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第29話 新しい掟

 同じ広場に、同じ夜が来た。


 集会所の窓に、油灯がともっていく。違うのは、戸をくぐる顔ぶれだった。選り場の婆さんと爺さんたちが、ガレオと連れ立って、今夜は胸を張って入っていく。


「また、外で待ちかい」


 ハンナが言った。


「慣れたもんだよ、あたしらも」


 ガロウは樽を椅子がわりに、もう腰を据えている。テオは壁にもたれ、台帳も票読みの紙も出さずに、ただ戸を見ていた。


 最後に、バルクが現れた。


 こちらを見なかった。ただ、戸の前で一度だけ立ち止まり、懐に手を当てた。それから、中へ入った。


 俺は、今夜も外だ。


 だが、紙は中にいる。俺の字がひとつもない、皆の字でできた紙が。



 ◇



 リーシャは、今夜は壁際ではなく、正面の台の横に立っていた。


 発議者の場所だ。膝は、震えていなかった。革袋の中の聖薬草は——


 ——『行っといで。今日は、黙っててあげる』


 それきり、静かだった。


「議題はひとつ。組合員リーシャの発議、新しい掟だ」


 事務官が、感情のない声で言った。


「発議者、述べよ」


 リーシャは紙を広げ、条文を読み上げた。声は細かったが、途切れなかった。読み終えて、顔を上げる。


「……難しく聞こえたなら、ごめんなさい。中身は、四つだけです」


 指を、ひとつ折った。


「ひとつ。良い薬草に、良い値がつくようにします。等級は選り場でつけて、診療所が確かめます」


「ふたつ。売り上げの一割を、皆で積んでおきます。山に入れなくなった人、怪我をした人、不作の年のための備えです」


「みっつ。選り分けも、乾かしも、教えることも、組合の仕事にして、賃金を払います。山に入ることだけが、仕事ではなくなります」


「よっつ。帳面は、ぜんぶ開きます。誰の銭がどこへ行ったか、いつでも、誰でも見られます」


 ひとつ、ふたつ、問いが飛んだ。直卸はどうなる。等級は誰が習える。リーシャは詰まらずに答えた。声の出し方を、もう知っていた。


「等級で値がつくなら、わしらの薬草は安くなるんじゃないのか」


 腕の上がらない若い採集人が、おずおずと訊いた。


「……正直に、言います」


 リーシャは、まっすぐにその顔を見た。


「下がることも、あります。等級の値は、買い手のつく値です。質の悪い薬草ばかりが集まれば、その値は崩れます。誰も買わなければ、値はつきません。——そこで嘘をつけば、この掟はぜんぶ嘘になります」


 部屋が、ざわついた。


「いまの一律買取は、効かない薬草にも同じ値を払う代わりに、効く薬草の値を削ってきました。それで、この街の薬草はまとめて安く見られてきました。新しい掟は、値段では嘘をつきません。そのかわり——人を、見捨てません」


 リーシャは、指を折りながら続けた。


「等級の見方は、選り場で教われます。採り時をひとつ覚えるだけで、等級は上がります。教わって上がった人を、私は知っています。山に入れなくても、選り場の仕事に賃金が出ます。それでも届かない年は、積み立てが支えます。——値段で守るのではなく、仕事と備えで守る。それが、この掟です」


 部屋の後ろで、マルコが分かりやすく咳払いをして、笑いが起きた。張りつめていた空気が、少しゆるんだ。


「……前にも、訊いたな」


 立ち上がったのは、あの痩せた年寄りだった。


「今度も訊く。その積み立て、誰が預かる。帳面は開くんだろう。だが銭そのものは、誰かの手の中にある。——よそ者か。それとも嬢ちゃん、あんたか」


 リーシャは、答えを持っていなかった。


 案には「管理人は寄り合いで選ぶ」としか書いていない。あの欄は空白のまま、今夜まで来てしまった。


 部屋が、静まり返った。


 椅子の軋む音がした。


 バルクが、立ち上がっていた。


「わしが、預かる」


 どよめきが、波のように部屋を走った。


「わしはこの案に、反対してきた。皆、知っての通りだ。質に値がつけば、弱い者から飢えると思ってきた。……今でも、その心配が消えたわけじゃない」


 正直な男だった。だから、部屋中が聞いていた。


「だが、十日、この紙を読んだ。読むたびに、わしの言い分が、わしの言葉より丁寧に書いてある。弱い者を、飢えさせない。——わしが三十年、言いたかったことだ」


 バルクは懐から紙を取り出した。折り目の擦り切れた、あの紙だった。


「だからわしが預かる。わしの目の黒いうちは、采れん者を飢えさせん。帳面はいつでも開く。一行でも狂っていたら——わしを、除名にしろ」


 それから、痩せた年寄りのほうを向いた。


「あんたの膝がいよいよ立たなくなった年は、わしが自分で届けに行く。それで文句があるか」


 年寄りは口を開けて、閉じた。それから、ゆっくり座った。


「……ないよ。お前さんが言うなら、ない」


 事務官が、紙を置いた。


「採決する。発議に、賛成の者」


 手が挙がった。


 ひとつ、ふたつ——数えるそばから、増えていく。ペトルが、マルコが、ガレオが、ヨナスが。婆さんたちが。痩せた年寄りの手も、挙がっていた。最後に、バルクの太い腕が、まっすぐ挙がった。


 数え直しは、要らなかった。


「——発議は、成った」


 事務官は感情のない声のまま、付け加えた。


「今日から、これが掟だ」


 リーシャは、挙がったままの手の森を見ていた。


 二年間、この手の誰一人、ベンチの自分を見なかった。その手がいま、自分たちの書いた紙のために挙がっている。


 目の奥が熱くなったが、泣かなかった。泣く代わりに、深く、頭を下げた。



 ◇



 戸が開く音で、立ち上がった。


 最初に飛び出してきたのはマルコで、何か言う前に、顔で分かった。


「通った! 通ったぞ、あんたの——」


 マルコは、言い直した。


「——俺たちの掟が、通った!」


 リーシャが出てきて、まっすぐ歩いてくる。


「……通りました」


「ああ」


 それ以上は、要らなかった。


 ハンナが、俺の背中をばんと叩いた。


「ほら、しゃんとしな。あんたの番が来るよ」


 ヨナスが出てきて、俺の前で立ち止まった。何か言いかけて、やめて、それから短く言った。


「……上前のない帳面ってのを、初めて見ることになる」


「ええ。あなたの言った瀬戸際は、越えました」


「次は、嘘になりようのない話だな」


 ヨナスは俺の肩をひとつ叩いて、夜の市場のほうへ歩いて行った。その足取りは、報せを運んでいた頃のどの夜よりも、軽かった。


 最後に、バルクが出てきた。


 俺の前で足を止め、無言で見下ろしてから、低く言った。


「これで、わしはお前を見張る側だ。帳面が一行でも狂えば、容赦せん」


「望むところです」


「礼は、言わんぞ」


「言われる筋でも、ありません」


 バルクはふんと鼻を鳴らし、ガレオのほうへ歩いて行った。二人は短く何か言葉を交わした。老人が杖で大男の脛を軽く打ち、大男が首の後ろをかいた。遠目には、それだけだった。たぶん、それで足りたのだろう。


 俺も掟を作る側に回る——あの夜、そう決めた。


 だが、正しくはこうだ。俺がしたのは下書きまでで、掟を作ったのは、読み上げた娘と、結びを教えた老人と、銭を数えた子供と、今夜、名を書いた男たちだ。


 俺の字は、あの紙のどこにもない。


 それでいい。それが、いい。


 新しい掟の最初の市は、三日後に立つ。


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