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できることから

 

 レンが食事をおかわりするようになって、約一ヶ月が経った。


 変化は、思ったより早く出た。熱を出す回数が減ったし、お腹を壊しても、以前より早く回復する。二、三日寝込んでいたのが、半日で起き上がれるようになった日もある。


「やっぱり食事だったんだねえ」バル婆はあっさり言った。母さんは次に帰ってきたとき、レンの顔色を見て目を細めた。父さんは無口な人だけど、レンの茶碗が空になるのを見て、静かに頷いていた。全員の反応が地味だったけど、それがこの家らしい。


 食事の次は、掃除だった。床を掃く頻度を上げた。布巾を使い分けるようにした。米のとぎ汁で鍋を拭くと、思ったより汚れが落ちることを発見した。バル婆は最初「手間が増える」と渋い顔をしていたけど、一週間もすれば黙って同じようにやっていた。


 衣食住、できるところから。そう思いながら日々を過ごして——気づいてしまった。見て見ぬふりをしていた、あの場所に。


 そう、トイレだ。この世界にトイレ、という概念はあるけど、そのものは存在しない。近いものとして畑の肥やしや豚の餌にする残りもののごはんや排泄物を集める糞小屋、というのがある。扉もなく、匂いはものすごい。


 転生前の記憶を取り戻すまでは平気だったのに、今は三歩手前で限界だった。糞小屋以外で用を足す場合は家の敷地の隅に小さな囲いがあってそこでする。匂いに関しては糞小屋よりは若干まし程度だ。

 最初にしたのは灰をまいて消臭。草を束ねて囲いの隙間の目隠しにして、足元を土で整えた。しないよりましだ。ヨモギに似た葉を束ねて、囲いの隅に置いてみる。独特の青い香りが、少しだけ場を和らげた....気がする。


「……テン、何してるの」振り向くと、シウが目を丸くして立っていた。「掃除」「なんで」「汚いから」「……そういうもんじゃないの?」「そういうもんじゃないほうがいいでしょ?」シウはしばらくわたしと小屋を交互に見ていたけど、「手伝う」と言って草を拾い始めた。理由も聞かずに。


 二人で作業しながら、頭の片隅でずっと考えていた。水洗トイレ。今欲しいのは水洗トイレだ。構造は頭では分かる。でも管も下水道も材料も何もない。知識があっても、一人の十二歳にできることには限界がある。


 夕方、作業を終えて家に戻る。手を念入りに洗って、鍋を火にかけて、夕飯の準備をする。普通の一日だった。そう思った、その瞬間だった。腹の奥が、じわりと疼いた


「……っ」思わず手が止まる。鍋の縁を掴む。深呼吸する。痛みは、すぐに引いた。一瞬だけ、波みたいに来て、消えた。


 ——気のせい、かもしれない。そう思う。思うけど、手が鍋の縁を掴んだまま離せない。一ヶ月、忘れていた。忘れられるくらい、何もなかった。だから——「姉さん、どうしたの」レンの声がする。

 手を離す。鍋をかき混ぜる。いつも通りの動作を、ひとつずつ確かめるようにやる。「おかゆ、今から作るね」答えながら、腹に意識を向ける。今は、痛くない。


 ——だから大丈夫、とは思えない。

 しばらくはな。

 薬師様のあの言葉が、また頭に戻ってくる。一ヶ月経った。しばらく、というのがどのくらいを指すのか、この世界の基準が分からない。記録しておきたい。いつ来たか。どのくらい続いたか。何をしていたとき来たか。そういうことを積み重ねれば、パターンが見えるかもしれない。

 でも——


「....ン........テン!」バル婆に急に話しかけられた。「また夢のこと考えてたのかい?」「……少し」「料理してるときはそれだけに集中しな」バル婆は何も聞かずに、私にかわって鍋をかき混ぜはじめたた。この人はいつもそうだ。聞かなくていいことは聞かない。


 鍋の中身が煮えてくる。今日は柔らかい葉野菜を多めにしたおかゆだ。一ヶ月続けてきた、小さな積み重ね。

 できることから、やるしかない。それだけは変わらない。

 でも——わたし自身のことは、後回しのままだ。



 また数日が過ぎた。腹の違和感をなかったものにするみたいに、次々できることを考えた。

 洗濯は三ヶ月に一度。川で手揉みするだけだった。米のとぎ汁と草の汁を混ぜた洗浄液を作ってみることにした。衣料用洗剤には程遠いけど、ただの水よりは汚れが浮く。レンが「米のとぎ汁すごい」と目を丸くしていたけど洗濯するために毎回隣家を回って米のとぎ汁をもらうのは現実的ではないことにすぐに気づいた。


 洗髪はバル婆に聞いたら、大事な時はモーカンの実を煮出したものを昔から使っていると教えてくれた。手間がかかるから普段は水だけ、ということらしい。「わたしがやる」と言ったら、「まあ、やってみな」とあっさり任された。シウを誘って森に実を取りに行って、半日かけて煮出した。髪が、久しぶりに軽くなった気がした。


 何をするにも、手間と時間がかかる。当たり前のことなのに、やってみて初めて分かった。

 衣食住を少しずつ整えながら一ヶ月と少しが過ぎて——また、腹痛のことをすっかり忘れていた。


 その日の午後、シウと森に入った。


 モーカンの実が残っているか確かめに来たついでに、使えそうな薬草を探している。前の世界の記憶と照らし合わせながら、葉の形や匂いを確かめる。

「テン、これは?」シウが葉を差し出す。私は差し出された葉を揉んで鼻を近づける。


「匂いかいでみて」葉を揉んでシウの鼻に近づける。「……草っぽい」「私はいい匂いのする葉を探してるって言ったよね?」「最近はそればっかりだね」シウが呆れた顔をする。


 木漏れ日が揺れる。もう本格的な夏なのだ。前の世界ではこんなに自然豊富な場所に住んでたわけでもなかったし。大人になってからは病院の廊下しか歩いていなかった。こういう場所を知らなかった。


 帰り道、おしゃべりしながら歩いていたとき、腹の奥がじんわりと疼いた。

 ——また、来た。

 立ち止まって、深呼吸する。一回目。二回目。三回目。引かない。この間は一瞬で消えた。でも今日は、じわじわと続いている。波みたいに来て、引いて、でも完全には消えない。


 おしゃべりが急に止まったことに、シウが気づいて振り返る。「テン、どうしたの」「……少し、疲れちゃった」「休む?」「うん、ありがとう」木の根元に座る。


 シウが隣に座る。何も聞かない。ただ、いてくれる。


 痛みの波をやり過ごしながら、頭の中で記録する。昼過ぎ。森の中。歩いていたとき。どのくらい続くか——まだ分からない。

 五分くらい経って、ようやく引いた。「……もう大丈夫」立ち上がる。「じゃあ行こっか」シウが頷く。

 歩きながら、頭の中で並べる。一ヶ月前。数日前の夕方、そして、今日の昼過ぎ。前回より、長かった。


 夜、布団に入ってから、今日の腹の違和感を頭の中で繰り返した。

 いつ来たか。どのくらい続いたか。何をしていたとき来たか。——記録しておきたい。そう思った瞬間、体を起こしかけて、止まった。


 記録する。つまり、書く。

 ……わたし、字が書けない。

 当たり前のことなのに、今さら気づいた自分に少しだけ呆れる。前の世界では読み書きが当たり前だった。日記も、メモも、なんでも書いていたし。何なら書く動作が辛い時は音声メモなんてものもできた。でもここでは——この村で字をまともに読めるのは、私の知る限りレンだけだ。

 レンは家にこもりきりだから字を覚えた。わたしは外を走り回っていたから覚えなかった。それだけの話。困ったことも、十二年間ほとんどなかった。村の人間も同じ理由から文字を多くしらないんだと思う。


 ——でも、今困っている。


 暗闇の中で天井を見上げる。記録できなければ、忘れるし、パターンが分からない。パターンが分からなければ、霊門のことが分からないまま無為に時間を過ごすことにつながる気がする。「……レンに、教えてもらうか」


 隣でレンが寝息を立てている。この子は字が読める。書けるかどうかは知らないけど、読めるなら書けるかもしれない。でも——急に字を習いたいってレンに話す?

 レンには、腹痛がまた来ることをバル婆に言わないように口止めしたまま、一ヶ月が経っている。もう忘れてるかもしれない。心配させたくなかった。だから黙っていた。でも、記録をつけるなら、理由を説明しないといけないかもしれない。

 そう思って、すぐに打ち消す。明日、考えよう。今日はもう遅い。


 目を閉じる。草の汁の青い匂いが、まだ手に残っている気がした。


 次の日の夜、寝る前の時間にレンに話すことにした。

「話があるの」「なに?」レンの目が、少し緊張する。


 バル婆は居間で縫物をしている。父さんと母さんはまた出稼ぎでまたいない。

「霊門のこと、覚えてる?」

 レンの目が、ぱっと変わる。「……薬師様が言ってたやつ?」「うん」


「姉さん、それ、まだ痛いの?」——さすがだ。すぐ気づく。「たまに、違和感があるの」正直に言う。「痛みってほどじゃないけど、前より少し長く続くようになってきてるんだよね」レンが黙って聞いている。「記録をつけておきたいんだけど——わたし、字が書けないから」

 レンが、少し間を置いた。「……ぼくに、書いてほしいってこと?」「うん。それと、字を教えてほしい」

 レンはしばらく黙ってから、大きな目でわたしを見た。「分かった」OKをもらった。「でも、バル婆にも話した方がいいと思う」

 ——そうだね。「うん、そうだね」素直に頷く。「明日、話すことにする」「一緒に話す?」「……うん、いてくれると助かる」


 レンが頷く。その顔が、妙に頼もしい。体は弱いくせに、こういうときだけ大人びて見える。

「レン」「なに?」「ありがとう」「……別に」レンは顔を逸らした。


 夜、レンが寝息を立てだしてから、最近のことを頭の中で並べた。

 灰をまいたトイレ。泡立つ草の汁。モーカンの実。シウの「草っぽい」。森の中でのお腹の違和感。レンの即答。


 知らないことは、まだ多い。霊門がなぜ腫れるのか。またいつ来るのか。パターンがあるのか。

 そして——薬師様は、なぜ処置をやめたのか。

 あの人は最初、わたしに何かをするつもりだった。道具まで出して、それをしまった。理由を聞けないまま、一ヶ月が経った。——聞きに行くべきか。


 答えは出ない。でも、このまま知らないままでいるのも、怖い。知らないままでいると、ただ待つしかないのが怖い。

 あの世界でも、そうだった。


 目を閉じる。明日、バル婆に話す。それが、今できること。


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