第24話 同じ山
選り場の評判は、ヨナスの言った通りに広がっていた。
戸口の外に、見覚えのない年寄りが立つようになった。中には入らない。半日、黙って眺めて、帰っていく。
「入らねえのか、とは聞くなよ」
ガレオが言った。
「ああやって見てるのは、迷ってる証拠だ。年寄りの迷いは長い。急かせば逃げる」
実際、声をかけてくるのは俺たちにではなかった。戸口の年寄りは、選り台の婆さんに小声で訊く。
「……あんた、ほんとに銭をもらえたのかい」
「もらったよ。嘘だと思うなら、帳面を見せてもらいな。あたしの名前が載ってる」
婆さんが胸を張って答えるたび、噂はまたひとつ、足を生やして出ていった。
それでも、杖の爺さんがもう一人加わって、選り台は三人に戻った。日銭は銅貨で、夕方には台帳に載る。婆さんは仕事じまいに自分の欄を確かめるのが、癖になったらしい。
夜になると、テオが票読みの紙に線を引き直した。
「十人のうち二人が、三人になったかどうか。……そんなとこだ。まだ足りない」
「足りないな」
「言っとくけど、帳面は嘘をつけないからな。願いを足して数えたりはしない」
「それでいい」
そして、寄り合いの前夜が来た。
◇
仕事じまいの頃、戸口の光が翳った。
バルクだった。
供はいない。丸太のような腕を下げたまま、一人で立っていた。婆さんたちの手が止まり、納屋の空気が張りつめた。
前に出たのは、ガレオだった。
「……バルク」
「久しいな、親方」
耳を疑った。あの高圧的な男の声が、そこだけ別人のようだった。
「もう親方じゃない。山を下りた男だ」
「下りても、親方は親方だ」
バルクはゆっくりと納屋を見回した。乾し紐に並んだ薬草。選り台の手元の籠。竦んでいる年寄りたち。それから、婆さんの前で足を止めた。
「……あんたの亭主の顔は、覚えてる。いい採集人だった」
婆さんが、目を見開いた。
「——手間賃は、いくらだ」
「……か、籠ひとつで、銅貨5枚だよ」
バルクは何も言わなかった。ただ、乾し紐の薬草をひと束、手に取った。葉を潰さない持ち方だった。山を歩いていた頃の手つきが、あの太い指にまだ残っている。
「見ていきますか」
俺は、卓の上の台帳を指した。
「誰でも見ていい帳面です。誰が何籠選って、いくら受け取ったか、全部載っている」
バルクは台帳の前に立ち、太い指で紙を押さえて、長いこと読んでいた。読み終えても、すぐには顔を上げなかった。
「……上手くできてる。だがな、よそ者」
こちらを向いた目には、怒りより重いものがあった。
「質に値がつけば、采れるやつだけが太る。腕の落ちたやつ、運の悪いやつ、歳をとったやつから、順に切られて飢える。わしは、それを見てきた」
「その『見てきた』ってのは——」
ガレオが、静かに割って入った。
「わしのことか、バルク」
納屋が、しんとなった。
「お前は昔、わしの後ろを歩いて山を覚えた。わしが足をやったとき、お前はもう若頭だった。……で、聞くがな」
ガレオは、悪いほうの足を一歩引きずって、男の正面に立った。
「お前の掟は、わしを守ったか」
バルクは、答えなかった。長い沈黙のあと、絞り出すような声が出た。
「——守れなかった」
丸太のような腕が、固く握られていた。
「親方を干したのは組合だ。わしは若頭のくせに、何ひとつできなかった。だから決めたんだ。せめて残りの連中は、同じ目に遭わせんと。一律買取はそのためにある。皆を同じ値で、最後まで買う。——それの、何が間違ってる」
間違っていない。半分は。
「間違ってない、と思います。守ると決めたことは」
俺は言った。
「でも、帳面はもう答えを出してる。一律買取があの人たちに払ってきた銭と、この選り場が払う銭。守るための仕組みが、守る相手にいちばん安い値をつけてきた」
「……銭の話じゃない」
「銭の話です」
俺は、引かなかった。
「飢える、と言ったのはあなただ。飢えは銭でしか防げない。——俺は、あなたの『守る』を捨てろとは言っていない。守り方を、変えたいだけだ」
バルクの目が、わずかに揺れた。
「……仮に、そうだとしてもだ」
声が、低くなった。
「その帳面は、お前の帳面だ。お前が飽きたら、消えたら、誰がこいつらに銭を払う。よそ者の気まぐれに、組合は預けられん」
正しい。痛いほど、正しい。俺一人の善意で回る仕組みなら、ボルグの触れを恐れるヤン頼みの細い道と、何も変わらない。
——だから、掟にするしかないのだ。だがそれは、明日の票の、その先の話だった。
バルクは帳面から手を離し、戸口へ向かった。
「明日、寄り合いで決める。それが筋だ」
戸口で一度だけ、振り返った。見たのは俺ではなかった。乾し紐の薬草と、選り台の年寄りたちと、ガレオだった。
「……達者そうで、何よりだ。親方」
ガレオは、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
◇
足音が遠ざかってから、婆さんが大きく息をついた。
「おっかないねえ、相変わらず」
「あれで昔は、気のいい若いのだったがな」
ガレオがぽつりと言った。
「初めて自分の手で聖薬草を見つけた日、あいつは山の上で吠えたんだ。麓まで聞こえるような声でな。……あの頃のバルクに、掟だの買取だのの話をしても、きょとんとしてたろうよ」
ガレオは、バルクが触っていった乾し紐の束を、見るともなく見た。
「山を下りてから、顔を合わせたのは初めてだ。——あいつも、わしに合わせる顔がなかったんだろうよ」
帰り道、リーシャと並んで歩いた。
「明日、中に入れるのは組合員だけだ。きみと、ペトルと、マルコと、ガレオさんたち。……俺は、外で待つことになる」
「はい」
リーシャは、革袋の紐を握り直した。
「二年間、私はあそこの誰からも、見えていませんでした。——明日は、見える場所に立ちます」
その声は、静かで、震えていなかった。
「ただ……うまく話せるかは、分かりません」
「うまく話さなくていい」
俺は言った。
「うまい話は、もう向こうがしてる。きみは、本当のことだけ言えばいい」
寄り合いは、明日の夜。
票読みの紙は、まだこちらの負けを示している。それでも、バルクが最後に見ていったものを、俺は覚えておくことにした。
あの男は敵の砦を確かめに来たんじゃない。守られているはずの年寄りの顔を、確かめに来たのだ。




