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第12話 のれん

「ミレナの診療所が認めた薬草」という言葉は、薬草よりも速く、街の外へ歩いていった。


 効くと評判の診療所には、ベルクハイムの外からも病人が運ばれてくるようになった。隣の村から、二日がかりで荷車を引いてくる家族もいた。ミレナの目の下の隈は相変わらず消えない。それでも、選り分けて捨てる薬草は減り、間に合わない命も、前より減ったという。


 ある昼下がり、診療所の前で、見慣れない身なりの男に呼び止められた。


「あんたが、例の口利きか」


 東の宿場町から来た薬師だと、男は名乗った。


「うちの町でも、その『診療所が認めた薬草』とやらを回してもらえないか。値は張っても構わん。うちの患者にも、効く一本が要るんだ」


 ——町の境を、信用が越えた。


 頭の奥が、静かに熱くなった。一人の娘の薬草から始まった細い管が、いつのまにか、隣の町から手を伸ばされる太さになっている。


「お話は、伺いますよ。ただし、こちらにも守っていただく決まりがあります」


 俺はそう答え、男と次に会う日を決めた。安請け合いはしない。質を保てるだけの量しか、まだ採れないからだ。それでも、欲しがる相手のほうから歩いてくる。これが、のれんというものの値打ちだった。


 前世なら、当たり前にあった。看板。銘柄。保証書。その一つひとつが、品そのものとは別に、値を持つ。ミレナの名と、リーシャの腕が重なってできた小さな看板が、いま、銀貨を呼んでいる。



 ◇



 帰り際だった。診療所の寝台で、熱に浮かされた老人が、誰にともなく呟いていた。


「……西の海の、向こうにはな。神さまに祝福された国が、あるそうだ。飢える者も、病む者も、一人もいない。スキルの外れも、ない。……みんな、選ばれてる」


 付き添いの女が、困ったように笑った。


「すみません。熱が出ると、いつもこの調子で。爺さんの、寝物語です」


「いえ」


 俺は軽く首を振った。聞き流すべき、年寄りの繰り言だ。そう思いながら、なぜか胸の隅に小さな棘が刺さった。


 ——飢える者も、外れもいない国。そんな場所があるとして、そこでは、誰が、誰の値を決めているのだろう。


 その問いは、すぐに目の前の忙しさへ押し流された。



 ◇



 ザイラスへの返済は、月ごとに進んでいた。誓約紙に紐づいた俺の命は、少しずつ安全な岸へ寄っている。


 その月のぶんを届けに、ザイラスの店へ寄った。ザイラスは銀貨を数え、帳簿に印をつけながら、ちらりと俺を見た。


「ひと月で、また増えたな。娘一人の薬草で、この額か」


「私一人の力ではありませんよ」


「分かっている」


 ザイラスは乾いた声で言った。


「お前は、人に銭を稼がせるのがうまいようだ。自分の手は汚さずにな。前にいた国の、商いの理屈とやらか」


 落ちくぼんだ目が、値踏みするように俺を見ていた。この男は、俺の事業がどこまで伸びるかを、もう勘定に入れ始めている。いつか貸す側ではなく、組む側に回るかもしれない。そう思わせる目だった。


「また来ますね」


「ペンを、無くすなよ」


 ザイラスはそれだけ言って、帳簿に目を戻した。



 ◇



 隣町の話を進めるうちに、すぐに壁にぶつかった。


 聖薬草は、足が早い。採ってから数日で声が枯れ、効きが落ちる。リーシャがそう言った。ベルクハイムの中で売るぶんにはいい。だが、二日かけて荷車を引く隣町まで運べば、着く頃には半分が傷んでいる。


 ——遠くに市場があっても、品が腐れば、届かない。


 それに、俺の足は一つきりだ。隣町に、その先の宿場に、誰がどれだけ欲しがっているのか。誰を信用していいのか。一人では、とても回りきれない。


「運ぶ手と、売る相手を覚えている誰かが、要るな」


 口に出してみて、自分で頷いた。次に探すべき歪みの形が、はっきりした。


 それは、市の立つ広場の、ど真ん中で見つかった。


 野菜や干物が並ぶ喧騒の中で、一人の女が、やけに多くの人から名を呼ばれていた。


「ハンナ、こないだは助かったよ」「ハンナ、あの行商、いつ戻るか知らないかい」


 女は、その一人ひとりに、よどみなく返していた。どこの誰で、前に何を買って、家族に誰がいるか——まるで頭の中に、街じゅうの名簿が入っているように。


 現に、通りかかった老婆にも、女のほうから声をかけた。


「マーサさん、お孫さんの咳は治った? 干し葡萄がまだ残っているなら、早めに食べさせてあげて」


 老婆は嬉しそうに何か返し、女は笑って頷く。客の家族の咳の具合まで覚えている物売りなど、前世でも、そうはいなかった。


 なのに女自身の身なりは粗末で、自分の店すら持っていない。人の店先で、安く使われているらしかった。


「物持ちのハンナだろ」


 隣の物売りが、俺の視線に気づいて言った。


「人の顔を覚えるのだけは達者でな。あと、あの女の近くにある野菜は、なぜか長持ちする。だが、それだけだ。スキルとも呼べん、しょうもない取り柄さ」


 しょうもない取り柄。長持ちする。人を、覚えている。


 俺の足は、もう止まっていた。胸の奥で、あの数式が組み上がっていく。腐らなければ、遠くへ運べる。誰が何を欲しがっているか覚えていれば、売る相手を間違えない。——それは、俺がいちばん欲しかった手だ。


 二人目の優良株は、市のど真ん中で、誰からも名を呼ばれながら、誰にも値をつけられずにいた。


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