことが初手であった。
翌朝、残った吏を集め、札を洗って封泥を改める。簿の名を読み上げ、逃散の里を朱で記す。里長・戸長に順を示し、日中には斥候を四方へ放った。槍と弓は軽く、食は雑多な穀の粥、旗は小さく、口の数は少なく。戻りの刻と合図を一本に定める。
夕刻、斥候が最初に戻った。額が汗に濡れている。
「北の低地に野営の火が見えました。二百余、散発に動き、荷は軽い様子です。合図は太い笛。首は李猛と聞き及びます」
続いて西丘の馬跡、南の川曲の見張り。報は小刻みに揃った。臧洪は地図の上に指を置き、程恭へと寄せる。
「足の運びが賊だな。焦和殿のやり口は相手を育てたのだろう」
「では、こちらは規律を持って当たる必要がありますね」
「まずは走る脚を止めるぞ。軽装で追い、散らばる前に芯を抜く」
策は固まった。あとは備え、間を外さぬだけでよい。
× × ×
夜は短く、月は雲に隠れる。臧洪は兵を選んだ。若い手に固めず、老いた手を混ぜる。退きの旗、集合の笛、捕らうべきを殺さぬ律。倉に残った刃は研ぎ直し、弦を張り替え、槍の穂を布で拭う。秤に掛けるのは心の揃いである。
「兵は足りますか」
程恭の問いに、臧洪は肩で笑う。
「十分よ」
言は軽いが眼は硬い。見張りの火をひとつ消させ、眠りを割り当てた。ここで戦えば、ここに住む者の明日が変わる。
暁前、列は動いた。夜露が草を濡らし、履の脇で音を立てる。先頭の斥候が身振りを返す。隊は声を飲み、走った。丘から丘へ、川筋を横切り、砕けた橋板を踏み越える。臧洪は最後尾まで一度目を遣り、誰もこぼれぬのを確かめた。
「元直、出るぞ」
「承知しました」
旗が薄明に揺れる。列は東の道を選び、戦の始まりに足を合わせる。
左右の藪から短弓が放たれ、矢は走る脚を絡め取る。前列の何人かが膝をつき、砂が散った。賊の笛が上ずり、群れの形がわずかに崩れる。臧洪は槍を寝かせ、掌で道を切るように示した。
「右は溝で受けろ。左は払って押せ」
令が通り、盾が半歩前へせり出す。藪の陰で弦が鳴り、矢筈が光を弾き、逃げ足を止められた賊はばらばらに刃を掲げる。臧洪は列の腹を割り、斜めの角度を変えずに圧をかけた。
前方に外套を着た男が見えた。腰帯に黄の布を巻いている。斥候が事前に観察し、見分けの要と報せた印である。男は腰を落とし、剣先を猫のように揺らした。臧洪は馬を斜に寄せ、刃を重ねて二合、三合。手応えは重く、相手の腕は剛い。四合目、剣筋をわずかに外へ滑らせ、柄で手首を打つ。骨から鈍い音が跳ね、男の肩が下がった。なお踏みこもうとする足に、臧洪は槍の石突で土を弾き、膝裏を払う。男の視線が空を掠めた。
「元直!」
名を呼ばれた程恭が回り込み、逃げ道へ馬を入れる。横合いから盾が差し込まれ、剣を上へとはね上げた。二人の兵が左右から肩を押さえ、もう一人が足を払って地へ落とす。砂が噛み、外套の裾が裂け、黄の帯が泥にまみれる。
「首は討つなよ」
縄が走り、両腕が後ろで束ねられる。荒い息が三つ、輪の内で揃い、地がその身を受けた。輪がひとつ生まれ、声は長くならぬうちに収まる。
「開けてくれ」
臧洪が声を掛けると、兵は一礼して退く。男は膝で地を押し、肩で息をする。眼は負けを恥じず、まっすぐである。名を問うより先に、斥候が囁いた。
「李猛です」
臧洪は槍を伏せ、輪の内へ足を進める。
臨時に張った天幕の陰で縄目を改め、傷に布を当てた。程恭は見張りを配す。臧洪は坐を対に置き、外套の男の前に腰を据えた。
「いくつか問わせてもらおうか」
男はうなずく。
「構わん。好きに問え」
「ではまず、何故このような真似をしたのか聞かせてもらおう」
李猛は目を伏せず、言を正面から返した。
「飢えたからだ。青州の刺史は命の順も立てられぬ男でな。言葉ばかりが勇ましく、決して手は動かさなかった。そうして畑は荒れ、里は空いた。お前も見ただろう。老人は道に伏し、子は鳴き声すら上げられぬ。それが今の青州だ。俺は見た。歯を噛んで見た。ならば、と立った。寝転んで空を呪うよりは、己の手で道を開こうと思った」
胸から出たものが、刃よりも鋭いことがある。臧洪は李猛の言葉を真正面から受けた。
「あんたの怒りは真っ当だ。気持ちも分かる」
李猛の肩がわずかに揺れる。程恭が輪の外で腕を組み、視線を向けた。
「……が」
臧洪は声を低くする。
「やり方は誤りだ。民の器を奪い、道を塞げば、明日の畦は立たぬ。怒りで立つなら、怒りより先に理を据えろ。理は規律であり、規律は人を守る器だ。賊として走る脚は、いずれ自分で自分の喉を絞める」
「ならば、俺はどう生きるべきだった」
「俺の下で世の乱れを正せ。怒りの芯を持ったまま、剣の向きを変えろ。奪う手をやめ、守る手に置き換えろ。あんたの群れは散じ、人は籍に戻す。罪軽き者は労に付す」
輪の外の兵の肩が、わずかに緩む。李猛はため息を吐いた。
「お前、名は」
「臧子源だ。……先日、青州刺史を仰せつかった」
李猛が目を見開く。臧洪は口の端をわずかに上げ、悪戯の成就を隠しきれぬ童の顔でうなずいた。




