第27話 預け先
朝いちばんに、リーシャは組合の建物へ発議の紙を出しに行った。俺は中に入れないから、戸口までの付き添いだ。
白髪の事務官は、紙を端から黙って読んだ。長い時間をかけて、最後の行までだ。
「……組合員リーシャの発議。書式は、掟の通りだ」
「受け取って、いただけるんですね」
「掟は、発議の中身で受け取りを選べとは書いていない」
事務官は台の下から帳面を出して、日付を書き入れた。
「次の寄り合いは、十日後だ」
それだけだった。味方でも、敵でもない。この男はたぶん、掟そのものなのだろう。
リーシャは、深く頭を下げた。それから、台を離れぎわに、小さく言った。
「……この台の前で、組合員証をもらいました。あのときも、掟は掟だと言ってくださいました」
事務官は、顔も上げなかった。
「掟は、掟だ。今度の紙が通れば、次からは、お前さんの掟だがな」
◇
バルクの家は、町はずれの山裾にあった。
「わしが先に立つ」
ガレオはそう言って、杖の先で戸を叩いた。
戸を開けたバルクは、俺を見て眉を寄せ、それからガレオを見て、何も言えなくなった。
「入れてもらうぞ」
ガレオは返事を待たずに敷居をまたいだ。親方というのは、便利なものだ。
家の中は、がらんとしていた。だが、壁には山刀と背負い籠が掛かっている。手入れされたまま、出番を待っている。——ガレオの小屋と、同じ壁だった。この男も、道具を捨てていない。
「……何の用だ」
俺は、案の紙を差し出した。
「次の寄り合いに出す案です。発議は今朝、受理されました」
バルクは、受け取らなかった。
「お前の掟の自慢を聞くために、戸を開けたんじゃない」
「お願いがあって来ました」
俺は、紙を引っ込めなかった。
「積み立ての管理人を、あなたに頼みたい」
沈黙が長かった。バルクの顔に、怒りより先に、当惑が浮かんだ。
「……正気か、お前」
「正気です」
「わしはお前を潰す側だぞ。寄り合いで負けた側だ。その男に、負けた相手の作った掟の、施しの番をやれと言うのか」
「施しじゃありません」
俺は言った。
「皆が先に積んでおく、皆の銭です。施しなら、番人は誰でもいい。でもこれは違う。持ち逃げされないと、皆が心の底から信じられる男でなければ、備えはただの紙になる」
「だったら、なおさらだ。なぜ、わしなんだ」
「この街でいちばん、弱い組合員の顔と名前を覚えているのが、あなただからです」
バルクの目が、わずかに見開かれた。
「誰の膝が悪くて、誰の連れ合いが先に死んで、誰の倅が出ていったか。あなたは全部、覚えている。選り場に来たあの晩、婆さんの亭主の顔を覚えていたのは、あなただけだった。……帳面に書けないものを覚えている人にしか、頼めない仕事なんです」
「黙れ」
低い声だった。
「お前の掟に乗れば、わしの三十年は何だったことになる。一律買取を守って、守って、それでガレオの親方ひとり守れなかった三十年は——」
「バルク」
ガレオが、初めて口を開いた。
「お前はあの晩、わしに守れなかったと言ったな」
「……親方」
「できることが、できたぞ。今度は掟の外じゃない、掟の中でだ。わしのような年寄りが二度と干されない掟の、その番人だ」
ガレオは、壁の山刀を顎で指した。
「掟の番なら、お前より向いてるやつを、わしは知らん」
バルクは答えなかった。丸太のような腕が、固く組まれたまま動かない。
長い沈黙のあと、男は別のことを言った。
「……わしが頷いたところで、通ると思うか。わしは昨日まで、お前らを潰す側の頭だ。今日から備えの番人ですと言って、誰が信じる」
「昨日まで潰す側だった人だから、信じるんです」
俺は答えた。
「身内が銭を預かれば、皆は『身内びいきの掟だ』と言う。いちばん厳しく反対した人が番人に立って、初めて、あの積み立ては誰の物でもなくなる。——うちの数える子も、同じことを言いました。疑われない置き場所に、銭を置けと」
「……屁理屈だけは、達者だな」
「それと、手当のことも紙に書いてあります。月決めの、決まった額です」
「銭などいらん」
「受け取ってもらいます」
俺は、引かなかった。
「タダ働きの番人は、いつか自分の取り分を、自分で決め始める。決まった手当だけが、預かる人を疑いから守るんです。これも、うちの数える子の受け売りですが」
バルクは何かを言いかけて、やめた。
「……帰れ」
絞り出すような声だった。
俺は、紙を卓の上に置いた。
「紙は、置いていきます。読むのも、燃やすのも、あなたの自由です」
戸が、閉まった。
紙は、返ってこなかった。
帰り道、俺はガレオに訊いた。
「どう見ますか」
「五分五分だ」
ガレオは杖をつきながら、少し考えて、言い直した。
「いや。あいつは紙を突き返さなかった。六分四分にしておく」
◇
夕方の納屋に、ヨナスが来た。
「ドレンが、吹いて回ってる。『バルクはよそ者に取り込まれた』『あの案に乗るのは、組合を売るのと同じだ』とな」
「票への障りは、どうです」
「薄いな。年寄り連中はもう、選り場の話で持ちきりだ。ドレンの声は、前ほど通らない。——だが、気をつけろ」
ヨナスは、声を落とした。
「負けが見えた犬が、いちばん噛む。あいつは寄り合いで勝つ目がなくなったら、寄り合いの外で何かやるぞ」
「手は、どれくらい残ってるんです」
「二人か、三人だな。混ぜ物の一件からこっち、組合の看板はもう、あいつを守らない」
夜番の椅子から、ガロウが顔を上げた。
「物騒な話は、おれの賃金が上がる話か」
「そうなるかもしれません。夜は、納屋から離れないでください。荷と、帳面を」
「請け負った」
テオが、台帳を開いて何か書きつけた。
「夜番の賃金、今夜から上げとく。危ない仕事は、危ない分の値段だ」
寄り合いまで、十日。
管理人の欄は、まだ空白のままだ。
それでも、あの紙は今、敵だった男の卓の上にある。悪くない置き場所だと思っている自分が、いた。




