13 援軍
盃の香は淡く、灯は室の色を温くした。臧洪の愛妾・采蓮は指で器の縁を拭い、妖艶に微笑んで肴をすすめる。臧洪は盃を受け、喉を湿らせた。その時、外の空気が動き、戸の桟が鳴る。小吏が額の汗を袖で拭いながら膝をつき、書簡を捧げた。臧洪は受け取ると封泥を割り、目で文を追う。
『雍丘の城は、いまや曹操の急襲を受け、幾重にも及ぶ大軍に包囲されております。城内の糧食は底を突きかけており、兵たちの飢えは目に見えて進むばかり。この危急のなかにあっても、太守は一歩も引かず、自ら城壁の矢面に立ち、将兵を鼓舞し続けておられます。一刻の猶予もございません。一刻も早い救援を望みます。』
筆は荒く、行の間に急が潜む。臧洪は盃を投げ捨てて立ち上がった。素足が石を打つ。石の床は荒く、足裏が目を覚ますように固い。
「鼓を二度! 旗を庭に! すぐに兵を集めろ!」
采蓮は言葉を選びかけ、頭を垂れる。臧洪はうなずき、袖を払った。番の吏が走り、槍の柄が連なって音を立てる。
「元直!」
呼べば程恭が何事かと駆け寄る。休んでいたところを呼ばれたのか、帯は乱れ、目が理由を問うていた。臧洪は告げる。
「雍丘が囲まれた。張太守が危い」
さっと程恭の顔色が変わった。
「子源、しかしいまは本初殿の」
「理は後だ! 命は待たん!」
臧洪は庭の列を一瞥し、口早に指図する。
「郡の兵は五十ずつに分け、器を改め、夜番をひとつ繰り上げる。帳場の鍵は元直が持て。里ごとの印は朝に返す。人心を乱すな」
「分かった。しかし、お前は何を」
「本初殿の陣に向かう。兵馬を借りる。借りられねば、私兵で行く」
「無茶だ。関も渡しも固い。それに、本初殿は」
臧洪は庭の端に立つ影へ声を飛ばした。
「仲固!」
李猛が進み出る。
「馬を引け! すぐに発つぞ!」
「承知した」
鼓が二度響き、旗が闇に立った。兵の列が庭に並ぶ。臧洪は再び程恭に向き直る。
「元直、後は頼む。俺が戻るまで、東郡を乱すな」
程恭は歯を噛み、拱手した。
「子源、せめて履を」
「主君の窮地に気づかなかった愚か者の目を、道の石が覚ましてくれよう」
臧洪は素足のまま地を踏み、門の横木を押し上げる。采蓮が遠くで見ていたが、声は出さぬ。風が袖を払い、李猛が馬の手綱を引く。庭に残った鼓の余韻が消えぬうちに、二つの影は門の外へ滑り出た。列を揃える声が背に続き、東の闇がわずかに明るくなる。
× × ×
休むことなく路を継ぎ、六日のうちに臧洪は冀州の城に着いた。旗は柱間に巻かれ、鼓の台は奥の堂に据えられている。門の兵が名乗りを聞き、廊を先導して帷の内へ通すと、ほどなくして袁紹が姿を見せた。
「子源。急ぎの顔だな」
「雍丘が曹操軍に囲まれました。張太守が城頭に立っておられる。兵を一軍、お貸し下さい。本初殿の威を損じることは致しません」
袁紹は一歩退き、左右を見た。諸将もまだ朝支度のまま集まって来る。
「貴公の情は分かる。しかし、いま冀州は河北を固め、幽州を北へ押さえるところ。ここで兗州へ兵を回せば、劉表も、袁術も、みな目を変える。孟徳との和も立ちゆかぬ」
「曹操は一たび囲めば解きませぬ。雍丘は三日ともたぬやもしれぬ」
「貴公が動くことは許さぬ。いまは、兗にも鄴にも、子源の名は高い。ここで和を破ったとあっては、私が貴公を推した義まで疑われる」
臧洪の背がわずかに膨らんだ。
「本初殿。張太守は私の主にて、恩を負う身。見捨てることは出来ませぬ」
「まあ待て。時を待つのだ。孟徳も無理は続かぬ。堅守すれば、自然と綻びも出よう」
「籠められている者に、待てとは申せませぬ!」
声が荒くなりかけたところで、臧洪は振り向きざまに叫ぶ。
「仲固、馬を引け! 私兵だけで行くぞ!」
李猛がうなずいて下がろうとしたとき、袁紹が手を上げた。
「顔良!」
脇の帷から甲冑の音がして、顔良が進み出る。背は高く、腕は太い。
「子源を止めよ! 無礼は許す!」
「応!」
臧洪は顔良を睨んだ。
「どいてくれ。これは俺の義だ」
「知っている。しかし子源殿の旗の下で乱れを見せれば、義はみなにとって虚となる」
顔良の腕が伸び、臧洪の肩と肘を絡め取る。李猛が手をかけたが、二人の兵が左右から押えた。縄が投げられ、臧洪の肘が後ろで固められる。袁紹はただ見ていた。
「子源。貴公の心は分かるが、いまはここで怒れ。怒りは外へやるな」
顔良はうなずき、縄の結びを確かめる。
炭火の熱が漂い、灯が床に線を引いた。臧洪は歯を鳴らし、まだ暗い東を見る。その胸には雍丘の火と張超の顔がありありと浮かんだが、言えばさらに縄が固くなるのみであると知れた。
縄の結びは背の骨の上で固く、息を入れるたびに皮が引かれる。臧洪は柱の根に坐らされた。廊を渡る足の音は遠い。顔良は言葉少なに去り、交代の衛士が二人、戸口に立つ。李猛の気配は外にあるらしいが、声は届かぬ。
縄は痛むが、痛みは怒りの形を確かにする。怒りは外へやるな、と袁紹は言った。ここで荒れれば、義は衆にとって虚となると顔良も言った。理は腑に落ちる。落ちるが、胸は浮かばぬ。雍丘が囲まれ、張超が城上に立っている。油は乏しく、矢羽は露を吸い、井の綱はささくれている。十二の夜を三つに刻む鼓のあいだ、どれほどの眼が闇を見つめておるか。
張超は待っている。臧洪はそれを疑わぬ。自分が来るはずだと、城の石に背を当て、合図の火を保ち、矢を惜しみ、昼の声を抑えて待っている。あの人は、待つという行いを忍びとせぬ。城の姿を持たせ、心を散らさせぬための務めとして待つ。だからこそ、応えねばならぬ。
縄はほどけぬ。義はここで尽きるのか。尽きれば、雍丘の名を助ける道は細る。臧洪は腕をわずかに回し、結びの位置を直した。血が通い直すと、指先が痺れを出す。
耳を澄ますと、遠い御廊の方で更の交代を告げる声が聞こえた。臧洪は目を閉じ、呼吸を落ち着かせる。荒ぶる拍を下へ押し、鼓の拍子に合わす。怒りは外へやらぬ。ここで燃し、灰にして、朝には手綱を取る。
張太守、待て。自分はここで義を折らぬ。折らねば道は必ず通る。名も、人も、旗も、みなを連れて行ける道が。




