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第26話 下書き

寄り合いの翌朝から、俺たちは紙と向き合った。


街の空気は、勝った側のそれではなかった。市場ですれ違う採集人は、こちらを見る者と、見ない者に割れている。改定は止めた。だが、止めただけだ。怯えの返事は、まだ誰もしていない。


納屋の卓に、いつもの顔が揃っている。リーシャ、ハンナ、テオ、ガレオ。籠を置きに来たペトルとマルコも、そのまま居着いた。


「次の寄り合いに出す、掟の案だ。今日から皆で作る」


「皆でって……あたしらが、掟をかい」


ハンナが目を丸くした。


「掟ってのは、偉いさんが作るもんだろ」


「偉いさんの作った掟がどんなものかは、もう嫌というほど見た」


俺は、卓の真ん中に紙を置いた。


「使う者が作る。それが、いちばん丈夫なんだ」


最初の柱は、すぐに決まった。買い取りを等級別の値段にする。質を見ない一律を、やめる。


「等級は、誰がつける」


ガレオが訊いた。


「選り場で。あなたの結びと、あなたの基準でつける」


「わしの目も、いつまで持つか分からんぞ」


「だから、教えることも仕事にする。あなたが仕込んだ若いのが、次の目になる」


「宿場の荷は、どうなるんだい」


ハンナが身を乗り出す。


「直卸はお咎めなしと、はっきり書く。組合に売るか、自分で売るかは選べる。そのかわり、どっちの売り買いも台帳に載せる」


「なら、文句なしだ」


二つ目の柱で、手が止まった。


「組合を通る売り上げから、一割を取り分けて積んでおく。山に入れなくなった者、怪我をした者、不作の年。そこから銭を出す」


「ちょっと待ってくれ」


声を上げたのは、マルコだった。


「それ、俺の売り上げからも取るのか。やっと、まともな値がつくようになったのによ」


正直なやつだ。だが、この声は必ず出る。寄り合いでも、同じ声が出る。


俺が口を開く前に、ペトルが言った。


「マルコ。わしは、あと十年で山に入れなくなる」


静かな声だった。


「お前も、いつかそうなる。膝か、腰か、目か。順番が違うだけだ」


「……そりゃ、そうだけどよ」


「一割は、年寄りにくれてやる銭じゃない。お前が先に積んでおく、お前の銭だ」


マルコはぐっと詰まって、それから頭をかいた。


「……そういう言い方なら、分かるよ」


前世の言葉で言えば、保険だ。だがこの世界に、まだその言葉はない。ペトルの言い方のほうが、よほど正確に芯を突いていた。


「積み立ての帳面も、誰でも見られるようにする」


テオが、当然のように言った。


「皆の銭を預かるんだ。隠れたら、その日に疑いが生まれる」


戸口から、声がした。


「上の取り分も、全部書くんだろうな」


ヨナスだった。昼日中に、堂々と入ってくる。


「ああ。誰が何を売って、誰がいくら受け取ったか。上も下もなく、全部だ」


「……あんたの言ってた正規の道ってのは、そういう紙の形をしてたのか」


決まった端から、俺は手元の紙に書きつけていく。日本語で、だ。それをテオが横から覗き込み、この世界の文字に書き起こしていく。


「あんたの字は、ほんとに読めないな」


「だから下書きなんだ。清書は、きみの字で頼む」





昼すぎ、診療所に寄った。


ミレナは案の紙にざっと目を通して、ふんと鼻を鳴らした。


「つまり、私の名前をまた貸せってことね。等級の太鼓判に」


「お願いします。売り手が自分でつけた等級では、誰も信じない」


「いいわ。条件がひとつ」


ミレナは紙を突き返した。


「等級の基準は、私が書く。患者に効くかどうかで決める。見た目の良し悪しじゃなく」


「願ってもない」


「それと、言っておくけど」


目の下の隈が、こちらを向いた。


「あんたたちの帳面とやらが狂ったら、私は容赦なく保証を引き上げる。私が守るのは患者で、あんたたちじゃないの」


「それで、いいんです」


信用を貸す者が厳しいほど、保証は固くなる。ミレナの皮肉は、この仕組みのいちばん上等な部品だった。





夕方、ザイラスの店に紙を持ち込んだ。


ザイラスは端から黙って読み、読み終えると、紙を卓に置いた。


「青臭いが、銭の流れは回る。等級買取はいい。質が上がれば、売値も上がる」


それから、骨ばった指が紙の上を移って、止まった。


「不作が二年続いたら、どうする。備えの底が抜けるぞ」


「底が見えたら、出す額を寄り合いで決め直す。そう書いてあります。誤魔化して配り続けるより、帳面ごと開いて皆で締めるほうが、備えは長持ちする」


「ふん。約束を小さく書くのは、悪くない手だ。守れん約束がいちばん高くつく」


四十年の金貸しのお墨付きとしては、上等な部類だろう。だが、ザイラスの指は紙から離れなかった。


「——だがな。この一割、誰が預かる」


「組合の備えとして、組合が」


「組合という名前の人間はおらん」


ザイラスは、にべもなかった。


「銭は、誰かの手の中にしかない。帳面が開いていようが、持ち逃げする気の人間にとっては紙切れだ。……で、誰が預かる。お前さんか」


「私は組合員ではありません」


「なら、誰だ」


答えに詰まった俺を眺めて、ザイラスは薄く笑った。


「私が預かってやってもいいぞ。手数料は、そうだな——」


「あなたには頼みません」


「ふん。即答か」


「銭の扱いは、誰より確かでしょう。でも、あなたは組合の外の人だ。外の人間が皆の備えを握れば、組合は『よそ者に乗っ取られた』と言う。……それでは、あの人の言った通りになってしまう」


ザイラスは気を悪くした風もなく、指で卓を一度叩いた。


「分かってるじゃないか。——なら、答えはもう出てるな」


「……ええ」


「お前さんが、この街でいちばん口説きにくい男だ」





夜、納屋の卓に、テオの清書が広げられた。


等級のこと。積み立てのこと。仕事のこと。帳面のこと。リーシャの目利きと、ガレオの結びと、ペトルの言葉と、ミレナの条件が、几帳面な小さい字で並んでいる。


俺の字は、この紙のどこにもない。


それで、いい。


「出すのは、私です」


リーシャが、紙の端の発議の欄を指した。組合員でなければ、案は出せない。


「私の名前で、出します」


「怖くないか」


「怖いです」


リーシャは、紙から目を上げた。


「でも、ベンチよりは怖くありません」


紙の上で、ひとつだけ埋まっていない欄があった。


積み立ての管理人。皆の銭を預かる者の名前。


そこに書ける名前は、ひとつしか思い浮かばなかった。この街でいちばん、弱い組合員の顔と名前を知っている男。そして今、こちらにいちばん腹を立てているはずの男。


——明日、会いに行く。


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