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第6話 二枚の署名

 金貨65枚は、思っていたより重かった。


 リーシャがそれを抱えて宿に戻った夜、俺はギルドの隅で、ひとり、頭の中の算盤を弾いていた。入会金に50枚。残りは推薦状の代金と、当面の暮らし。だが、肝心の推薦状は、まだ一枚もない。組合員が二人、リーシャの名で署名しなければ、金貨をいくら積んでも扉は開かない。


 金は揃った。問題は、誰が組合を裏切ってまで署名するか、だった。


 組合員にとって、ハズレの孤児に推薦状を出すのは、得にならないどころか危ない橋だ。バルクの機嫌を損ねれば、明日から山に入れてもらえなくなるかもしれない。よほどの理由がいる。理由か——あるいは、よほどの不満が。


 その答えは、向こうから歩いてきた。


「……あんた」


 ギルドの裏手、灯りの届かない壁際で、声をかけられた。振り返ると、あの若い若頭が立っていた。バルクの後ろで、金貨5枚に喉を鳴らした男だ。ザイラスの店を、物陰からうかがっていた男でもある。


「桐生さん、だったか。おれは、ヨナス」


 名乗ったということは、もう半分は決めている。だが、まだ迷ってもいる。だから、こんな暗がりで声をかけてきた。人目を避けたいのだ。


「さっきの話。組合員一人につき、金貨5枚。……本当か」


「本当です」


 俺はまっすぐ彼を見た。


「ただし、お渡しできるのは、リーシャさんが正式に組合員になってからです。今は、見せ金もできない。それでも、信じていただけますか」


 ヨナスは舌打ちした。けれど、立ち去らなかった。立ち去れない理由が、この男の中にある。


「あんた、知ってるか」


 低い、吐き出すような声だった。


「おれたち下っ端が、どれだけ山を歩いて、どれだけ採っても、いいところは上が持っていく。バルクたちは、もう何年も山になんか入っちゃいない。指図して、判子を押すだけだ。なのに取り分は向こうが倍だ。掟だから、ってな」


「ええ。そういう仕組みは、どこの世界にもあります」


「どこの世界にも、だと?」


「私のいた国にも、ありました。働いた者より、座っている者が多く取る。掟やら慣わしやら、立派な名前をつけてね。——よくある話です」


 ヨナスは、少しのあいだ黙った。俺の言葉のどこかが、刺さったらしい。それから、ぼそりと言った。


「……一枚だけじゃ、足りないんだろう。推薦状は、二枚いる」


「ええ」


「おれが署名したのが知れたら、おれは終わりだ。だから、もう一人、おれと同じ思いのやつを連れてくる。爺さんだ。昔は腕利きだったが、足を悪くして、山に入れなくなった。組合は、稼げなくなった年寄りには冷たい。あの人なら……たぶん、書く」


 ——一人が動けば、隣の不満も動く。組合の壁の内側で、ひびはもう走り始めている。俺がやったのは、そこに指を当てただけだ。


「助かります」


 俺は頭を下げた。


「おふたりには、金貨5枚ずつ。それから、もうひとつ約束します」


「なんだ」


「リーシャさんの商いが回り始めたら、あなた方の薬草も、正規の値で買い取れる道を作ります。上前をはねられない道を。——時間は、かかりますが」


 ヨナスの目が、揺れた。金貨5枚に揺れたのとは、違う揺れ方だった。金で動く男の目の奥に、ほんの一瞬、別の光が差した。


「……口だけなら、誰でも言える」


「ええ。だから、まずは見ていてください」


 俺は笑った。


「私が、口だけの男かどうか」


 ヨナスは答えなかった。ただ、闇の中で、ひとつ頷いた。それで十分だった。



 ◇



 老採集人の名は、ガレオといった。


 森のはずれの、傾いた小屋に住んでいた。片足を引きずり、目だけがまだ鋭い。炉の火さえ惜しむような暮らしぶりで、壁には、もう使われていない採集籠が、埃をかぶって掛かっていた。腕利きだった頃の道具なのだろう。


 ヨナスに連れられて訪ねた俺を、ガレオは、最初は追い返そうとした。


「組合に逆らえって言うのか。死にたいのか、若いの」


「いいえ。掟の中で、できることをするだけです」


 俺は、リーシャの聖薬草を一本差し出した。


「これを、見ていただけますか」


 ガレオは、それを手に取り、断面を嗅いで——動きを止めた。皺だらけの指が、葉の裏を、確かめるようになぞる。


「……東向きの、苔のそばだ。それも、新月の。こんな上物、何年ぶりに見たか」


 しわがれた声が、わずかに震えた。


「これを、採ったのは」


「ベンチに、二年座っていた娘です。誰にも、ハズレと呼ばれて」


 ガレオは、長いこと聖薬草を見ていた。それは、もう、薬草を見る目ではなかった。腕利きだった頃の自分を、その一本に重ねているのかもしれなかった。まだ山を歩けた頃の、自分を。


「……金は、いらん」


 やがて、彼は言った。


「その代わり、ひとつだけ約束しろ。その娘の薬草を、二度と銅貨30枚なんぞで投げ売りさせるな。あれは、そういう草じゃない。——いい草の値を、誰も見ようとしない街だ。だからおれは、山を下りた」


「約束します」


 俺は、その手を握った。節くれだった、固い手だった。署名は、その夜のうちに二枚そろった。


 金で動く者がいる。誇りで動く者がいる。同じ「裏切り」でも、人を突き動かすものは、まるで違う。


 ——人を見て、それぞれの鍵を選ぶ。それだけが、十年間最下位だった俺にできる、たったひとつの仕事だった。前世では、それを「営業」と呼んでいた。誰も、まともに評価してはくれなかったが。


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