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01 蹴鞠

 鞠は掌にほどよい重みであった。大地の上を風が走り、帛の裾を揺らしては戻す。若い声が交わり、足の甲で受けた鞠が、柔らかい弧を描いてつながっていく。臧洪ぞうこうは背筋を伸ばし、踏み込みの拍を確かめてから、右足でそっと押し上げた。鞠は胸の高さに浮き、程恭ていきょうが軽やかに受けて返す。息は乱れず、笑いがこぼれた。


 市のほうからは秤の皿が当たる音がし、遠くでは子らが縄を跳んでいる。どこかで水を汲む桶の音がして、陽はいくらか傾きはじめていた。都の騒ぎは、まだ噂の形でしか届かない。だが、誰もが耳のどこかで、その言葉を撫でているのであった。


 「子源、私はお前と蹴鞠をするために広陵に戻って来たわけではないだが」


 陳琳ちんりんが片足で鞠を止め、つま先で小さく持ち上げながら言った。声こそ軽いが、瞳の奥に急ぐものがある。臧洪は笑みを含んで、肩で呼吸をそろえた。


 「それでも付き合ってくれるのが孔璋のよいところだな」


 まっすぐに褒められ、陳琳は言葉を探すように一瞬目を泳がせた。


 「まあまあ。二人とも職もないのだし、室に籠ってばかりいず、偶にはこうして身体を動かしてもよいではないですか」


 程恭が受けた鞠を脛で止め、笑って言う。帛の袖口から覗く腕は陽に焼け、汗が玉になって光っていた。


 「職がないのはお前もだろう、元直」


 臧洪が言うと、程恭は肩をすぼめ、鞠を返した。


 「それで、蹴鞠をしに来たのでないなら、孔璋は何をしに俺のところに来た」


 臧洪が問い、鞠の落ちどころに身を寄せて受ける。


 「冀州の袁本初殿に仕官しようと思ってな。勢いもあるし、何より家柄も確かだ。それで、お前たちもどうだ」


 陳琳は鞠を掌に落とし、革の縫い目を指でなぞった。言葉の先に、洛陽を遠ざけるための現実が浮かぶ。


 「袁本初殿か。あの方の下でなら食に困ることはあるまい」


 程恭が受け、自然と検討する響きで言った。足元の砂が踏み返すたびに舞い上がる。


 鞠は甲で受ければ音が柔らかく、脛で止めれば拍が切れる。臧洪は甲、膝、甲と三つで返し、最後を掌で吸わせて落ちを殺した。革の縫い目が親指の腹に当たり、弾力が骨に伝わる。臧洪が送る拍は乱れず、程恭はそれを読んで脇へ流す。三つの影が地に重なり、また離れた。


 臧洪は鞠を見上げ、ひと呼吸おいて言った。


 「俺は行かんぞ」


 陳琳が意外だというふうに首を傾ける。視線がなぜと問うてくる。


 「仕えるべき人物は俺の目で見て決める」


 声に迷いはない。印綬を解いた日の手応えが、いまも帯のあたりに残っている気がした。


 「ならば着いてきて、見ればよいだろう」


 陳琳の言葉は理にかなっている。歩いて見て、違えば戻ればよい。だが臧洪は首を振った。


 「行かん。縁があれば自然と出会うはずだ」


 風が強くなり、帛の裾がはためいた。遠くで、行き交う人の噂が切れ切れに乗る。


 「大将軍が倒れたそうだ」

 「宦官どもが先に刃を抜いたらしい」

 「天子さまがお移りになった」


 日脚がわずかに傾き、舞い上がった塵が筋になって見えた。三人は目を合わせ、言葉を飲み、ひととき鞠の拍だけが続く。


 「それなら、俺もやめておく。子源から目を離すとおかしなことをしでかしそうだ」


 程恭が笑い、鞠を高く上げた。日輪を背に、革の球がまぶしく見える。


 「まったく頑なな男だ」


 陳琳はため息をつき、口の端をわずかに上げた。


 「それでは、子源の面倒は元直に任せよう。気が変わればいつでも冀州を訪ねてこい」


そう言って、陳琳は鞠をあらぬ方向へ蹴り上げた。わずかに意地を混ぜた軌道で、球は草の向こうへ消える。


 「おい、孔璋」


 臧洪が笑いながら駆けて行く。背の高い草が脛をくすぐる。鞠は溝の縁で止まっており、臧洪はそれを拾い上げ、ついでに縫い目を指で押さえて形を整えた。


 戻ってみると、陳琳の姿はもう見えなかった。道のほうへ歩み去ったのであろう。帛の裾が翻る影が、砂の上に残っていた。  


 「行ったか」


 臧洪が呟くと、程恭は目元を和らげてうなずく。


 「ええ。あの人は筆一本で道を開けます。だから、心配は要りません」

 「そうだな」


 臧洪は鞠を掌で弾ませ、空へ放った。球は回転し、落ち際にふっと姿勢を変えて掌に戻る。


 「子源」


 程恭が名を呼ぶ。


 「都のこと、気にはならないのですか」


 臧洪は息をついた。


 「気にはなる。しかし、俺が急いだからといって、志が速くなるわけではない」


 その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。


 陽がさらに傾き、市のほうからは、早仕舞いの戸を閉める音がする。川筋のほうへ鳥が二羽渡り、空の色は薄い金から少しずつ鈍っていった。臧洪は鞠を足元へ落とし、甲で持ち上げ、膝で受け、また甲へ返す。


 「元直、もう一度だけ」


 臧洪が言うと、程恭は笑ってうなずいた。二人の間を行き交う鞠は、さきほどよりも軽く見えた。遠くの道のほうには、人の影が小さく伸び、やがて見えなくなる。 臧洪は最後の一足で鞠を高く送り、掌で受け止めた。胸の前でそっと押さえ、目を閉じる。縁があれば、道はいつか前へ開く。そう確かめるように、彼はゆっくりと息を吐いた。


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