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第2話 覚書

 ベンチの座面は、朝のうちは冷たく、昼を過ぎてくると温まる。今日も、もう温かい。誰も来なかった、ということだ。


 膝に載せた革袋の中で、聖薬草がそっと身じろぎした。


 ——『あたしたち、今日も、売られるの?』


 頭の中に、声が響く。リーシャは声に出さずに答えた。


 ——売らなきゃ、食べていけないから。


 ——『銅貨30枚って相場の三十分の一よ、わかってんの?』


 それ以上は答えなかった。答えれば、声が尖るのが自分でも分かっていたから。


 新月の夜にだけ咲く、聖薬草。本当なら、品質を保証して正規に卸せば、銀貨10枚にはなる。庶民のひと月の暮らしがまかなえる額だ。それを組合員に密売すれば、銅貨30枚。今日と、明日のパン代。


 森じゅうの草が、リーシャには教えてくれる。どこに何が芽吹くか。いつ採ればいちばん効くか。傷んだ薬草と活きのいい薬草の見分けくらい、目をつぶってでもつく。

 聖薬草は意外に辛辣な話し方をするというのもリーシャだけがわかっていることだった。


 組合員でないというだけで、銅貨30枚。


 間違っているのは、私じゃない。値段のほうだ。


 2年のあいだ、この理不尽な状況は何ひとつ変わらず、半ば諦めに近い感情を持っていた。



 ◇



 ——『リーシャ。誰か、来るよ』


 ——え?


 ——『あんたを、見てる人がいる。さっきから、ずっと』


 顔を上げた。受付のそばに、見たことのない服を着た男が立っている。髭面のガロウと、何か話している。その目が、はっきりと自分に向いていた。


 慌てて、顔を伏せる。


 こういうとき、たいていはすぐに視線が外れる。哀れみか、好奇か、どちらにせよ長くは続かない。誰も、ベンチの娘になど用はないからだ。


 けれど、その視線は外れなかった。


 ——『あの人、悪い人じゃないと思う』


 ——どうして、わかるの。


 ——『あんたを見る目が、他の人たちと違うから』


 足音が近づいてきた。三歩進んで、止まる。何かガロウに言っている。それからまた歩き出した。


 足音が、目の前で止まった。



 ◇



「初めまして。桐生隼人といいます」


 しゃがんで、目線を合わせてくれている。黒い髪に、黒い瞳。怒鳴る人の声じゃなかった。


「……は、はい」


「急に、ごめんね」


 その人は、声を少し落とした。


「怒りに来たんじゃないよ。買い叩きにも来てない。さっきから見てたんだ。きみがずっとここに座ってるの」


「……どうして」


「みんな、きみを見ないだろう。それが、おかしいなと思ってさ」


 少し笑って、続けた。


「ひとつ、聞かせて。きみのスキルは、植物の声が聞こえる、で合ってる?」


「……はい。でも、ハズレで」


「薬草の良し悪しは、分かる? 採り時とか、傷んでるやつの見分けとか」


「……それは」


 気づくと、声が出ていた。


「採り時なら、月の満ち欠けと、朝露の量で分かります。聖薬草は、新月の前の夜がいちばん効きが高くて、雨の翌日は、根が水を吸いすぎて、使いものになりません。傷んだのは、匂いで。いい薬草は、土の匂いの奥に、少し、甘い香りが——」


 そこまで言って、リーシャは口をつぐんだ。こんなに喋ったのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。顔が、熱くなる。


 桐生は急かさなかった。ただ、深くうなずいた。


「やっぱり。それ、ハズレじゃないよ」


 リーシャの息が、止まった。


 ハズレじゃない。2年間、誰も言わなかった言葉だった。誰もが最初からそう決めていた。植物の声が聞こえるなんて、なんの役にも立たない、と。



 ◇



「きみに足りないのは、力じゃないんだ」


 桐生は言った。


「お金と、コネだけ。そして、それはたまたま俺の得意分野でね」


「……お金」


「組合員になるには、金貨50枚と、推薦状が2枚いる。お金のほうは、俺がなんとかする。きみのこれからの稼ぎを担保にして、街の金貸しから借りるんだ」


「……でも、私、返せなかったら」


「返せなかったときは、俺が代わりに払う。保証人になるからね。だから、そこはきみが怖がらなくていい」


 リーシャは、ぽかんと桐生の顔を見た。言われたことの半分も分からなかった。けれど、この人が自分のために、何かを丁寧に組み立てているということだけは伝わってきた。


「条件が、ひとつだけある」


 桐生は続けた。


「組合員になってきみが稼ぐお金の3割。それを5年だけ俺にくれ。利息じゃない。一緒に事業をやる、その分け前だ。俺は、金を貸すだけの相手じゃなくて、きみと組む。だから、しくじったときは、損も一緒にかぶる」


「……」


「リーシャ。俺は、きみに投資したいんだ」


 長いあいだ、何も言えなかった。革袋を、ぎゅっと抱きしめる。


「……投資、って、何ですか」


 桐生は、ゆっくりと笑った。


「あなたに賭ける、ということ」


 ふいに、言葉づかいが変わった。それは、よそよそしさではなかった。むしろ、さっきまでより、もっと本気の響きがした。


「……賭けるって」


「きみは、化ける。俺は、そう見た」


「……もし、私が、しくじったら」


「金貸しには、俺が払う」


「桐生さんが、損を、します」


「ああ」


「それでも、いいんですか」


 桐生は迷わなかった。声が、また一段、やわらかいところに戻っていた。


「きみは、2年も、ここに座ってた。諦めない人は化けるんだ。俺は、それだけは見間違えたことがない」


 革袋の中で、声がした。


 ——『リーシャ。この人、信じても、いいんじゃない』


 目の奥が、熱くなった。涙がこぼれた。声を出さずに、リーシャはうなずいた。



 ◇



「ありがとう」


 桐生は、深く頭を下げた。


 それから、内ポケットから、奇妙な細い棒と、見たことのない文字が並んだ紙を取り出した。紙の裏は、白かった。


「おい、待て」


 それまで黙って見ていたガロウが、血相を変えて一歩踏み出した。


「あんた、まさか……その娘と、契約を結ぶ気か」


 ただ事ではない声だった。リーシャの肩も、思わず震えた。この街で「契約」は、誰もが声をひそめて口にする言葉だった。


「落ち着いてください、ガロウさん」


 桐生は、穏やかに首を振った。


「これは契約じゃありません。ただの覚書です。誰の命も縛らない。破ったところで、何も起きない。ただの紙きれですよ」


「……ただの紙だと」


 ガロウは、狐につままれたような顔をした。


「縛りもせん約束に、何の意味がある」


「意味は、ここにあります」


 桐生は、自分の胸を軽く叩いた。それから、リーシャに向き直った。


「正式な約束は、これから金貸しのところで結ぶ。けど、その前に、きみと俺だけの覚書を、ここで作っておきたいんだ」


「……覚書」


「金を借りる前に、きみと俺のあいだで、先に決めておきたくてね。金貸しに対しては、俺は『保証人』になる。でも、きみに対しては、『一緒に事業をやる相手』だ。立場が違うから、約束も別に要る」


 リーシャはうなずいた。やっぱり意味は半分も分からない。それでも、いやな感じはしなかった。


 桐生は、紙の裏にゆっくりと何か書いた。それから、その細い棒をリーシャに差し出した。


「書くのは、これだけ。きみは、諦めない。俺は、きみを最後まで信じる。それだけだ」


「……それだけ?」


「ああ。約束は、紙じゃなくて、信頼で成り立つ。これは前にいた国で、俺がいちばん大事にしてたことなんだ」


 リーシャは、その言葉を頭の中で繰り返した。


 これまで、誰も自分を信じてはくれなかった。今、初めて会ったこの人が、自分を信じている。


「字は、書ける?」


「……読めます。書くのは、自分の名前、だけ」


「十分だ。ここに」


 震える手で、棒を受け取った。桐生がうなずいてくれる。リーシャは、紙の下のほうに、ゆっくりと自分の名前を書いた。


 リーシャ。


 世界で初めて、自分が書いた、誰かと結ぶ約束のしるしだった。



 ◇



 桐生は、その紙を丁寧にたたんで、内ポケットにしまった。


「さあ、行こう」


「……どこへ」


「金貸しのところ。きみの、ちゃんとした人生を、始めに行く」


 リーシャは、革袋を抱え直した。それから、ゆっくりと立ち上がった。


 2年ぶりに、自分の意志で、ベンチから立ち上がっていた。


 座面の木が、軽く軋んだ。革袋の中で、聖薬草が小さく震えた。


 ——『行こう、リーシャ』


 ——うん。


 桐生の背中に、目をやる。スーツの肩に、葉っぱが一枚ついたままだった。森で見かけた男たちの、誰の服にも、こんな葉はついていなかった。この人はどこか遠くからここへ来たのかもしれない。


 リーシャは、手を伸ばして、その葉をそっと取った。


 桐生が振り返った。少し驚いた顔をして、それから笑った。


「ありがとう」


「……いえ」


 リーシャも、小さく笑った。


 2年ぶりに、自分が笑ったことに、彼女自身が、いちばん驚いていた。


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