11 焦燥
興平元年夏、兗州。曹操は徐州の陶謙を討つべく、旗を東に押し立てて本拠を発した。鼓が鳴り、糧と器が車に積まれて堤の道へと消える。城の櫓は昼も火を見ること少なく、櫓の綱は風に揺れた。市は開かれてはいるが、買う手は鈍く、売る声は細い。人々は東の空を見やり、州に空白が生まれたことを知る。守りは各所に割られ、名のみが書札に往き来し、日の巡りが重なった。
張超は陳留の城の小堂で灯をしぼり、几の上に掌を重ねていた。外は風が瓦を鳴らし、庭の砂が舞う。門がひらく音が一つ、続いて衣の裾が席を払う。入ってきたのは兄・張邈である。張邈は帯をゆるめず、席に就く前に弟の顔をひととき見つめた。
「超」
兄の一声に、張超は背を正した。兄の目に映る自分は、いつの頃からか名ばかりの弟であった。陣の先に立つのはいつも兄で、客の席で讃えられるのも兄である。臧洪が東郡で功を立て青州の難を支えたとき、張超はその名の後ろに己が映ることを願った。恥じぬ主でありたいと、拙い願いを胸に押し込んでいたが、空白は長く続かぬ。曹操が兵を率いて州を離れ、城の鼓が薄くなった今、心の内で別の音が鳴りはじめている。
張邈は襟を直しながら言った。
「陳公台殿がいらしてな。孟徳が徐州へ向かったのを見計らい、諸県の耳目がこちらに傾いている今、呂奉先殿を迎え、兗州牧に推すべしと言うのだ」
張超はわずかに身を乗り出す。兄の言葉で、胸に波が立った。
「兄上、迷われておられるのですね」
「そうだ。私一人の理では決せぬ。孟徳とは旧交があるゆえな。友を背にすることが、果たして道と言えるのであろうかと」
戸口の陰から陳宮が姿を見せ、几の前に進んで拱手する。
「時は今ですぞ。曹操は徐方にあって軍を費やしております。州の心は空に浮き、旗の庇護を求めておるのです。奉先殿の武を持って州を鎮め、孟卓殿の名を持って民を安んじる。人はまず形に集い、その後に理が行き渡るのです」
張邈は眉を寄せて沈黙した。友を思う情が揺れる。
「孟徳は私を疑うまい。友を欺くのは、私の信義にもとる」
張超は兄の横顔を見た。
「兄上。曹操の威が戻れば、また厳が先に立つでしょう。今は、徳が先に出るべき時です」
陳宮が続ける。
「私は東郡の守を預かり、諸県の声を聞きました。呼べば応ずる名は多い。大勢を決すれば、芯は理に従います。いま旗を挙げれば、半ばは初日のうちに傾くでしょう」
張邈は手を膝に置き、長く息を吐いた。
「私はあれと交わり、幾度も酒を分けたものだ。が、民は今にも寄る先を失わんとしておる。友のために民を迷わせるのが、果たして道であろうか」
張超は首を振る。
「兄上、迷うのはここまでにしましょう。曹操の友として終わる道もあります。けれど、州の人が飢えと乱れに立ち尽くすのであれば、友の情を民の上に置くことはできません」
陳宮は袖から書簡を出し、几に置いた。
「諸県の見取りです。応じる者に躊躇うであろう者と耳の早いところ。まずは濮陽、陳留の外郭、山陽、定陶。伝は白馬・済陰へすぐ走らせましょう。書簡の文面は、簡にしてよいでしょう。長く綴ると迷いが生まれるものです」
張邈は書簡を開き、黒い点に目を移す。点の下にはそれぞれの家と暮らしがある。瞼の裏に、友の顔が浮かんだ。
「公台殿、奉先殿は刃の人だ。手綱を離せば、人はすぐに傷を負うだろう。君は手綱を取れるか」
「取りますとも。言は曲げません。奉先殿にも民の上に刃を置かぬことと旗は鎮めるためにあることを重々伝えておきます」
張超が言葉を継ぐ。
「徳を見せて下さい、兄上。散ずることは義の軽さではありません。人は徳に寄ります。私が支えます!」
張邈は顔を上げて弟を見た。その眼に長く続いた影と、今ともる火が映る。
「⋯⋯超よ、私は腹を決めたぞ! 民が私を求めるというのなら、その声に応えよう。奉先殿を迎え、州の政を改める」
「はい!」
「私が筆を執り書簡を用意する。超は城の内を掌り、明日未明に旗を上げよ。公台殿は奉先殿に言伝を届けてくれ」
陳宮は立ち上がり、拱手した。
「ご英断にございますな。書簡のことは、お任せください」
果たして書吏は筆を執った。伝者は鞍を改め、東西の道に備える。張邈は几に向かい、書簡をしたため、使いに渡した。張超は穀と兵器の出納を改め、門番に刻の交代を命じる。
夜明けとともに札は東西へ走り、返報はそう日を待たずに戻った。濮陽が先に呼応し、山陽、定陶が続く。陳留の外郭では里正が名簿と印を携え、府門に拱手して列を成した。札は照合され、封泥は新しく練られ、倉の鍵が差し替えられる。白馬の道には灯がともり、済陰の倉から穀が送られた。伝者は宿を替えながら諸県を巡り、人の流れは徐々に揃ってゆく。
張邈は堂に吏を集め、呂布を兗州牧とする旨を布した。旗は高く掲げられ、札には張邈の名が据えられる。旧吏は秤と簿を携え、府門に列して拱手した。郡県の多くが呼応し、兗州の地図は日夜異なる色に塗り替えられていく。
ただし、鄄城・范・東阿の三城は扉を閉ざしたままであった。伝者はその前で足を止め、城楼の鼓の音を聞くのみであった。張邈は和を勧める札を改めて送ったが、返る報はなかった。それでも大勢は動き続ける。書札の往還は止まず、旗は日に日に地を覆っていく。
張超は出納を繰り、穀の流れを押さえた。列の前には吏が坐し、報の写しを交わして筆を取る。張超はその背をゆるやかに巡り、秤の誤りを指で示した。伝の札には刻を入れさせ、出立の刻を札に記し、封泥に印を落とさせる。備えは早すぎず、重ねすぎず。それを守らねば、勝ちはたちまち牙を見せる。吏が筆を止めれば新しい筆を渡し、遅れた刻には馬を替えて繋ぎ直す。兵の列は揃い、札のやりとりは日ごとに滑らかになる。勝ち戦の中にありながら、彼の手つきは坦々と、呼吸は変わらぬ拍を保っていた。昂りは乱れに通じる。それを忘れぬようにしていた。
夜が深まるたびに、臧洪の名が胸をかすめた。袁紹の信を得て、青州と東郡で見事乱れを鎮めた友の働きである。いま、自分は旗と札で人を動かしている。法に依らず、徳を称して兵を呼び、城を動かしている。臧洪の行いに照らして恥じぬものか。問いは日ごとに重くなり、返答は胸で揺れていた。
張邈は人を疑わぬ。簿に名がなくとも受け入れ、過ちを記しても咎めぬ。だからこそ、名もなき者が門に列をなし、老いた吏が再び筆を執るのだ。張超はその背を見つめながら、己に与えられた役目を思う。兄の徳が人を繋ぎ、呂布の武が旗の形を与え、陳宮の策が道を割った。その中に己も加わり、筆を走らせ兵を束ねている。それは誇りか、あるいは単なる模倣か。されど、すでに筆は執られ、札は走った。いまのこの一歩は、誰のためでもなく、自らが選び取ったものである。
張超は几の端に手をつき、目を閉じた。灯の明かりを感じながら、心にひとつの言葉を結ぶ。
子源に恥じぬ主であらねば。




