第30話 初値
市の立つ朝は、よく晴れた。
組合の建物の前に、見たことのない台が並んでいる。等級ごとの買い取り値を書いた板が、朝の光の中に掛かっていた。特上、上、並——板の字は、テオの几帳面な字だ。
最初の籠は、ペトルのものだった。
選り場の婆さんが土を落とし、ガレオが結びをあらため、リーシャが声を聞く。特上がひと束、上がふた束。札が付いて、台の上へ運ばれる。
事務官が板の値を読み上げ、銭が数えられた。
聖薬草の特上、一本——銀貨15枚。
ざわめきが、ゆっくりと市に広がった。一律買取なら銀貨1枚だった一本に、十五倍の値がついた。誰かが値切ったわけでも、誰かが施したわけでもない。品物が、品物の値で売れただけだ。
——初値、と前世の言葉が胸の中で鳴った。
あの若い採集人の籠は、並がほとんどだった。払いは、一律の頃とさほど変わらない。男は銭を握って、それでも少し笑った。
「……下がりゃ、しなかった。上は、これからだ」
「選り場で待ってるぞ」
ガレオが、台の向こうから言った。
ミレナも朝のうちに現れて、特上と上をまとめて買い付けていった。
「等級があると、仕入れが早くて助かるわ。前は、籠の半分を自分の目でより分けてたのよ」
帰りぎわ、思い出したように振り返る。
「言っておくけど、抜き打ちは続けるから」
「どうぞ。それが値の番人ですから」
買い取りの銭が動くたび、一割が、鉄帯の箱へ落ちていく。箱の前にはバルクが座り、太い指で備えの帳面をつけていた。
「その帳面、あたしらも見せてもらえるのかい」
婆さんが、おそるおそる覗き込む。
「いつでも見ろ。そういう掟だ」
俺が箱の前を通りかかると、バルクは顔も上げずに言った。
「……最初の月は、大した額にならんぞ」
「備えは、額より続きです。十年続けば、誰もこの箱の前の暮らしを疑わなくなる」
「十年か」
バルクは、ふんと鼻を鳴らした。
「いいだろう。わしの目は、まだ十年は黒い」
ヨナスは、自分の払いの行を台帳の上で二度なぞった。
「……上前が、ない」
「ありません。これからも」
「妙な気分だ」
そう言う顔は、笑っていた。
昼前、選り場の戸口に、見覚えのある爺さんが立った。倅に止められて、来なくなった爺さんだった。何も言わずに、空いたままだった席に座る。
「遅刻だ」
ガレオはそれだけ言って、籠をひとつ、押してやった。
夜番明けのガロウは、市の隅で大きな欠伸をしていた。
「平和な市ってのは、傭兵にはいちばん稼げん場所だな」
「夜番は、続けてもらいますよ」
「分かってるさ。銭の集まる所に、平和は長居しない。——あんたが言いそうなことだろう」
◇
昼過ぎ、宿場帰りのハンナが市に飛び込んできた。
「聞きなよ。ボルグの当てが、外れたどころじゃないよ」
「触れの話か」
「回りもしないさ。それどころか、宿場の連中が等級の薬草を欲しがってる。ヤン先生は注文を倍にしたいと。おまけにボルグときたら、『うちも等級で買い取る』なんて言い出したらしい」
笑ってしまった。
締め出すための触れの代わりに、仕組みのほうが街道を渡っていく。
夕方、ザイラスの店に月の返済を届けた。
ザイラスは銭を数え、帳面をつけ、それから言った。
「この調子なら、三年はかからんな」
「一年半で、返します」
「ふん。……いいだろう。賭けた甲斐があったというものだ」
落ちくぼんだ目が、ちらりとこちらの胸元を見た。
「ペンは、無くしてないだろうな」
「ここに」
「なら、いい」
◇
日が沈む前、ギルドの前を通った。
例のベンチに、リーシャが座っていた。隣が、空いている。俺は黙って、そこに座った。
二年間、この子が座り続けた場所だ。今は、座りたくて座っている。それだけのことが、ずいぶん遠くまで来た証に見えた。
リーシャが、布の包みを差し出した。
「今日の上がりの、三割です。覚書の、配当です」
包みは、両手にずしりと重かった。施しでも、礼でもない。共同事業の、取り分だ。
「確かに」
「……あの」
リーシャは、少しためらってから言った。
「投資って何ですかって、前に訊きました」
「訊いたな」
「今は、少し分かります。賭けてもらった側が、いつか、賭ける側に回ることです。……私の上がりからも、今日、一割が箱に入りました。誰かの、明日の分に」
それから、思い出したように付け加えた。
「納屋の裏の畑、芽の葉が二枚になりました。あの子たち、もう煙の話はしません。次の新月の話ばかりしています」
山に入れない者の采れる場所が、土の下で育っている。それも、いつかの市の初値になる。
積み立ての箱を覗き込んでいた、婆さんの横顔を思い出した。
その横顔に、遠い窓口の、小さな背中が重なった。十年、こつこつと積み立てて、孫の祝いを楽しみにしていた人。あの人の通帳は、俺の最初の、たぶん唯一の誇りだった。
——ここでも、やれていますよ。
胸の中でだけ、そう報告した。
◇
市じまいの頃、見慣れない男が、畳まれていく台を眺めていた。
旅装は上等で、目つきは商人のそれだった。こちらに気づくと、にこやかに歩み寄ってくる。
「いい市だ」
男は、台の板を目で示した。
「街道筋で噂を聞きましてね。等級と、積み立てと、開いた帳面。王都にもない市が、辺境に立ったと。——あなたが、その設計者だとうかがいましたが」
「いえ」
俺は、首を振った。
「掟を作ったのは、この街の組合です。私はただの、出入りの者ですよ」
「ご謙遜を」
男は名乗らず、ただ笑って、一礼した。
「また参ります。その時は、ぜひ商いの話を。王都には、あなたの話を聞きたがる者が、大勢おりますので」
男の背中が、街道のほうへ遠ざかっていく。
夕暮れの市場跡に、リーシャが並んで立った。
「……今の人は」
「新しい客か、新しい面倒の、どちらかだな」
革袋の中で、聖薬草が何か言ったらしい。リーシャがふっと笑って、その言葉を伝えた。
——『どっちでも同じよ。分の悪い賭けは、あんたたちのお得意でしょ』
ああ。お得意だ。
一人の娘に賭けた金貨65枚が、ひとつの市を作り変えた。最下位だった男の、これが最初の運用成績だ。
まだ、薬草ひと筋の小さな市場だ。それでも——初値は、ついた。




