12 失衡
城の上で合図の火が立った。札を運ぶ小吏の肩は頼りなく、墨は針のように痩せている。張超は几の端に筆を横たえ、報の束をひとつずつ翻した。名の行が塗り替わり、昨日までの印が古びてゆく。曹操の軍が動き、寿張と定陶、離孤の門が次々に開いたとある。抗いは強かったが、陥ちればすぐ規律が戻り、城は平穏を取り戻したという。遠い出来事のように書いてはあるが、報は雍丘に影を落とした。
城の外に、人の流れが増えていた。荷を担ぐ者が門を過ぎ、道に吸い込まれていく。動揺は浅いものの、民の目はこぞって別の地を探した。州の空白は目に見えぬまま広がり、名は風に運ばれて往き来する。兄の張邈は陳留にあり、書札は間を置いて届く。用件は明らかであったが、行間から浮かぶものが多い。堂の隅では兵が弦の張りを確かめ、倉の戸口では閂の鉄の固さを見た。
そのころ、野の戦はひとつの山場を越えていた。呂布は鉅野で勢を折り、陳宮を伴って南へ退いた。徐州では劉備が門を開き、呂布を受け入れたのだという。しかし、地図の上で道は分かれ、雍丘に集まる線が濃くなる。張超は筆の腹で地図を押さえ、こみ上げてくる吐き気に耐えながら呼吸を落ち着かせた。
町は表向きは動いている。市の札が並び、油と穀の値は日によって変わった。張超が門の上に立ち野を見渡すと、畦は遠くまで伸び、切株が枯れている。道の石は古く、そこを渡る足は新しかった。
報は続く。曹操が雍丘に軍を寄せつつあるという。車は軛を鳴らし、槍は束にされ、列は堤を越えて進む。先に立つのは律を好む将と伝わった。張超は簿を閉じ、内外の伝の刻を改める。戸ごとの兵は壁の隅へ器を寄せ、矢束は縄で固められた。城の上には昼も夜も見張りを置き、合図の火は絶やさぬこととした。
夕づく空に、土煙が増えた。遠くの河近くを渡る列が見え、堤の上に点が連なる。号令の声は届かぬが、黄昏を背にした旗の角度で、輪が結ばれつつあると知れた。張超は手摺に掌を置き、息を吸う。ここから先は、備えが命の数を決める。兄から託された名と一族の命、町の人の暮らし。彼は降り、堂へ戻った。包囲のはじまりは、音を立てずに城の骨へ染みていく。
見張りの交代は刻を違えぬが、やがて火舎の炭は尽き、油は最後の壺を数えるのみとなるとなった。倉の穀は簣の底にわずか、薪は節を割って乾かし直し、鍋の湯は二度三度と使い回された。城門の横木には布が巻かれ、音を殺して上下する。昼は矢が散り、盾の縁が欠け、夜は風が幕を打つ。包囲は呼吸のように定まり、雲の流れほどの変化を見せるだけであった。
張超は坐し、油灯を消した。刹那、堂の色がくすむ。城下の井は浅く濁り、もはや泥を布で漉して口を濡らすほかはない。子らの頬は痩せ、年寄りは語を惜しむ。女は戸の陰で荷を包み直し、男は塀の内側で石を積んだ。みなの胸の拍がひとつずつ薄れていく。張超は耳でその変化を数え、簿の行に目を落とした。
帳場では小吏が弓矢の数を写し、折れた柄を束にして運んだ。木工は戸板の割れ目に板を当て、革職は鎧の継ぎ目を糸で締め直す。薬は乏しく、塩を湯に溶かして傷口を洗う。祈祷を請う余裕もなく、祈る声は各々の胸にある。鼓も鳴らさず、刻だけが巡った。
夜気は骨に沁み入り、指がこわばる。井の縁に石を増し、滑りを防いで綱を引く。
報は来ない。城上から罵りは飛ぶが、外の陣は返さぬ。陣地の火は力なく、旗は夜ごとに位置を直すのみである。城壁の欠け目を土で埋め、縄を渡して足を掛ける。井戸の綱はささくれ、桶の底は薄くなる。兵は昼に眠り、夜に立つ。眠りの浅い者は壁に背を当て、目を閉じる。張超は巡って肩に手を置き、何も言わずに去る。
兄の名を胸に置き、一族の顔を思い出す。城に集めた人々の戸数を指の先でなぞる。守るべきものは多く、頼むべきものは少ない。それでも、守ることは自らの選びであった。
「天は私を嫌っておいでなのだろう。私のようなものが天下を安んじようと考えることすら、大それたことだったのかもしれぬ」
吐いたあとの静寂の中で、張超は己の声の軽重を測った。もしこれが奢りであれば、罰はすでに巡っていよう。生きている限りは務めがある。張超は立ち、壁の上に出た。
遠い堤の上で列がゆるく動く。陣幕の隙間に人が交わり、風が松明の火を伏せる。罵りを投げる者を叱らず、声を荒くする者を止めず、手を上げて合図を改めさせる。矢は惜しむ。油は惜しみ、薪は惜しむ。惜しみ尽くしてなお残るものを見て、張超は胸に杭を一本立てたように気持ちを定めた。崩れぬ姿を持って、夜が明ける。
やがて、暁天が人の顔を照らした。帳場の脇に吏と兵が集まり、報の束を前に息を揃える。人々は口を開かずとも思いは一つだった。袁紹と曹操はいま友好にあり、臧洪は袁紹に取り立てられた身である。ここへ援けに来れば、その和を損ない、災いは臧家にも及ぶ。遠路の関は閉じ、渡しは見張られ、雍丘へ至る道はすでに狭い。そういう算であった。
「張太守。現の理は一つにございます。子源殿とて、いま兵を動かせば、本初殿の機嫌を損じましょう」
「道は遠く、関も厳しゅうございます。間に合うはずがない、とみなが申しております」
「救いを待てば城が痩せます。曹操は囲みを固めるばかり」
みな互いに目を見ず、言葉が地に並ぶ。張超は黙って一同を見渡し、ゆるく首を振った。
「子源は救いに来てくれる」
静謐な一語に、場の息が止まる。臧洪は袁紹に推挙された。義といえど、主の和に背けば立つ地を失う。いま来れば、反目の火種に過ぎぬ。誰の胸にも同じ算段があった。
張超は言葉を続ける。
「子源は天下の義士であり、決して私を見捨てることはせぬ。足どめをされて間に合わなくなる懸念があるだけだ」
その言葉が争いを呼ぶことはなかった。張超は言を足さぬ。人々の理はわかるが、理は心を養わぬ。臧洪の歩みを数えるしかない。
張超は門の横木を確かめ、見張りの交代を早めよと命じ、矢の数を夜のあいだに写させた。不安は胸へ押し、城の姿を保つ。風が屋根を渡り、今日も包囲の火がともる。




