第16話 ハンナ
宿場から戻って数日後、俺はハンナに、一枚の紙を差し出した。
覚書だ。リーシャと交わしたのと、同じ形のもの。売り上げの取り分、運び賃、互いの役割。誓約紙ではない。魔法の縛りも、命の徴もない、ただの紙だ。
ハンナは、それを長いこと見ていた。それから、低い声で言った。
「……これだけかい」
「これだけ」
「魔法の契約じゃ、ないんだね」
「違う。ただの覚書だ。破っても、罰はない」
ハンナの口元が、皮肉っぽく歪んだ。
「だったら、何の意味があるのさ。前の男も、口約束だけは立派だった。紙の一枚もなかったけどね。——あんたが明日、あたしの覚えた客を横から全部かっさらっても、この紙じゃ、何も止められやしないよ」
「止められないよ。きみの言う通りだ」
俺が、あっさり認めると、ハンナは虚を突かれた顔をした。
「紙では、止められない。でもね、ハンナ。俺には、最初から、きみを裏切れない理由があるんだ」
「……理由?」
「客は、きみの頭の中にいる。どこの誰が、何を、いくらで欲しがってるか。それを知ってるのは、きみだけだ。俺がきみを切れば、その地図ごと消える。——前の男は、きみの覚えた客を、自分の帳面に書き写したかもしれない。俺はそんなことはしない。きみの頭の中を書き写してもそれは本来の価値じゃない」
ハンナの、皮肉な笑みが止まった。
「きみから客を奪うことは契約でそう決めればできるのかもしれない。けれど、きみが作った関係までは奪えない。縛らなくたって、俺はきみを手放したくない」
それでも、ハンナの目には、まだ消えきらない影があった。一度信じて剥がされた者の、当然の用心だ。言葉だけでは、足りない。
俺は、少し迷ってから、左の袖をまくった。
そこには、何もなかった。だが、その腕を、彼女に見せた。
「この腕に、今は何もない。でも、もし俺が、リーシャの借りた金を返せなかったら——ここに、黒い徴が出る。広がって、ひと月で、俺は死ぬ」
ハンナが、息を呑んだ。誓約紙の徴が何か、この世界の者なら、誰でも知っている。
「俺はもう、命を一枚、賭けてあるんだ。この商売がうまくいかなけりゃ、俺が死ぬ。——そういう男が、きみの覚えた客を、はした金で盗むと思うか。きみが稼いでくれなけりゃ、困るどころか、俺は本当に死ぬんだよ」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
やがて、ハンナが、ふっと力の抜けた声で笑った。
「……まいったね。あんた、とんでもない男だね」
それから、すっと、商売人の目つきに戻った。
「でも、その前に。取り分の話を、ちゃんとさせとくれ。あんた、あたしが宿場で稼いだ儲けから、どれだけ抜くつもりだい」
「三割」と俺は言った。「仕入れの薬草の代を、まずリーシャへ払う。その残りの儲けの、三割を俺がもらう。あとの七割は、ぜんぶ、きみのものだ」
ハンナの眉が、片方だけ上がった。
「……三割? あたしに、残りの七割くれるって?」
「運んで、売るのは、きみだ。いちばん汗をかく者が、いちばん取る。当たり前だろう」
「変わってるねえ、ほんとに」
ハンナは半分あきれた顔で、それでも、目だけは笑っていなかった。鋭く、数えていた。
「いいよ。けど、半年で見直しだ。あたしが宿場を三つに増やしたら、運び賃も取り分も、考え直してもらうからね」
「望むところだ」
口の減らない女だったが、良い勘をしている。もしかしたらハンナは単独で走り回るだけでなくて先を見据えているのかもしれない。俺の商売を街の外へ広げるにはまさに望むところだった。
ハンナは、俺の差し出したボールペンを受け取り、たどたどしい手つきで、自分の名を書いた。ハンナ、と。それだけの字が、やけに大きく、紙の真ん中に並んだ。
「あたし、生まれてこのかた、自分の名前を紙に書いたことなんて、なかったよ。証文も、覚書も、ぜんぶ雇い主のもの。あたしは、ただの、貸し物の手だった」
俺は、その大きな字を見た。歪んで、不格好で、それでも確かに、彼女のものだった。
「いい名前だ」と俺は言った。「これからは、その名前で商いをする。誰の店先の隅でもない。きみの名前で」
ハンナは、何か言いかけて、やめた。代わりに、洟を一度すすった。
その様子を、リーシャが、少し離れて見ていた。ハンナが筆を置くと、おずおずと近づいてきて、小さな声で言う。
「……ハンナさん。よろしく、お願いします」
ハンナは、ぱっと顔を上げて笑った。
「こちらこそだよ、リーシャちゃん。あんたの採った宝を、ちゃんと値のつく場所まで、あたしが運んでやる。——もう、銅貨三十枚なんかで、投げ売りさせないからね」
リーシャの目が、見開かれた。それは、ガレオが推薦状に署名したときと、同じ言葉だった。守る者が、また一人、増えた。
◇
その夜、俺はギルドの隅で、頭を抱えていた。
「おい、大将。羽振りがいいって聞いたが、なんでそんな、辛気くさい顔してる」
いつのまにか、ガロウが酒杯を片手に立っていた。
「羽振りが、よすぎるんですよ」
俺は、書きつけだらけの紙を見せた。
「採る人が増えた。運ぶ人もできた。売り先も増えた。——そのぜんぶの、誰が、いつ、いくら、を、俺の頭一つじゃ、覚えていられなくなった」
ガロウは紙を覗き込んで、肩をすくめた。
「読めねえ字だな。そりゃ、お前さんの国の字か」
「ええ。だから、誰にも肩代わりを頼めない」
それが、いちばんの厄介だった。俺の頭の中の帳面は、故郷の字でできている。リーシャにも、ハンナにも、読めない。俺が倒れれば、商売はその日に止まる。
——記録は、一人の頭の中にあるうちは、ただの記憶だ。誰かと分け合える形にして、初めて、仕組みになる。
紙に書きつけても、書きつけても、追いつかない。管が太くなれば、そこを流れる金と品の数も増える。それを誰かが正しく数え、記し、見張らなければ、いつか必ず、どこかで綻びる。マルコの籠と、同じことだ。
げんに、つい先日も、マルコへの払いを、ペトルのぶんと取り違えかけた。リーシャが横から気づかなければ、芽生えたばかりの信用に、自分の手でひびを入れるところだった。
——次に要るのは、採る人でも、運ぶ人でもない。
数える人だ。
ハンナは、人を覚える。けれど、銭の出入りを帳面に起こして、日ごとに合わせていくのは、また別の才だ。リーシャの目でも、ハンナの頭でもない、三人目の何かが、要る。
俺は、書きつけだらけの紙を見つめて、小さく息を吐いた。市場のどこかに、また一人、誰も値をつけていない誰かが、座っているはずだった。




