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第1話 誰も買わない株

「桐生、本当に申し訳ないと思っているんだが……」


 支店長の声には、まだ営業マンらしい温度が残っていた。先月の希望退職募集に俺が応じなかったのを、この人は知っている。


「最後まで悩んだ。きみはコンプライアンス違反もゼロ、クライアントクレームもゼロだ。本来なら手放したくない人材と言うべきなんだろうが」


「ありがとうございます」


 そう返すと、支店長は少し困ったように眉を寄せた。


「でもな、桐生。会社は数字なんだよ。今期のノルマ達成率、36パーセント。10年連続で5割を切ったのは、この支店の歴史できみひとりだよ」


 茶色い封筒が、机の上を滑ってきた。


「解雇予告通知書だ。30日前予告。形式としては、適法な手続きを踏んでいる」


「……承知しました」


「『承知しました』って。桐生、お前、自分の人生のことだぞ。もう少し、こう、何か」


「支店長」


 俺はいつもより少しだけ強い声を出した。人の言葉を遮るのは好きじゃない。それでも、今は言っておかなければならないことがあった。


「私の顧客に、田中ハルさんという方がいます。来月で74になります。来週、お孫さんの七五三があるんです。お祝いを持っていくと約束していまして」


 支店長は黙った。


「私が辞めたあと、田中さんの担当はどなたに」


「……鈴木に、引き継がせるつもりだ」


「鈴木さんは短期売買の手数料で稼ぐ人ですが、相場感は甘いです。田中さんの4,070万円は、2年で半分になります」


 脅しでも当てこすりでもなかった。ただ俺の見立てとして、ほぼ確実にそうなるというだけの話だった。


「桐生……」


「田中さんへ、ご挨拶に伺います。私の判断で。業務時間外に」


 支店長は長いあいだ、俺の顔を見ていた。それからため息のような笑いを漏らした。


「お前、本当に営業に向いてないな」


 知っている。10年、毎年言われてきた。



 ◇



 非常階段を上るあいだ、自分の靴音だけが響いていた。


 ノルマ最下位、10年連続。それでも田中さんの4,070万円は、俺が10年かけて10倍にした金額だ。短期で乗り換えさせれば手数料は稼げた。やらなかった。やれなかった、と言うべきかもしれない。客に損をさせる売り込みは、どうしても口から出てこない性分だった。


 だから、最下位。


 屋上のドアを押すと、夜の風が吹きつけてきた。雨はあがったばかりで、足元のタイルは濡れて光っていた。


 柵まで歩いて、東の空を見上げる。


「俺、何を目指してたんだろうな」


 声に出してみた。答える人間は、どこにもいなかった。


 もう一歩、柵に近づこうとした。壊れかけた柵と足もとに水、それだけだった。


 身体が、宙にあった。


「田中さん、ごめんなさい」


 気づけば、口に出していた。


「来月、ちゃんとご挨拶に行こうと思ってたのに」


 意識が遠のく寸前、俺は強く願った。


 ——来世があるなら。今度こそ、誰かを守りたい。



 ◇



「——おい。生きてるか」


 声で、目が覚めた。


 しゃがんで俺の顔を覗き込んでいるのは、髭面の中年の男。革の鎧を着て、腰に剣を下げている。芝居の小道具にしては、よくできすぎている。


「お、目を開けたぞ。死体だったら、衛兵を呼ばなきゃならんところだった」


 身を起こすと、スーツの肩から葉っぱと泥が落ちた。内ポケットを探る。顧客リストと、解雇予告通知書。間違いなく俺のスーツだ。


 そして、男の腰の剣は本物で、その耳の先はわずかに尖っていた。


「失礼ですが、ここは」


「ベルクハイムの森だ。ヴァルダリア王国の、北東辺境。あんた、その服はなんだ。見たことがないぞ」


 頭の整理は追いつかない。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。俺はいま身ひとつで、見知らぬ場所に放り出された。武器も金もない。あるのは、このスーツと、頭の中身と、目の前の男だけだ。


「桐生隼人と言います。助けていただいて、ありがとうございます。あの、お名前を伺っても?」


「ガロウだ。傭兵をやってる。立てるか? 立てるなら、ギルドまで来てくれ。危ないやつじゃなさそうだが、身元の知れんやつを森に置いてはいけん」


 立ち上がると、膝が少し震えた。それでも、歩いた。



 ◇



 歩きながら、ガロウに聞いてみた。


「ガロウさん。この国に、商人が何人かで金を出し合って、その儲けを分け合う仕組みはあったりしますか」


「は? あんた、頭でも打ったのか」


 ガロウは本気で呆れた顔をした。


「商人が、他人と儲けを分け合うわけがないだろう。あいつらは、銅貨1枚を兄弟に貸すのも嫌がる連中だぞ」


 俺は少しだけ笑った。


 ——共同で出資する、という発想すらない。フロンティアどころか、まるごと未開拓かもしれない。


「私は前にいた国で、商人をしていました。だから、この国でも同じ仕事ができそうか、知っておきたかったんです」


「商人なら、ベルクハイムに商業ギルドがある。だが、よそ者には冷たいぞ。覚えておけ」


「ありがとうございます」


 頭の中で、自分の手札を並べてみる。スーツ。名刺入れ。解雇予告通知書。ボールペン。日本語で書かれた顧客リスト。この世界では、どれも一文の価値もない。


 価値があるのは、頭の中身だけだ。それなら、いつものことだった。



 ◇



 ギルドの扉は、思ったより重かった。押し開けると、ざわめきと、麦の酒の匂いが流れ出してきた。


「おお……これが、ギルドですか。想像より広いんですね。壁に貼ってあるのは、依頼書ですか」


「そうだ。報酬のいいのから、すぐ剥がされる」


 依頼書の壁、酒をあおる傭兵たち、受付に並ぶ客。ひととおり眺めて——俺の視線は、入口脇のベンチで止まった。


 少女が、ひとり座っていた。亜麻色の髪をぼさぼさのまま結んでいる。服はあちこちが擦り切れている。膝の上に、革袋を抱えるように載せている。


 目を引いたのは、身なりじゃない。その子がもう何時間もそこに座っているのが、ひと目で分かることだった。誰も声をかけない。誰も、そちらを見ない。


 見覚えのある光景だった。前世で、俺が毎朝すれ違っていたやつだ。誰の目にも留まらない。値札のついていない何か。市場がまだ気づいていない優良株だったりしないだろうか。


「ガロウさん。あの子は」


「あれか。あれは、見るな」


 ガロウは面倒くさそうに頭をかいた。


「リーシャだ。17になる。2年前のスキル判定でハズレを引いてから、毎日あそこに座ってる。誰も、組には入れん」


「ハズレ。なんのスキルですか」


「『植物の声が聞こえる』だとさ。戦いでも探索でも、何の役にも立たん」


 植物の、声。


 俺はもう一度、ベンチの少女を見た。植物の声が聞こえる。それが本当なら、薬草の良し悪し、毒の有無、生えている場所の見当——少なくとも採集には、まるごと使えるはずだ。


「ガロウさん。このギルドに、薬草採集の依頼はないのですか」


「ある。だが、あんたはよそ者だったな。この辺りは、採集人組合が薬草の流通をぜんぶ握ってる。組合員じゃなきゃ、薬草を採っても、薬師ギルドが買い取らん」


 ——組合。


「組合員になるには」


「金貨50枚の入会金と、組合員2人からの推薦状。事実上の世襲だ。孤児には、まず無理だな」


「組合員以外が採った薬草は、どうなるんですか」


「組合員にこっそり売るしかない。市場の1割で買い叩かれる。しかも、品質に関わらず一律買取だ」


 新規参入の壁。価格の固定。品質の無視。そして、組合員だけの特権。


 頭の中で、数式が組み上がっていく。歪んだ市場ほど、儲けの幅は大きい。前世で、嫌というほど見てきた。


「ガロウさん。この街で、金を貸している人はいますか」


「は? なんで、そんなことを」


「教えていただけませんか」


 ガロウはしばらく俺を見てから、肩をすくめた。


「……ザイラス、ってのがいる。商人で、金貸しもやってる。だが、やめておけ。血も涙もない男だ。担保がなけりゃ、銅貨1枚だって貸さん」


「ありがとうございます。覚えておきます」


 担保のない相手に、金を出させる。それなら、前世の知識を生かせるかもしれない。



 ◇



 ベンチの少女は、相変わらず誰にも見られていなかった。膝の革袋を、まるで壊れ物みたいに抱えていた。


「ガロウさん。これから少しだけ、私の話に付き合っていただけませんか」


「話? なんの」


「あの子と話してみたいんです。一緒に来てくれませんか?」


「あんた、今日来たばかりのよそ者が、何を」


「金は、私が出すんじゃありません。さっきのザイラスという人に」


「は? 話がまるっきり読めん、お前まさかリーシャを組合員に——」


「貸させる方法は、何かしらあります」


 俺はベンチに向かって、一歩踏み出した。


 ——10年間、最下位だった俺だが、価値あるものを見定める目には自信がある。


 三歩進んで、立ち止まり、振り返らずに言った。


「ガロウさん。あなたにとってもいい話になるかもしれませんよ」


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