「おしまいかい」
目を開けた瞬間、腹がなんともなかった。
……あれ。
恐る恐る手を当てる。押してみる。昨日あんなに鋭かった痛みが、どこにもない。跡形もなく、消えている。
「……ほんとに治った」呟いて、もう一度押す。やっぱり痛くない。
なんというか——拍子抜してしまう。だって昨日あれだけ大騒ぎして、あれだけ必死に考えて、薬師様まで呼んで。それが全部、一晩で終わっている。
ぼんやり天井を見上げて、それから思い出す。昨日のこと。白い部屋。前の自分。全部思い出した瞬間の、頭の奥がきしむような感覚。
……ふと確認したくなった。手の甲をつねる。痛い。藁の天井が見える。土の床の匂いがする。
うん。夢じゃないね。
「……よし」声に出してみる。特に意味はないけど。ただ、何か言わないと、このまま布団の中で考えてることが永遠にぐるぐるしそうだった。体を起こすと、節々がこわばっている。これは一日寝ていたせい。
腹が、盛大に鳴った。……そうだ。昨日、何も食べれていない。
朝の支度をしながら、頭の中が忙しかった。
昨日見えたもの——あの白い部屋、並んだベッド、自分の名前が書かれた名札——。夢、と言えば夢だ。でも、夢じゃない。と思う。
どっちでもいい。今は、お腹が減りすぎている。
台所に立って、あるものを確認する。残りの山菜。干し豆。それから昨日のかゆの残り。
——三食分、食べよう。
昨日の分を取り返す。いや、元の世界で食べられなかった分も取り返す。死ぬ間際はほとんど口にできなかった。食べたくても食べられなかった。だから——
「起きたの?」レンの声がして、振り向く。目をこすりながら、こちらを見ている。レンも昨日より顔色がいい。
「うん。腹減ったから」「治ったの?」「うん、すっかり」レンの目が、ぱっと明るくなる。「よかったねえ……!」その素直さに、思わず笑いそうになる。「昨日はありがと。助かった」「……うん」レンは少しだけ俯いて、それからもう一度こちらを見た。「姉さん、昨日変なこと言ってたけど」「変なこと?」「……なんか、ぶつぶつ言ってたよ。治せる、って」
そうだ、聞かれてたんだよね。
「……腹が痛くてぼんやりしちゃってた...かな?」適当に流す。レンはじっとこちらを見ていたけど、それ以上は聞いてこなかった。
昼前に、バル婆が母さんを連れて戻ってきた。
母さんはわたしの顔を見るなり「よかった」と言って、それから「心配したんだよ」と続けた。怒っているわけじゃない。でも、出稼ぎの途中で呼び戻してしまったことが胸に刺さる。「……ごめんなさい。心配かけて」「謝ることじゃないけど」母さんはそう言って、頭を撫でた。「でも、本当にもう大丈夫なんだね」「うん」「ならよかった!」それだけなのに、なぜか涙が出そうになって、慌てて台所に引っ込む。——変なの。自分でそう思う。昨日だって泣かなかったのに。いや、昨日は泣いている余裕がなかっただけか。
夜ご飯は、わたしが作った。山菜がゆの残りに、干した豆を足して、少しだけ塩を加えたもの。地味だけど、昨日から何も食べていないから、何でも美味しい。母さんとバル婆が「上手くできてるね」と言ってくれた。レンは黙って食べていた。その様子を見ながら、ふと思う。
この子、いつもお腹を壊してる。熱も、よく出す。
なんでだろう——と、前なら漠然と思うだけだったことが、今は少し違う角度から見える気がした。
翌日の昼過ぎ、バル婆と二人になった。母さんは出稼ぎ先に戻っていった。休みを前借した分、また次に家に帰ってくるのが先になりそうだ。
畑仕事と家の掃除が一段落して、お湯を沸かして向かい合う。レンは一昨日張り切りすぎたのか、今日は熱を出して寝込んでいた。申し訳ないことをしてしまった。
バル婆はお湯をすすりながら、縫物を膝に広げている。わたしはふーふーと息を吹きかけながら、熱いお湯を少しずつ飲む。
——元の世界では、こういう初夏の午後の厚い時期は冷たいものを飲んでいた。そう思うと、少しだけ遠い気持ちになる。
「テン」バル婆が、縫物から目を上げた。「昨日の腹痛のことだけど」頭が真っ白になる。そういえば、あとで全部聞くからね、と言われていた。なのに昨日の夜から今日の昼まで、別のことばかり考えていて、何も準備していなかった。「……あんなこと、どこで覚えたんだい」
バル婆の目が、まっすぐこちらを向いている。なんて言えばいいのか。なんとなく分かった気がした、は通じない。誰かに教わった、なら誰にと聞かれるだろうし。夢で見た、なら——「……あのね」
そのあとが、出てこない。口を開いて、閉じる。バル婆はお湯をすすりながら、黙って待っている。その静けさが、かえって苦しい。嘘をつきたくない。
そう思った瞬間、口が動いていた。「……夢で、見たんだ」自分で言いながら、頭の隅で冷静な声がする。いったん止まれ。よく考えろ、と。でも、
前の世界のこと。病院の天井のこと。何度も読んだ医学書のこと。原因不明、と言われ続けたこと。自分の体なのに、最後まで分からなかったこと——死んでしまったこと。
話しながら、声が変わっていくのが分かる。かすれて、震えて、うまく言葉にならない。この世界には存在しないはずの単語が混ざる。順番がぐちゃぐちゃになる。それでも止まらない。
バル婆は縫物の手を止めない。ときどき、短く相槌を打つ。その音だけが、続けていいよ、という合図みたいだった。
病気が治らなかった話をしているとき、視界が滲んだ。拭おうとして、でも手が震えて、うまく拭えなかった。声が詰まる。それでも話す。心配させたくない意識が働いてまた腹痛が来るかもしれないこと以外は、全部、話す。
気づいたら、外が暗くなっていた。「……」言葉が尽きて、沈黙が来る。喉が痛い。目が熱い。自分が何を話したか、半分くらいは覚えていない。それでも、まだ伝え足りない気がして、言葉を探して——見つからない。バル婆が、縫物の糸を切った。
「……おしまいかい」
ただ、聞いた。それだけの声だった。「……変だと思わない?」思わず口から出た。バル婆は少しだけ間を置いて、肩をすくめた。「変な夢だね」それだけ言って、立ち上がる。「さて夕飯にするよ。レンを起こしておいで」
……それだけ?数時間、声を震わせながら話して、それだけ?なのに——胸の奥で、張りつめていた何かが、すとん、と落ちた。というより、下ろしていいと言われた感じがした。ずっと抱えていたものを、ようやく床に置けた感じだ。「……そっか」一言だけ返して、立ち上がる。足がふらつく。それでも、さっきよりずいぶん体が軽い気がした。
レンを起こした後すぐに夕飯の支度をしていると、バル婆が隣に来た。鍋をかき混ぜながら、何か考えているような間があって。
「……さっきお前が言ってた」ぽつりと切り出す。「レンの、えーと……キョジャ……なんだったかい」
「虚弱体質改善プログラム、ね」
思わず苦笑が漏れる。ちゃんと聞いてたんだ、この人。
「それ、本当にできるのかい」バル婆の声は、さらりとしているけど、声音はいつになく真剣だ。「夢の話だとしても、試せるものなら試したい」
——ああ。
この人は、最初からそこだったのか。変かどうかより、使えるかどうか。信じるかどうかより、できるかどうか。12年間一緒に暮らしてきた祖母の人となりを改めて分かった気がした。
「……できると思う」答えながら、鍋の中を見る。今日のかゆに入っている根菜を見て、少しだけ考える。「まずは、食事から変えてみるのがいいと思う」
「ほう」
「レンはお腹を壊すことが多いでしょ。硬いものや刺激の強いものは、負担になるかもしれない」
バル婆は黙って聞いている。
「柔らかい葉野菜とか、脂身の少ない鶏肉とかは大丈夫——あと、シンズは」この世界の唐辛子に似た香辛料の名を出すと、バル婆の眉が上がった。「あれはうまい」「うまいんだけど、胃には強いかもしれない。レンに使うのは、しばらくやめてみてほしいんだけど」
バル婆はしばらく黙って、それから棚の奥のシンズを指でつついた。「……まあ、試してみるか」あっさりと言う。
それだけで十分だった。
全部は変えられない。完璧な治療なんて、この世界ではできない。正解かもわからない——でも。
できるところから、始めればいい。
あの世界でも、そうだったはずだ。
「テン」バル婆が、また口を開く。「夢の話だけど」少し間があって。「お前が泣いてたのは、夢じゃなかったんだよ」
それだけ言って、レンの様子を確かめに行った。
わたしはしばらく、その背中を見ていた。




