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第8話 正札

 夜明け前の森は、まだ青い。下生えが朝露で重く、リーシャの擦り切れた裾は、すぐに濡れた。けれど今朝の足取りは、二年間のどの朝とも違っていた。


 首から、組合員の証が下がっている。銅の小さな札。それがあるだけで、この森で薬草を採ることが、もう「盗み」でも「密売の種」でもなくなった。胸を張って採れる。そのことが、まだ、信じられない。


 ——『ずいぶん偉そうな足音じゃない』


 革袋の中で、聖薬草が言った。相変わらず、口が悪い。


 ——『組合員様のお出ましだ。二年もベンチを温めてた子が』


「……うるさい」


 リーシャは小さく笑った。憎まれ口を、こうやって笑って返せるようになったのも、ここ数日のことだ。


 ——『で、今日は誰に売り飛ばすの。あたしたちを』


「売り飛ばす、じゃない」


 リーシャは足を止めた。


「今日からは……誰かの、薬になる。熱で苦しんでる子の。桐生さんが、そう言った。あなたたちは、ちゃんと、人の役に立つって」


 聖薬草は、めずらしく黙った。それから、ぼそりと言った。


 ——『……ふん。やっと、まともな買い手が見つかったわけね』


 照れているのだ、とリーシャには分かった。二年間、夜ごと「あたしたちはもっと価値がある」と尖っていたこの草が、今は、少しだけ機嫌がいい。


 斜面を登る。植物たちの声が、あちこちから届く。こっちに来い、私を採れ、と。だが、リーシャは急がなかった。


 ——この株は、まだ早い。あと二日で、いちばん効く。

 ——これは、雨で根を傷めてる。煎じても、薄い。


 声を聞き分け、目で確かめ、手を伸ばすのは、ほんの数本だけ。外れは、採らない。一本でも混ぜれば、ミレナの診療所の名に傷がつくと、桐生が言った。だから、これは、もう、ただの草集めじゃない。


 東向きの斜面、苔のそば。そこに、新月を待つ聖薬草が、青白く息づいていた。葉の裏の露の跡は、まだ三つ。あと二日、新月の前の夜まで待てば、いちばんいい一本になる。


「……明後日、また来るね」


 リーシャは、その株には手を触れず、近くの石に小さな印だけを置いた。二年前の自分なら、目の前の一本を、迷わず引き抜いていただろう。今日のパンのために。


 今は、待てる。明日のほうがいい品になると、知っているから。待てるだけの明日が、できたから。


 籠が、外れのない薬草で、静かに満ちていく。



 ◇



 リーシャが採ってきた薬草を、俺は売りに出ることにした。組合員になっても、薬草がひとりでに売れるわけではない。


 正規の卸先は薬師ギルドだ。だが、そこは長年、組合と馴れ合ってきた場所でもある。俺とリーシャが買い取りの窓口に立つと、座っていた男は、組合員の証を見せられても、露骨に面倒そうな顔をした。


 ちょうど、俺たちの前に、年老いた採集人が一人いた。籠いっぱいの薬草を差し出して、受け取ったのは、銀貨が数枚。老人は何も言わず、背を丸めて出ていった。文句を言う気力すら、とうに削られているという顔だった。


 ——あれが、一律買取だ。どれだけ良い物を、どれだけ採っても、値は同じ。腕も、目利きも、なかったことにされる。


「ハズレの娘が組合員、ねえ」


 窓口の男は、リーシャの証を、指先で弾くように返した。


「……まあいい。買い取りは一律だ。等級も何も見ない。薬草一本、銀貨1枚。それが組合の決まりだ」


 密売の銅貨30枚よりはかなりましだった。だが、真価にはまるで届かない。この仕組みそのものが、リーシャを二年間、安く買い叩いてきた元凶だ。


 ここで引いては、何も変わらない。俺は一歩前に出た。


「窓口を変えていただけますか。等級を見られる方に」


「は? 等級なんて、誰が見るんだ。薬草は薬草だろうが」


「では、薬師の方をお呼びください」


 俺はリーシャの籠から聖薬草を一本取り出し、台に置いた。


「この一本が、ただの薬草か、それとも誰かの命を救う一本か。見分けられる方に、値をつけていただきたい。質が悪いものであれば買い取らなくても結構です」


 男は鼻で笑おうとした。が、その時、奥から声がした。


「——見せて」


 白衣の女が出てきた。薬師ギルドで調薬を束ねる者らしい。目の下に、徹夜を重ねた者の濃い隈があった。彼女は聖薬草を一目見て、顔色を変えた。


 断面を割り、匂いを嗅ぎ、葉の裏を灯りにかざす。その手つきは、ザイラスのときのリーシャを思い出させた。本物を、本物として扱う手だ。


「……東向きの斜面。苔のそば。新月の前夜採り」


 女は低く呟いた。それから、信じられないという目で、リーシャを見た。


「奥に、高い熱が三日続いている子がいる。この聖薬草を煎じれば、今夜には熱が引く。——こんな上物が、いつから入るようになったの」


「入っていません」


 俺は答えた。


「ずっと、組合が一律で買って、品質を見ずに右から左へ流していた。傷んだ物と、この一本が、同じ銀貨1枚で。あなたの手元に、本物が届かなかっただけです」


 女の顔が、強張った。窓口の男が、青ざめて目をそらす。


「これは銀貨15で買う」


 女はそう言って、リーシャを見た。


「あなた、これと同じものを、続けて納められる? 傷んだのや、採り時を外したのを、混ぜずに」


「納められます」


 リーシャは籠を抱え直し、はっきりと頷いた。


「どれがいちばん効くか、植物が教えてくれます。効かないものは、最初から採りません」


 その日、リーシャの聖薬草は銀貨15枚で売れた。密売の、五十倍だった。



 ◇



 帰り道、リーシャは銀貨を握りしめたまま、ずっと黙っていた。手のひらの中で滑らないように、何度も握り直している。


「これで……ザイラスさんに、返せますか」


 ようやく、それだけ言った。聞きたいのは、たぶん、金のことじゃない。


「少しずつな」


 俺は頷いた。


「だが今日のは大きい。これを続ければ、三年どころか、もっと早く返せる。きみが、俺を死なせずにすむ」


 リーシャは、足を止めた。


「……奥の、熱の子。助かりますよね」


 ああ、そっちか、と思った。銀貨より、顔も知らない子供の熱を気にしている。二年間、自分の薬草を「捨てられる物」だと思って生きてきた娘が、今日、それが誰かの命になると知った。その手応えのほうが、彼女には、銀貨15枚よりずっと重いのだ。


「助かるさ。きみの草なら」


 リーシャは、また歩き出した。その横顔は、ベンチに座っていた頃とは、もう別人だった。



 ◇



 ギルドに戻ると、ガロウが待っていた。事の次第を聞いて、髭面をぐしゃりと歪めた。


「銀貨15……あのリーシャの薬草が、銀貨15だと」


 信じられない、という顔だった。


「あんた、この街に来てまだ十日かそこらだろう。金もコネもなかった。なのに、組合のハズレを組合員にして、薬師ギルドの値まで、ひっくり返しちまった」


「ひっくり返してはいません。正しい値に戻しただけです」


「……正しい値、ね」


 ガロウは、しばらく俺を見た。それから、声を低くした。


「あんた、本当に何者だ。その歳で、その喋り方で、まるで何十年も商いをしてきたみたいな手際だ」


 俺は少し考えて、いつもの答えを返した。


「前にいた国で、いちばん成績の悪かった営業マンですよ」


「……はぐらかすなよ」


 ガロウは苦笑して、それ以上は聞かなかった。聞いても無駄だと、もう分かっているらしい。


 ——誰も評価しなかった娘の薬草に、正しい値がついた。だが、これはまだ始まりだ。一律買取の壁は、リーシャ一人のために、ほんの少し開いただけ。あの壁の向こうには、さっき背を丸めて出ていった老人のように、安く買い叩かれている者が、まだ大勢いる。


 その壁を、もっと大きくこじ開ける。次の算段を、始めなければならなかった。


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