15 決別
ほどかれた縄の痕が臧洪の手首に帯のように残っている。戸口には衛士が二人、身を固くしていた。外の廊で足の音が止まり、ゆっくりと戸が開く。袁紹が裾を払って入り、後ろに顔良が一歩退いて控えた。
「子源」
臧洪は立たず、目を上げる。袁紹は息を継ぎ、言を惜しまぬ。
「雍丘が陥ちた。……張太守は、みずから終いをなされた。孟卓も裏切り者の刃にかかり、命を落としたそうだ」
室の床がわずかに鳴った。臧洪の拳が固く握られ、血の色が指に戻らなくなる。言葉は胸に集まって喉を焼いた。
「なぜ、見殺しにした」
押し殺した声はやがて強くなる。袁紹は一歩寄り、目を伏せた。
「時の理であった。河北を固め、北を押さえるさなかであった。軽挙は全てを崩す。張太守の節義は、私も知る。無駄にはせぬ」
臧洪が立ち上がる。胡床の脚が鳴り、衛士が身を正した。
「無駄にはせぬ、だと。張太守がどのような思いで命を絶ったか、あんたには分からんだろう。援軍を信じ、凍える中待ち続けて。せめて、俺がお供出来ていれば!」
顔良が半歩出る。
「子源殿、荒ぶるな」
臧洪は振り返らぬ。肩が大きく上下し、拳は震えた。
「荒ぶるまいとして荒ぶっている。押しとどめる力が、俺の胸にない」
袁紹は掌をゆっくりと下ろす。
「落ち着け。多くの目が見ているぞ」
「目があるなら耳もあるだろう! 雍丘の声は届かなかったのか!」
言い終えると、急に息が尽きた。対面を保つことすら難しく、その下から泣きが出そうになる。臧洪は唇を噛み、血の味を確かめた。顔良が腕へ触れる。
「子源殿。ここで身を崩せば、義は虚になる」
臧洪は腕を引き、触れた手を外した。怒りは燃え、悲しみは増す。二つは互いを噛み合った。
やがて袁紹は衛士に目で合図し、みなを率いて下がる。扉が閉じ、室は無音になった。臧洪が拳を開く。爪の痕が掌に残り、赤い点がいくつか浮いた。息はまだ荒いが、声は出さぬ。ただ心で名を呼び続ける。張大守、張大守、と。灯の芯が唸り、暗さがわずかに増した。
戸口の外では交代の衛士が足を摺り、鎖の金具が小さく触れ合う。臧洪の身の自由はまだ許されず、帷の向こうの明かりが時の移ろいを告げる。胸の石は場所を移さず、言葉の出入りを塞いだ。
× × ×
夜が明け、帷の内に薄明が差す。見張りの交代が済むと、戸が再び開いた。瞳の奥を曇らせ、袁紹が独りで入る。
「本初殿」
「やはり、眠れはせぬか」
袁紹はうなずき、臧洪の目の前に腰を下ろした。
「昨夜の言は受けるが、わが選びは戦の理に沿うものだ。冀州の背を守らねば、全てが崩れる。張太守の死は痛恨であったが、その義は天下に示された。名は決して地に落ちぬ」
臧洪は顔を上げぬ。返事もない。袁紹は声を和らげ、調子を替えた。
「生き残った者にはここからの務めがある。怒りで地は保てぬのだ」
返事はなお無い。呼吸が一定に続く。袁紹はさらに寄った。
「時を見れば道は開ける。張太守の名に恥じぬ道を、共に作ろう。ここからは民の策だ。子源、貴公の手が要る」
臧洪は背をただし、うなずいた。しかしながら、それはあくまで礼であった。胸には動かぬ石が坐し、これから歩む向きを黙って示している。
袁紹はついに小さく息を吐く。
「どうしてそう頑ななのだ」
臧洪の眉がわずかに深くなり、視線はなお遠くを保つ。
「本初殿。俺はあんたの旗の下には留まらん。縁は、ここまでだ」
室の空気が凍った。袁紹は、臧洪に向かって手を差し出す。
「早まるな。雍丘のことは、これから償ってゆける」
臧洪は首を振った。
「名は人が立てよう。張太守の終いは、俺の胸で終わらせる」
袁紹の足が半歩進む。
「怒りに任せるな。天下は道半ばだ。貴公を推した心は、いまも変わらぬ」
臧洪は拱手した。礼は尽くすが、目は上げぬ
「本初殿の義は受けた。だがな、俺の義はここで別れる」
袁紹は沈黙し、やがて掌を下ろした。
「どうあっても行くと言うか」
「行く」
臧洪は身を翻し、室を出る。袁紹が呼んでいたのであろう。李猛がすぐ後ろについた。誰も臧洪を呼ばなかった。
門の前に至ると、扉閂の金具が鳴る。番の衛士が立ちふさがるより早く、臧洪は言った。
「開けてくれ。俺はここを辞す」
衛士は互いに目を見たのち、横木を外す。木の重さが腕へ移り、地に置かれた。風が来て、旗の縁がわずかに揺れる。臧洪は肩を揺らし、広場の縁へと歩を運ぶ。
李猛が馬を引くと、臧洪は束の間城壁を見た。
「仲固」
呼べば、李猛がうなずく。
「分かっている」
臧洪は一度も振り返らず、前へと進んだ。怒りは胸に火を落とし、義のみが形を保つ。




