糞小屋
空になった鍋を洗いながらバル婆が言った。
「レンの体さ。やっぱり、食事だったんだねえ」
しばらく、レンは熱をだしてない。お腹を壊しても以前より早く回復するようになった。一度体調を崩したら二、三日寝込んでいたのが、半日で起き上がれるようになった日もある。
母さんが出稼ぎ先から帰ってきたときには、レンの顔色を見て、熱を出さなくなったという話を聞いて、目じりに透明なものを浮かべていた。
父さんもレンの茶碗が空になるのを見ると、母さんと同じように目を細めてただ静かに頷いていた。
「食事だった、のよ」
テンは鍋の底にこびりついた頑固な汚れに、米のとぎ汁をつけながら磨いていた。力をいれて鍋を磨きながらバル婆にこたえる。
とぎ汁で鍋を拭くと、思ったより汚れが落ちることを発見したのだ。バル婆は、最初は手間が増えると渋い顔をしていたけど、最近は黙って同じようにやっている。
「それから、お前最近糞小屋でなにしてるんだい?」
「掃除。だから気にしなくって大丈夫」
「気にしないったってねえ。大事な畑の肥料なんだからね? 迷惑だけはかけないようにするんだよ」
テンは、はあい、と言ってまた鍋磨きに戻った。
糞小屋。扉はなく、匂いは言葉にできないほど強烈だった。テンは口元に当て布をして匂いが緩和されないかと思ったけど、むしろそれは匂いをこもらせる飾りになっていた。
「ちょっと……テン、何してるの」
吐き気をこらえながら後ろを振り向くと、シウが目を丸くして立っていた。テンが、丁度灰をまいて消臭していたところだった。
「お掃除」
しないよりまし、そう思いながらまた正面に向き直って手を動かす。
「お掃除? なんで?」
「なんでって……汚いから」
「糞小屋って汚いもんじゃないの?」
「そうじゃないほうがいいでしょ?」
シウにはそう返事をする。
――でも、とふと思う。この村には、この村のやり方がずっと昔からあった。糞小屋、洗われない布、締め切った部屋。それを、自分が勝手に、こうしたほうが良くなる、と決めて、書き換えても良いのか。
……いや。
汚いものは汚いし。病気の元は病気。良くできるなら、そうした方がいいはず、テンはそんなことを考えながら体を動かしていた。
次は外から見える隙間を草で隠そうと思うのだ。誰かに見られてる感じをしながら用を足すことほど気になることはない。
シウはしばらくの間テンと小屋を交互に見ていたけど、手伝う、と言って中に入ってこようとした。テンはそれを制止する。
「大丈夫! あともう少しだから、それにあんたが言う通り汚いからさ、来ない方がいいよ」
テンは振り向いて、シウに断りを入れようとして足が絡まる。そして、そのまま糞小屋の中に突っ込んだ。
夕方、やっと体を洗い終えてテンは家に戻った。家に入る前にも爪の先を特に念入りに洗う。
もう思い出したくもない。
糞小屋に落ちた後は、回りにいた通行人から屋台のおじさん、そして主婦のおばさんに至るまでほぼ全員から鼻をつままれて、逃げるように小川の近くまで走った。シウも鼻をつまみながらテンを追いかけた。テンは追いかけてきてくれたシウが心強かったけど、少しだけどこかに行って欲しかった。
小川に体を浸けようと恥ずかしげもなく服を脱いで飛び込もうとしたところを、近所のおばさんにものすごい剣幕で止められた。洗濯に使う水を汚す気か、と。
テンは今すぐに体を洗いたくて、暖かいのに嫌悪感で体が震えていたけどなんとか飛び込むのは我慢した。
テンは、シウに指示して鍋と、モーカンの実を煮出した洗浄液を持ってきてもらった。全身と汚れた服を半刻もかけて丁寧に洗う。汚れたのは膝と手のひら、顔はなんとか死守したけど、どこに何が飛んでいるかわかったものじゃなかったからじっくり時間をかけた。
そして、何事もなかったかのようにただいまを言って家に入る。
運のいいことにバル婆もレンの姿も居間にはなかった。
テンは鍋を火にかけて、今日あった最悪な出来事を頭から消そうとする。
まだ匂う気がして、もう一度確かめようと腕を鍋の縁から離そうとした、その瞬間のことだった。
「……やだ」
お腹の奥が、じり、と疼く。思わず肩がこわばった。鍋の縁を掴んで、息をとめる。違和感はすぐに引いた。一瞬だけ波みたいに来て、消えた。
気のせいかもしれない。そう思うけど、手が鍋の縁を掴んだまま離せない。そのまま微動だにせずその場にただ立っていた。
「……どうしたの?」
レンが驚いたような声を出して、鍋の縁を掴んだままのテンを見る。テンは、その声でまた動き出せた。いつも通りの動作を、ひとつずつ確かめるようにやる。
「おかゆ、今から作るね」
動きながら、お腹に意識を向ける。今は、痛くない。テンはゆっくりと鍋に蓋をした。
「テン……テン!」
バル婆に急に話しかけられた。
「ぼーっとして、どうしたんだい」
「ううん、なんでもないの」
「料理してるときはそれだけに集中しな」
バル婆は何も聞かずに、テンから鍋をひき取った。
「お前、あたしに何か、言わなきゃならないことがあるんじゃないのかい?」
「……なんのこと?」
テンは今しがた起きたお腹の違和感を思って、とっさに体をこわばらせて言った。バル婆がテンの近くに顔を持ってきて鼻をくんとさせる。
「ふ、ん、ご、や」
「ああ! なんのこと?」
今度は何を聞かれたかに確信をもって、すっとぼけられた。バル婆から軽く頭を叩かれる。
「恥ずかしいったらないよ! この子は! 糞小屋にはもう用がある時以外は近づかないこと」
テンは肩をすくめて頷くだけにする。糞小屋の掃除にはもう懲りた。
「テン、これは?」
その日は、シウと森に入った。モーカンの実が残っているか確かめに来たついでに、使えそうな薬草を探す。バル婆にモーカンの洗浄液をたっぷり使ったことがバレたのだ。
シウが差し出した葉を、テンはため息をつきながら手で揉んだ。そのままシウの鼻に近づける。
「匂い、かいでみて」
「……草っぽい」
「わたしは、いい匂いのする葉や花を探して、って言ったよね?」
「最近そればっかり」
あの日、糞小屋に落ちて思った。良い匂いがする草花が洗浄液に入ったらもっと良くなるはずだと。
シウが呆れた顔をして眩しそうに上を見上げた。その日焼けした顔には大粒の汗が光っていた。
「そういえば、この間レンが家に遊びに来たんだけどさ、最近は熱出さなくなったの?」
「そうなの! このまま健康になってくれると良いんだけど」
「やっと丈夫になってきたんだね」
帰り道、シウとおしゃべりしながら歩いていた。
――まただ。
立ち止まって深呼吸する。一回、二回とゆっくり深く息を吸って吐く。違和感がおさまらなくてこぶしを支えに木に寄り掛かる。
おしゃべりが急に止まったことに、シウが気づいた。
「テン? どうしたの」
「……少し、疲れたみたい」
「休む?」
「うん、ありがと」
木の根元に座る。シウはただ隣に座る。何も言わずにテンの隣で近くの草をちぎっては嗅いでいた。
テンも、同じように草をちぎりながら、しばらくするとお腹の内側を誰かに撫でられるような気持ち悪い違和感が徐々に引いていくのが分かった。
「もう大丈夫」
「じゃ、行こっか」
テンは頷いて慎重に立ち上がった。
テンは夜、布団に入ってから今日のお腹の違和感を頭の中でなぞった。いつ来たか。何をしていたとき来たのか。
――記録しておきたい。
そう思った瞬間、体を起こしかけて、止まる。
記録する。つまり、書く。
「……わたし、字が書けない」
当たり前のことに今さら気づいた。
隣でレンが寝息を立てている。この子は字が書ける。レンは家にこもりきりだから字を覚えた。自分は外を走り回っていたから覚えなかった。それだけの話。
困ったこともなかった。村の人間も同じ理由から文字を多く知らないと思う。
でも、今困っていた。
次の日の夜、寝る前の時間にレンに話すことにした。テンは小声で隣のレンに向かって言った。
「あのさ」
「なに?」
バル婆は居間で舟をこいでいた。
「霊門のことなんだけど、覚えてる?」
レンの大きな目が、ぱっと開かれる。
「……薬師様が言ってたやつ?」
「うん」
「もしかして、また痛いの?」
「ううん痛くないの。でも、たまに変な感じがあって。痛いってほどじゃないけど……なにか残しておきたくて。でもわたし、字が書けないから……」
「……ぼくに、書いてほしいってこと?」
「うん。それと、字を覚えたいの」
「テンに覚えられる?」
テンはレンの言葉に頬を膨らませる。頑張るから、と頼み込んだらレンが折れてくれた。
レンが、何かを探して棚をゴソゴソしながら言う。
「バル婆にもお腹が痛くなったこと、話した方がいいと思うよ」
「うん……明日、話すことにする」
「一緒に話す?」
探し当てた紙を渡しながら聞いてくれた。なんとなく読めるようで読めない字が整理されて書かれている。
「これ、おじいさんがくれたの。もう覚えたから、テンにあげる」
うちにおじいさんは居ないけど、レンに文字を教えてくれる人が来てるって、バル婆が言っていたっけ?
基本文字が書かれた紙らしい。
「いてくれると助かる……ありがとうね」
レンは首をぽりぽりかいて頷く。その顔が妙に頼もしかった。




