第20話 テオ
数日後、俺はテオに覚書を差し出した。
リーシャやハンナと同じ、魔法の縛りのない、ただの紙だ。テオは、紙そのものを疑う前に、書いてある中身を端からあらためた。この子らしい順番だった。
「報酬のことだが」と俺は切り出した。「きみが見つけたずれの大きさに応じて払おうと思う。ザイラスの店の五枚のように、きみが救った銭の分だけ、きみの取り分が増える。働きの値打ちどおりに払う。それが、いちばん公正だと思うんだ」
働きに、値打ちどおりの値をつける。リーシャにも、ハンナにも、そうしてきた。
だが、テオは紙から目を上げずに、首を振った。
「だめだ」
「どうして」
「それだと、ずれが多いほど、おれの銭が増える」
テオは、顔を上げた。
「……おれは、ずれを待つようになる。そのうち、ずれがないと困るようになる。仕込みたくなるかも、しれない。おれがそうしなくても——まわりが、いつか、そう疑う。『あいつは、ずれを見つけるたびに儲かる』って」
俺は、言葉を失った。
「数える人間の銭は、数えの中身から、切り離してくれ。月決めの、決まった銀貨がいい。ずれを百個見つけても、ひとつも見つけなくても、同じ額。——決まってるから、疑われないんだ」
帳面をあらためる者の報酬を、その結果に繋いではならない。前世で、何度も破られ、破られるたびに市場を壊してきた鉄則だ。それを、この子は、自分の銭が減る側に倒しながら、誰に教わるでもなく言っている。
「きみの言う通りだ。俺の案が、間違ってた」
俺は、素直に頭を下げた。テオは、ぎょっとした顔で身を引いた。
「……あんた、ほんとに変な大人だな。間違ってたって、子供に頭を下げるのか」
「間違いを認めない帳面の主を、きみはどう思う」
「——いちばん、怪しい」
テオは、初めて、聞こえる声で笑った。十五の子供の、年相応の笑い方だった。
報酬は月決めの銀貨と決まり、テオはその額を、自分の手で台帳に書き込んだ。
「おれの給金も、ここに書く。誰でも見られるところに。——数える人間の銭が見えないのが、いちばん危ないんだ」
それから、覚書に名を書いた。几帳面な、小さな字だった。ハンナの大きな字と、同じ紙の上で、ずいぶん対照的だった。
「ちっちゃい字だねえ。あんた、もっと堂々と書きなよ」
横から覗き込んだハンナが、けらけらと笑う。テオはむっとした顔で紙を引き寄せた。
「字は、読めりゃいい。でかい字は、紙の無駄だ」
「言うようになったよ、この子は」
リーシャは何も言わず、卓の上に、湯気の立つ椀をひとつ、テオの前へ置いた。森で摘んだ香草の茶だという。テオは戸惑って、椀とリーシャを見比べた。
「……毒見なら、自分でやれよ」
「葉っぱの声を聞いて選びました。外れは、ありません」
リーシャが、大真面目に答えた。テオはそっぽを向いて、それでも、椀には口をつけた。
三人が、同じ卓についている。採る者と、運ぶ者と、数える者。二年ベンチに座っていた娘と、店先を借りていた女と、市場の隅の小僧と。誰一人、世間の値付けではまともな値がつかなかった顔ぶれだった。
◇
それからの毎日は、静かによく回った。
朝、ギルドの隅に籠が届く。ペトルとマルコの薬草を、リーシャが確かめて、良い品だけがミレナの診療所へ運ばれる。月に二度はハンナが、聖薬草の包みを抱えて東の街道へ発つ。
「行ってくるよ。帰りは明後日」
「頼んだ。無理はするな」
夕方には、テオが台帳をつける。籠の数、納めの数、売り上げ、払い。銭がひとつ動けば、跡が二つ、几帳面な字で増えていく。月の終わりには、皆が自分の欄を確かめに来る。
ある晩、その様子を眺めていたガロウが、酒杯を片手に笑った。
「あんた、いつのまにか、所帯持ちみたいな顔になったな」
「そう見えますか」
「最初に森で拾ったときは、明日には行き倒れてると思ったがね」
俺も、少し笑った。
——まだ、薬草ひと筋の小さな商いだ。それでも、採る者、あらためる者、認める者、運んで売る者、数える者。ひと回りの仕組みが、俺がいなくても半分は回るようになった。前世で、最後まで一人だった俺が。
その夜の帳面の数字は、どこにも、ずれひとつなかった。
◇
崩れたのは、その平穏のほうだった。
数日後の夜更け、ギルドの裏口に、ヨナスが立っていた。フードを目深にかぶり、何度も背後を確かめている。
「あんた、まずいことになった」
声が、低かった。
「寄り合いが、招集された。組合の、全員のだ。議題は——掟の改定。バルクが、言い出した」
「改定。どんな」
「『組合員が採った薬草は、すべて組合の買い取りを通す。組合を通さない売り買いは、相手が誰であれ、掟破りとする』——そういう文言だ」
息が、一拍、止まった。
ミレナへの直卸は、「組合員が自分の薬草を誰に売るかは、掟に触れない」という隙間で成り立っている。宿場のヤンへの道も、その上にある。あの文言が通れば、隙間ごと、一夜で埋まる。リーシャも、ペトルも、マルコも、明日から売るたびに掟破りだ。掟は、資格を守ってくれた同じ口で、今度はこちらの首を絞めにくる。
「通りそうなんですか、それは」
「通る」
ヨナスは、間を置かずに言った。
「あんたは、組合の全部が敵だと思ってるだろうが、違う。寄り合いの大半は、山に入れなくなった年寄りと、腕の上がらない連中だ。あいつらは、一律買取に守られてると、本気で思ってる。バルクが『直売りを許せば、お前らの薬草は誰も買わなくなるぞ』と言えば、震え上がって、こぞって賛成に回る」
——まだ采れない者には、采れるようになる道を。
バルクに啖呵を切った、あの約束が、胸の奥で音を立てた。あの言葉を本物にできていれば、震える側の票は、こちらに来たはずだった。俺はまだ、ペトルとマルコの先へ、その道を広げられていない。バルクは、そこを正確に突いてきている。
「……あなたの立場は、大丈夫なんですか。こんな夜中に、ここへ来て」
「どうせ、もう睨まれてる」
ヨナスは、吐き捨てるように言った。
「言ったろ。口だけなら、誰でも言える。——あんたは、おれに、上前をはねられない正規の道を作るって言った。あの言葉が嘘になるかどうかの瀬戸際だ。だから、報せに来た」
「ありがとう。——寄り合いは、いつです」
「七日後だ」
ヨナスは、それだけ言うと、夜の中へ消えた。
俺は、しばらく裏口に立っていた。
——掟は、掟だ。白髪の事務官は、そう言って、こちらを守ってくれた。だが掟が書き換われば、守られる者も書き換わる。バルクは正面から、いちばん確かな手を打ってきた。殴り込みでも、嫌がらせでもない。ルールそのものを、変えにきた。
これは戦だ、と、あの男は言った。
その言葉の本命が、七日後に来る。
——掟の隙間で勝つのは、もう終わりだ。隙間は、埋められる。なら、残る道はひとつしかない。
俺も、掟を作る側に、回る。




