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第13話 掘り出し物

 次の日も、俺は市に向かった。ハンナという女を、遠くから眺めるためだった。


 たいそうな話ではない。買うと決める前に、相手の商いを一日見ておく。前世からの癖だった。帳簿の数字は化粧をするが、働きぶりは嘘をつかない。


 女は、よく働いた。干物屋の店先を借りているだけで、自分の品は一つも持たない。それでも客は、次から次へと女のところへ寄ってくる。野菜売りの老人に代わって値を告げ、隣の肉屋が釣り銭に詰まれば、横から正しい額を言ってのける。


 そして、誰の名も、一度として間違えなかった。


「マーサさん」「ジェフの奥さん」「東通りのコルさん」——呼ばれたほうは、決まって嬉しそうな顔をした。覚えていてもらえる、というだけで、人は少し機嫌がよくなるものらしい。


 昼を過ぎた頃、旅装の男が一人、女の前で足を止めた。


「あんた、覚えてるか。三年前、一度きり、ここで干し肉を買った——」


「左の頬に傷のある、お客さんだろ。連れの坊やに、塩を一掴みおまけしたね。あの子、元気かい」


 男は、しばらく口を開けたままだった。それから、声を上げて笑いだした。覚えられていた、というだけのことが、よほど嬉しかったらしい。頼まれもしない干し肉を二束買って、上機嫌で帰っていった。


 ——あれは、ただの物覚えじゃない。客を、もう一度ここへ戻ってこさせる力だ。


 威勢のいい女房が、値が高いと食ってかかったときも、女は笑って受け流した。


「奥さん、先週のあのお高い干物、旦那さん、ぺろりだったろ。安いのを三度買うより、いいのを一度さ。——ね、今日のは特別に、一掴みおまけしとくよ」


 女房は、ぶつぶつ言いながらも、結局、いちばんいい干物を買って帰った。売りつけられたのに、損した顔をしていない。むしろ、得をした気でいる。


 ——売る、というのは、本来こういうことだ。俺には、逆立ちしてもできない芸当だった。


 そして、もうひとつ、妙なことに気づいた。女の足もとの籠に積まれた野菜は、西日が傾いても、しゃきりと張っていた。隣の店の同じ野菜が、昼の日差しでとうにくたびれているのに。


 これだけ客を呼び、品を保つ女が、しかし、ずっと人の店先の隅にいた。


 店じまいのとき、干物屋の主が、女に銅貨を数枚握らせるのが見えた。女は文句も言わず、それを受け取った。今日いちにち、この店に客を呼んだのは、どう見ても、あの品ではなく、あの女のほうだったのに。


 ——市場が、値をつけ間違えている。


 この女のひと月の駄賃は、たぶん銀貨にもならない。だが、客を呼び戻す力と、品を腐らせない手と、その二つを正しい場所に置けば、桁が変わる。前世で、何度も見た構図だった。誰の目にも留まらない銘柄に、本当の値打ちが、札もつけられずに埋もれている。


 リーシャのときと、同じ匂いがした。


 頃合いを見て、俺は近づいた。


「精が出ますね」


 声をかけると、女はくるりと振り向いた。明るくて、値踏みするような目だった。


「見ない顔だね、お客さん。何が欲しいの? 干物なら右から二番目、今日のはいいよ」


「いえ、買い物ではないんです」


 女の声が、半分ほど温度を落とした。


「買わないなら、悪いけどさ。立ち話してる暇は、ないんだ」


「ひとつだけ。あなたは、この市の人の名前を、どれくらい覚えているんですか」


 女は、きょとんとした。それから肩をすくめて笑った。


「全部だよ。顔を見りゃ、名前も、家族も、前に何を買ったかも、勝手に出てくる。——だから何だい? そんなの、銭にもならない、ただの物覚えさ」


 ただの物覚え。


 頭の奥で、また、あの数式が動き始めていた。


「あなたのお店は、どこに」


 その一言で、女の笑みが、すっと薄くなった。


「あたしの、店?」


 女は、自分の借りている軒先を、顎でしゃくった。


「ここは、借りてるだけ。あたしの店じゃない。——知らないのかい。商業ギルドが、あたしみたいな女に、店なんか出させるわけがないよ」


 握った銅貨を、女は軽く振ってみせた。


「一度だけ、ギルドの戸を叩いてみたことはある。入会金を聞いて、目玉が飛び出たよ。そのうえ、推薦人がどうの、後ろ盾がどうのとさ。銭もない、身寄りもない、平民の女だ。——せいぜい人の店先を借りて、口上を手伝って、駄賃をもらう。それが、あたしの分相応さ」


 言い方は、軽かった。軽すぎるくらいに。何度も自分へ言い聞かせて、角を丸めてきた言葉の手触りがした。


 入会金に、推薦人に、後ろ盾。——どこかで聞いた壁だった。リーシャを二年、ベンチに縛りつけていたのと、同じ造りの壁だ。


 足りないのは、力じゃない。器のほうが、小さく区切られている。


「もうひとつ、伺っても」


「しつこいねえ」


 女は笑ったが、いやな感じもせず、追い払いもしなかった。


「あなたの手元の品は、傷みが遅いと聞きました。本当ですか」


 女は、軒先の干物を一枚つまんで、ひらひらと振った。


「ああ、これかい。あたしのそばに置いとくと、なぜか長持ちするんだよ。野菜も、果物もね。——けど、それも、しょうもない取り柄さ。戦えるわけでも、何かを作れるわけでもない。成人の儀で、お役人にもそう言われた。『物持ち』ってね。外れだよ」


 しょうもない取り柄。物持ち。外れ。


 この女は、自分の値打ちに、ずいぶん安い札を貼って生きてきた。貼ったのは、この女じゃない。市場のほうだ。


「俺は——」


 気づいたら、「私」が外れていた。慌てて、言い直す。


「私は、その二つを、しょうもないとは思わない」


 女が、まばたきをした。


「腐らない。人を覚えている。——その二つが揃った人を、私はずっと探していたんです」


「……何だい、あんた」


 女の声から、商売用の明るさが、すっと引いた。


「うまいこと言って、結局、あたしを安く使いたいだけだろ。そういう男なら、掃いて捨てるほど見てきたよ」


 もっともだった。世間話もお世辞も、俺は下手だ。だから、嘘も言えない。


「安くは使いません。あなたの取り柄は、この街の中じゃなく、街と街のあいだで、いちばん高く値がつくんです。——その値を、あなた自身のものにする方法を、私は知っています」


 女は、長いこと俺を見ていた。明るくも、冷たくもない、初めて見る目だった。


「……話だけ、聞いてやってもいいよ」


 それから、いつもの調子に戻って、付け足した。


「ただし、干物を一枚、買ってからね」


 俺は笑って、右から二番目の一枚を買った。今日のは、確かに、いい品だった。


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