虚弱体質改善プログラム
朝、レンよりも先に起きた。今日はやることがあるのだ。
台所に立って、食材を確認する。昨日バル婆が棚の奥に追いやったシンズ。その隣に並ぶ、使い慣れた様々な香辛料たち。鍋に残った昨日のかゆ。——まず、匂いをかぐ。腐敗臭はしないし酸っぱいような発酵臭さもない。いたって普通の山菜がゆだ。これは私の朝ごはんにするとして、これから作るのはレンのご飯だ。虚弱体質改善プログラム、名前だけは現代日本っぽいが用意できるものは限られている。
レンに出すものだから、根菜は使わない。硬いものや繊維質が多いものは消化に悪い。刺激の強い香辛料も避ける。代わりに、柔らかい葉野菜と、少しだけ残っていた鶏の細切れの乾燥肉。そして塩だけで味をつける。シンプルだけど、それでいい。
おかゆが煮えてくる匂いが広がる。いい匂いにお腹が鳴る。レンのを作りながらつまんで、さらに昨日の残りのおかゆも食べた——そして三食分は昨日の食事で取り返したはずなのに、もう減っている。我ながら旺盛な食欲だと思う。
「……姉さん、何作ってるの」
気配がして振り向くと、レンが壁に寄りかかって立っていた。まだ目が半分閉じている。「特別なおかゆ」「昨日と匂いが違う」鼻が利くねえ。「入れるものを少し変えてみたの」「なんで」「食べてみれば分かるよ」レンはしばらくこちらを見ていたが、何も言わずに座った。
二人で向かい合って食べる。バル婆は朝早く日が高くなる前に畑に向かったはずだ。母さんはもう出稼ぎ先に戻った。朝はいつも静かだ。
「……美味しい」レンが、ぽつりと言った。「そう?」「うん。なんか、分からないけ食べやすい!」それは消化がいいから、と言いかけて、やめる。今は説明しなくていいか。「よかった」それだけ返す。
レンは黙って食べ続ける。その様子を、横目で観察する。
この子は、よく熱を出す。よくお腹を壊す。体が弱い、と一言で片付けられてきたけど——本当にそれだけなのかな。食事が原因の一部になっているなら、変えれば変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも、やってみなければ分からない。
——まず、知ることから始める。
レンの茶碗が空になった。「おかわり、する?」「……うん」即答だね。いつもは一杯でも残すこともあるのに。
それだけで、少し気持ちが上向いた。
午後、村の子どもたちに捕まった。
「テン!昨日どこいたの!」「テン、具合悪かったって本当?」「もう大丈夫なの?」一度に3人がしゃべる。慣れた騒がしさだ。「大丈夫、ちょっと腹が痛かっただけだから」「薬師様が来たって聞いたよ」「なんでもなかったみたいですぐ帰ったの」適当に流すと、すぐ次の話題に移った。子どもって切り替え早いね。
村の外れにある、浅い川のそばに座る。朝は洗濯かごを持ったおばさんたちのたまり場だ。水の音が涼しい。
向かいに座るシウは、真っ赤な髪を無造作に束ねている。日に焼けた肌に、薄い灰色の目。元の世界ではウィッグとカラーコンタクトでしか存在しないような色の組み合わせだけど、ここでは珍しくない。同じ12歳の女の子だ。隣のジウは栗色の髪に、少しだけ吊り上がったオレンジ色の目。どこの世界とも形容しがたい顔立ちだ。シウの弟でレンと同じ8歳。そして、浅い川に寝転がって薄く目を閉じてるのは1歳年上のロン。暗い緑に真っ黒の瞳、いつもおっとりしてる少年だ。小さい村だから子供も大人もそんなに多くないから多少年が違っても友達だ。
——そういえば、ここはそういう世界だった。
十二年間慣れていたはずなのに、前の世界の記憶が戻ってから、ときどき妙に新鮮に見える。同じ景色なのに、違う場所を見ているみたいな感覚。
「テン、また変な顔してる」ジウが言う。「変な顔?」「ぼーっとした顔」「してない」「してたよ」シウが加勢する。「……沈黙は金なり」認めよう。二人がなにそれと笑う。
川に足を入れる。冷たくて気持ちいい。夏の始まりだ。足の裏に小石が当たる。この感覚は、前の世界にはなかったな。病院の白い床をスリッパでしか踏んでいなかったから。
——贅沢だな。本当にそう思った。
「ねえ、レンは、どうしたの?」ジウが聞く。「熱」「また?」「また」「大変だね」ジウは特に深く考えずそう言って、川に小石を投げた。ぽちゃん、と音がする。大変だね。その一言が、少し引っかかった。
この村では、体が弱い子どもは「大変だね」で終わる。仕方ない、で終わる。大人になれば治る、で終わる。それが普通だ。十二年間、わたしもそう思っていた。
でも、本当にそうなのか。
食事を変えれば、変わるかもしれない。体を少しずつ動かせば、体力がつくかもしれない。なにが原因なのか分かれば、もっと具体的に手が打てるかもしれない。
でも——分からないことが、多すぎる。
「テン、また変な顔」今度はシウに言われた。「考え事してた」「何を?」「レンのこと」シウは少し黙ってから、「早く元気になるといいね」と言った。単純だけど、嫌いじゃない返し方だ。「うん、そうだね」川の水が、足の間を抜けていく。
夕方、レンが昼寝に入って、バル婆が畑から戻ってきたあとにそのまま隣家におしゃべりに出かけて、家の中が静かになった。
台所の片付けをしながら、ふと手が止まる。——霊門。薬師様の声が、耳の奥に戻ってくる。魔力を溜める器官。腫れている。放っておけば破裂する。今日は痛くない。昨日も痛くなかった。だから大丈夫、と思う。思うけど——
しばらくはな。
あの一言が、引っかかったまま取れない。しばらくは、ということは。しばらく経ったら——
「……考えすぎ」声に出して、無理やり考えを打ち消す。鍋を棚に戻す。手を動かす。でも、頭の端から消えない。
この世界で過去の記憶が戻ってまだ二日も経っていない。そうでなくとも他にも知らないことだらけだ。平民の私にどうして霊門があるのか、どんな臓器で、なぜ腫れたのか、またいつ腫れるのか——分かっていることは、何も分からないということだけだ
分からないことは、怖い。あの世界でも、そうだった。原因不明、と言われるたびに、じわじわと足元が崩れていく感覚だけがあった。知っていれば、まだ戦える。——まず、知ることから始めるしかない。それだけは、はっきりしている。
夜、布団に入ってから、今日一日を頭の中で並べた。レンのおかゆ。川の水の冷たさ。シウの赤い髪。バル婆が棚の奥に追いやったシンズ。全部、この世界のもの。前の世界にはなかったものだ。
——わたしは、ここにいる。当たり前のことだけど、また確かめたくなる。手の甲をつねる。痛い。藁の天井が見える。隣でレンが寝息を立てている。ここにいる。
知らないことは、多い。霊門のこと。この世界の医療のこと。レンの体のこと。何も分からないまま始まって、何も分からないまま今日が終わろうとしている。
でも——今日、レンがおかゆをおかわりした。それだけで、十分だと思うことにした。
目を閉じる。川の音が、遠くに聞こえる気がした。
タイトルだけ現代日本っぽいですが、用意できるものは限られています。テンがコツコツやっていく話、しばらく続きます。




