16 根梢
扉の横木が音を立てる。臧洪は袁紹の城を辞したのち、そのまま東郡へと戻った。廊には吏が集まり、鍵束が掌に移り、戸長が拱手し、兵は城楼へと走る。町の店々は板を下ろし、井戸には番が立った。臧洪は堂に入り、几の前で目を閉じる。
袁紹が臧洪の説得を諦めず、追って来るのは見えている。しかし、言で呼び戻すはずだ、と臧洪は読んだ。城を閉ざし、倉は封じ、兵糧は勘定し直す。門の盾は内へ引き、城楼の縄梯を改める。兵に無用の怒声を禁じ、弓弦を確かめるよう命じた。吏には戸ごとに穀の目方を割り付けさせ、子の泣く家を先に回らせる。戦を呼ばず、しかし退かぬ。この籠城は義を地に落とさぬための囲いである。
午の前、予見していたとおり、遠見の台から塵の帯が告げられた。やがて旗の群れが野に環を描き、槍の列が遠くで止まる。鼓は浅く、一度響いたのちに黙した。梯は寄らず、矢も飛ばぬ。陣の帷は広がるが、火の見は上がらぬ。臧洪は堞に立ち、その手心を見た。あくまで包囲である。あちらにも義の名が残り、こちらにも礼の形が要る。いずれ刃を交えねばならぬときは来るやもしれぬが、それは今日ではない。
堞の上に立つ者の眼には、外の輪が刃を見せずに狭まっていくさまが映った。その輪の内側から離れた帷の奥で、袁紹は几の端に指を置いて言う。
「子源は友であろう。私もあれを斬りたくはない」
陳琳は拱手して受け、筆を持った手を止めた。まっすぐに笑う友の顔が浮かぶ。義は分かる。分かるが、まっすぐすぎると責めたくもなる。されど、務めは務めとして、私情を包む衣を選ぶのが筆の役である。
袁紹はそれ以上言を続けず、目で促した。陳琳は筆を起こし、紙の繊に最初の線を置く。筆は揺れぬが、心は揺れる。勧め、宥め、たしなめ、励まし、道の先を示す。書き終えて書簡を締めると、封泥のざらつきが指に移った。
「孔璋」
袁紹が名を呼ぶ。陳琳は顔を上げた。
「子源は読む。返すかは子源の情に委ねよう」
陳琳はうなずき、書簡に宛てを書き添える。伝令が進み出て受け取り、帷の裏に消えた。陣の外では角が鳴り、夜の巡りが一つ進む。陳琳は濡れた筆を洗い、墨色の輪が水面に広がるのを見届けた。筆立てに戻す手が止まり、胸で友を呼ぶ。責めず、甘やかさず、戻る道を指すのが今宵の務めと定める。
やがて伝令は城の門に至り、門下に足を止めた。書簡を捧げ、馬を控え、矢を負わず、口を結んで立つ。見張りが合図を送り、門内の吏が走った。臧洪は立ち上がり、裳を払って堂を出た。胸の火は色を変え、怒りの上に務めが積もっていく。説得の包囲は、刃を見せずに首に縄を掛けるものだ。ならばこちらは、縄の上から言葉で手を払うより他はない。
伝令は馬を降りて拱手した。臧洪は一足前に出て、正面に立つ。胸のうちで名をひとつ呼ぶ。見ていてくれ、張太守。怒りは鎮まり、義だけが形を保つ。臧洪は黙して封泥を割り、書簡の行を目で追った。
巻を収めると、臧洪は一歩退いて伝令に告げる。
「返答は改めて、俺の配下に持たせる」
伝令は言葉なくうなずき、馬を退いた。臧洪は門内へと向かい、筆を起こす支度を進める。
暮れ六つを過ぎたころ、臓洪は使者に陳容を選び、 返書をその手に託した。
「必ず務めを果たします」
陳容は拱手し、馬へと向かう。背筋には緊張よりも意気があった。
陳容は無言で門を出て、馬を進める。袁紹の陣に至ると、帷の前で定めの式をとって書簡を渡した。書簡は丁重に取り次がれ、陳琳の前へと据えられる。
陳琳はそれを両手で受け取ると、封泥の固まり具合を見て目を伏せた。封を割れば、内に潜んだ義が物語る。彼は灯の向きを揃え、書簡を開いてゆっくりと読みはじめた。行の端には、旧き友の言があった。
『ご無沙汰は続けておりますれども、寝ても醒めても忘れたことはございませぬ。しかれども、生き方にかける根本の心持ちを異にし、相まみゆること叶わぬは、痛恨の至りにございます。
なにゆえと申せば、私とは仇敵の間柄となってしまわれたからにございます。かかる次第にては、他人にお仕えの折には、真情をありのまま披瀝いたしてもなお身は遠ざけられて罪を蒙り、またお気に入りを得んとする言を吐けば、かえって疑いを招くものでございます。
私の心はすでに定まり、二度と変わるまじきことをご承知置かれたくと願っておりました。重ねてお手紙を頂戴し、六枚にわたり古今の事例を引かれておられるに及んでは、もはや黙しておるわけにはまいりませぬ。』
読み進めるほど、言は澄み、情は曇らぬ。陳琳は眉の影を濃くし、ただ、子源らしいと念じた。しかし、己の筆の軽さが沁みてくる。
『どうして今日になって、こちらより逆さまに刃を交えんと願いましょうや。城上に登り兵を指揮するたびごとに、御主人の軍旗と鼓を遥かに望み見、弦をさすり矢を握りつつ、涙は面に溢れ出づるのでございます。
任を拝した当初は、大事をやり抜き、ともに漢室を尊び奉るものと存じておりました。ところが思いもかけず、天子のご不興をこうむり郷里の州は攻めを受け、郡将は羑里の災に遭い、陳留太守は暗殺のたくらみに斃れました。
忠孝の名を失うことと、交友の道に欠くることとでは、軽重まったく同じならず。ゆえに、涙を拭い、絶交を宣したのでございます。
昔、張景明は壇に登り、血をすすって誓い、命を受けて東奔西走の末、ついに韓馥より牧の印を譲らせることに成功いたしましたが、そののち一族ことごとく殺される災いを受けました。呂奉先もまた刺客に追われ、劉子曠は使者として忠孝を尽くしながら、御旗の下に屍となりました。
まことに、君子は亡命すといえども敵国には赴かぬものにござります。これがために、ご主人よりおとがめを受け、攻撃をこうむっておるのでございます。』
古今の例は理を積み、節を立てた。陳琳はその構えの確かさにうなずきながら、同時に道が狭くなってゆく気配を覚える。句が確かなほど、救いの手が入る隙は細った。
『義とは親にそむかぬこと、忠とは君を裏切らぬことにござります。東は郷里の州を本家として後ろ盾となし、中央は郡将を助けて国家を安んぜんとする。これのどこが悪うございましょうか。
申包胥は伍員に生命をさし出すを当然とし、秦宮の庭先にて号泣したがゆえに不当ということになりまするか。晏嬰は白刃を突きつけられながらも屈せず、南史は筆を曲げてまで生を求めはいたしませんでした。
ご主人は、まさに我らが例を反省の料として軍をお引き払い、鄴の守りに兵を配しておかるべきにござります。いかでかいつまでも腹を立てつづけ、わが城下に兵威を振るっていてよろしかろうはずがございましょうか。』
義と忠の二字が行間からまっすぐに立つ。陳琳は理の骨が正しく組まれていると知った。同時に、己の筆が差し挟める継ぎ目はどこにもないと悟る。陳琳は書簡を持つ手に力を入れたが、行から目は離さぬ。読み切るまでは、友の声を遮らぬと定めた。
『さらば、孔璋。足下は故郷の外に出て利を挙げんと志すが、臧洪は天子と親より命を受けておる。そなたは盟主にその身を託しておられるが、臧洪は長安にお仕えしているのだ。まこと悲しきことよ。根は同じくしても、梢に至れば離れゆくとは。』
読み終えて、陳琳は大笨蛋、と呟いた。
返す言は、もはやない。
陳琳は姿勢をただして立ち、主の坐へと書簡を運んだ。




