第5話 誓約
ザイラスの乾いた笑いが、薄暗い店にひとしきり響いた。
「身一つのよそ者の保証に、値打ちはない。——ごもっともです」
俺は頷いた。
「だから、言葉で価値を主張するのはやめます。代わりに、条件を紙に書かせてください」
俺は、内ポケットから一本の棒を取り出した。前世から持ち越した、ただ一本のボールペン。机の隅の書き損じの紙をもらって、そこに数字を書きつけた。
借りる、金貨65枚。三年のうちに、金貨75枚にして返す。
書き終えて顔を上げると——ザイラスの目が、数字ではなく、俺の手元に釘付けになっていた。正確には、俺の指がつまんでいる、その細い棒に。
「……それは」
ザイラスの声が、変わっていた。
「墨壺に浸けてもいない。羽根でも、葦でもない。なのに、書ける。掠れもせずに、いつまでも」
俺は、ボールペンを机の上にそっと置いた。
ザイラスは、それを宝石のようにつまみ上げた。灯りにかざし、軸を回し、先端の小さな玉が転がるのを食い入るように見つめる。その手つきは、聖薬草をあらためたときより、ずっと慎重だった。
「こんな品は、見たことがない。どこの工房だ。どの国の。——いや」
そこで言葉を切り、落ちくぼんだ目が、ゆっくりと俺の顔に戻ってきた。値踏みではない。もっと底の知れないものを覗き込む目だった。
「お前は、何者だ。桐生隼人。聞いたこともない訛りで、見たこともない服を着て、こんな品を、当たり前のように内ポケットに入れている」
「しがない、最下位の営業マンでした」
俺は正直に答えた。
「ずいぶん遠い国で。誰よりも、口説くのが下手な男です」
「嘘が下手だな」
「本当です。ただ、ひとつだけ確かなことがある。あなたが今、手にしているものは、この国のどんな職人にも作れない。私は、それを当たり前に使う場所から来ました。そこで覚えた商いの理屈が、この国では、まだ誰も知らないものだ——というだけのことです」
ザイラスは、長いあいだボールペンを見つめていた。それから、ふっと息を吐いた。
「……気に入らんな。お前が書いた条件も、その喋り方も、その品も」
ボールペンを名残惜しそうに机へ戻す。
「だが、貸してやる。金貨65枚。三年で、75枚にして返せ」
リーシャが、俺の後ろで小さく息を吸った。
「ただし」
ザイラスは立ち上がり、奥の棚から一枚の紙を取り出した。
「私の金は、ただの証文では動かさん。これで縛る」
その紙は、ほかの帳簿とは違って見えた。薄く青みがかって、灯りの下で、文字のない表面がわずかに濡れたように光っている。
「……誓約紙」
リーシャが、掠れた声で呟いた。顔から、血の気が引いていた。
「桐生さん、それ、本物の……」
「知っているのか」
「孤児院にいたとき。借金の誓約を交わした人が、返せなくて」
リーシャの声が震えた。
「腕に、黒い徴が出て、広がって……ひと月で、亡くなりました」
ザイラスは、否定しなかった。
「これに名を書けば、約束は、お前たちの命に紐づく」
淡々と、商品の説明でもするように言った。
「逃げれば、徴が出る。日を追って蝕み、やがて死ぬ。だから私は、担保のない金でも、これでなら動かせる。逃げられん相手に、な」
——逃げたら? 死んだら? 問いの、答えがこれか。
逃げることは、できなくなる。だからザイラスのリスクは、ただひとつに絞られる。この娘が、本当に稼げるか。それだけだ。そして、それはもう、さっきのボールペンが答えている。
理屈は、わかった。問題は、もうひとつのほうだ。
「保証人は、どう縛られますか」
「借り手が払いきれなかったとき」
ザイラスは、俺をまっすぐ見た。
「最後に、命で払うのは、保証人だ。——桐生。お前さん、それでも、名を書くか? それともうひとつ、そのペンは常に身に着けておけよ」
店の中が、急に冷えた気がした。
リーシャが、俺の袖を強く掴んだ。
「だめ、です」
初めて聞く、強い声だった。
「桐生さん、それ……私のために、死ぬかもしれないって、ことですよね。だめ。そんなの、私……」
俺は、その手に自分の手を重ねた。
「リーシャ」
声が、自然と素になっていた。
「俺はね、前にいた国で、一度、死んだようなものなんだ。誰のことも守れないまま。——だから、決めたんだ。次にやり直せるなら、今度こそ、ちゃんと、誰かに賭けるって」
「でも……」
「きみは、化ける。俺は、それだけは見間違えない」
俺は、笑ってみせた。
「だから、これは賭けじゃない。俺の中では、もう、答えの出てる計算なんだ」
リーシャの目から、涙がこぼれた。けれど、もう、止めようとはしなかった。
俺は、ボールペンを取り、誓約紙に自分の名前を書いた。
ペン先が触れた瞬間、青い紙が、墨を吸うように、文字をすうっと内側へ飲み込んだ。指の先に、ひやりと、何かが巻きついた感触があった。それきり、消えた。
「次は、きみだ」
俺は、ペンをリーシャに渡した。
「怖かったら、書かなくていい。これは、きみが決めることだ」
リーシャは、震える手でペンを受け取った。涙を手の甲で拭い、紙に向かう。
リーシャ、と、彼女は書いた。最初の一画は掠れたが、最後まで、書ききった。
青い紙が、その名も静かに飲み込んだ。
ザイラスは誓約紙をあらため、奥から革袋を運んできて、金貨を数え始めた。硬い音が、薄暗い店に、一枚、また一枚と落ちていく。
金貨65枚。
この世界で初めて、誰かの「未来」に値段がつき——俺の命が、その担保になった音だった。
◇
店を出ると、外は、昼下がりの光だった。リーシャは、金貨の入った重い袋を、両手で胸に抱えていた。ときどき、確かめるように、自分の手首に触れていた。
「桐生さん」
「うん」
「絶対に、返します。三年より、ずっと早く」
リーシャの声には、さっきまでの怯えとは違う、固いものがあった。
「桐生さんを、死なせたりしない。私が、稼ぎます」
「頼もしいな」
本心だった。命を紐づけた途端、この子の背筋が伸びた。守られるだけだった娘が、初めて、守る側に回ろうとしている。
そう答えながら、俺はふと、通りの向かいに目をやった。建物の陰に、人影があった。組合の徽章。ギルドで金貨5枚に喉を鳴らした、あの若い若頭だった。彼は、ザイラスの店のほうを、じっとうかがっていた。
目が、合いかけた。若い男は、はじかれたように身をひるがえし、足早に人混みへ消えていった。追いはしなかった。今は、まだ。
——蒔いた種が、もう、芽を出そうとしているのかもしれない。
組合は、現金がリーシャの側についたことを、じきに知るだろう。掟で守られた壁の内側に、初めて、こちら側を覗き込む目が、生まれた。
俺は、その角をしばらく見ていた。それから、命を一枚賭けたばかりの胸の内を悟られないように、リーシャに向き直って言った。
「さて。次は、推薦状だ」




