14 雪夢
十二月の初め、雪が降った。
白い粉が陣の上に積もり、馬の背に薄く残る。兵たちは雪を溶かして水にした。
城の石は冷え、手摺に置いた掌がすぐに痛む。張超は城上に立ち、外の幕の並びと火の数を数えた。陣の旗は夜ごと位置をわずかに改める。鼓は遠く、矢文は来ぬ。囲みは固く、井の綱はささくれて手に逆らった。守りの務めは尽きつつあり、尽きぬのは心ばかりである。
見張りの足は一定で、交代の合図は乱れぬ。張超は帷を見渡し、堞の陰に残る雪を指で払った。白い粉は指の熱でたちまち消える。指先の冷えは、胸の冷えに似ていた。天は人を軽くも重くも扱わぬ。単に、務めの分だけを与える。与えられた先で、人は己の価値を量るしかない。
遠い陣の内で衝車がひとつ動き、すぐに止まった。今夜は動かぬのであろう。張超は胸当ての紐を直し、城上から降りた。まず歩く。不甲斐ない己に着いてきてくれた兵へ、飢えに耐える民へ、家族へと。感謝を告げ、心を伝える。それが今宵の務めである。
作坊の脇に木工がいて、割れた戸板に板を当てていた。張超は足を止めずに目で礼を示し、口を開く。
「よくやってくれているな」
木工は頭を垂れ、釘の音を一つ響かせた。音は雪に呑まれて、すぐに消える。
帳場では小吏が弓矢の数を写していた。張超はその背に立ち、肩に軽く手を置く。
「美しい字だ」
小吏はわずかに笑い、筆先を見つめた。張超は何も言わず、器に水を差す。
兵舎の前では、盾の縁を革で締め直す若者がいた。鎧は薄く、紐は磨り減っている。張超は膝を折り、縁の穴を指で確かめた。
「もう一夜、頼む」
若者は顔を上げずに応える。
「お預け下さい」
誰もが理解している。これは最後の巡りかもしれぬと。
廊を抜け、裏庭に回る。女は布を抱えて立ち、男は薪の数を数えている。張超は一人ひとりに目を合わせ、長くは留まらずうなずいた。感謝は多くを語らぬ。言葉は雪に吸われ、眼差しだけが残る。
私邸の前に至ると、内から幼い咳がして、すぐ止んだ。張超は戸に手を置いたが、開けずに声をかける。
「早く休め。風邪を引くと厄介だ」
内で返事が返った。名を呼ぶと、別れの色が濃くなる。呼ばぬまま、戸から手を離す。
廊の角で、背の丸い年老いた吏が待っていた。張超が近づくと、吏は先に拱手した。
「張太守。みな、心は揃っております」
張超はうなずき、言を添える。
「苦労をかけたな。感謝している」
吏は顔を上げず、唇を嚙み締めた。礼の声が雪に溶ける。
城門の横木を確かめる。布は巻かれ、音は殺して上下する。張超は手を添え、腕の角度を直した。門番が目で礼をしたが、彼らの眼には問いがあった。
渡り廊の下で、矢束を運ぶ者たちが足を止めた。張超は前へ進み、束の上に掌を置く。羽は凍って硬い。
「無駄にしてはならんぞ」
指図に、みながうなずいた。惜しみ尽くした先に残るものを、今夜も確かめるのだ。
城壁の内では、年端のいかぬ幼子が湯を運んでいた。張超は器を受け、唇を湿らせて返す。
「重いか」
子は両手で抱え直し、胸を張る。
「いいえ、このくらい平気です。持てます」
張超は笑みを見せ、目で褒めた。
廊の尽きるところで立ち止まり、張超は暗さに目を慣らした。城は保っているが、朝の先を保証するものはない。胸に臧洪の名が灯る。子源、来られぬのだな。それでも、信を疑わぬことは出来る。疑わぬことが、いま張超を立たせている。
最後に、張超は見張り台の若者の傍らに立った。若者は歯を噛み、東の闇を見つめている。張超は声を落とした。
「寒いな」
「あっ、張太守! 俺は大丈夫です!」
「そうか」
そこで言葉は尽きる。黙して並び、雪の音を聞いた。長くは要らぬ。共に立つということが、胸に暖かい。
歩き終えて、張超は奥の室の前に戻った。扉板は古く、蝶番は油を食い切っている。彼は掌で木目を撫で、わずかに息を吸った。灯は内にひとつ。心のつかえは外に置き、扉を押す。夜は深まってゆく。深まるほどに、すべきことが少なくなる。その少なさの中に、最後の責務が集まってくるのを、彼はおごそかに受けた。
灯の芯の先が赤く細る。張超は戸を閉め、几の端に剣を置いた。木目の筋が呼吸のたびにわずかに濃淡を改める。心で名を呼んだ。みな、生き延びよ、と。己はここで務めを終える。
兄の顔が浮かぶ。若いころ、肩を並べて簿を繰った日々が甦る。あの背はまっすぐで、人を恐れぬ背であった。自らは終ぞその背になり切れぬまま、今日を迎えた。涙がひと粒、床にこぼれる。
「結局私は、最期まで兄上のようには出来なかったな」
臧洪の名が、胸に温く灯った。来られぬと悟っても信は消えぬ。それでもこの先に苦しみが及ぶことを思うと、心はきしむ。
「私のせいで苦しまねばよいのだが。子源はまっすぐな男だからなあ」
剣を取る。柄の革は不思議と手に馴染んだ。刃をわずかに起こし、光を受けさせる。怖れはある。手の震えは止まらず、涙がとめどなく流れ、袖口に塩の跡が残る。それでも張超は肩を引き、背を正した。
兄上、すまぬ。生まれながらに与えられた名を守り切れぬ。しかし、ここで退けば、さらに多くが折れる。曹操とて、私の首を取ればみなの命までは奪うまい。生き延びよ、みな。どうか、名は汚すな。
柄元を確かめ、両手で持ち、首筋に当てる。鉄の冷たさが皮に触れ、背の骨へと伝わった。歯が鳴り、膝がわずかに折れる。怖れは消えぬが、決めは揺がぬ。
とすんと、どこかで雪の落ちる音がした。張超は目を閉じ、息を落ち着かせる。そして、次の拍が胸に集まった。
夢を見た。城の上の風は軽く、道は広く続く。臧洪と並んで旗を越え、人の群れの先に立つ夢であった。誰かの影に寄るのではなく、自らが灯となって道の縁を照らす夢であった。笑う声が遠くで応え、鍬の音が朝を連れてきた。夢はそこで薄れ、雪は深々と降り積もる。
鼓が鳴り、陣は雪を踏んで前へ出た。梯が懸けられ、盾が並び、投石が続き、衝車が門前へ寄る。横木は布に巻かれて音を殺しながらも、軋みののち折れ、扉が壊れ、白い粉塵の中へ列が流れ込んだ。
夕刻、風は止み、叫びは遠のき、雍丘は陥ちた。




