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雨の中の真実

 


 小川のほとりに立っているのは二人。


 一方は頭から靴まで濡れていて、もう一方は土砂降りなのに雨をはじいたように乾いていた。土砂降りの中、歩いているものは他に誰もいない。


 契約の中身を誰にも聞かれないように、と薬師様が指定した場所だった。






 わたしは小川まで歩きながら、何度も唾を飲み込んだ。さっき飲み込んだ虫の足が、のどに引っかかっている気がする。短い距離なのに、小川に着くころには下着まで雨が染みていた。背中に、布が冷たく張りつく。






 わたしが契約に頷いた時、薬師様は一瞬、口をあんぐりと開いた。それからすぐに、何度も死ぬ危険があることを繰り返し言ってきた。でも、聞くと決めたからには、変えるつもりはない。繰り返される問答の中で、父さんが、意見を翻すのか、と聞くと、薬師様はすぐに黙って、しぶしぶ虫での契約の結び方を伝えてきた。


 父さんは最初、自分も一緒に話を聞くと言って聞かなかった。けれどバル婆と母さんが止めて、やっと諦めてくれた。わたしは少しだけ安心した。これで心置きなく薬師様に質問ができる。扉を閉めるとき、テンがもしどうにかなったら、貴様も道連れにしてやる、という父さんの声が聞こえた。


 その声を後ろにうけた薬師様は、無表情というより、必死に無表情を作っているように見えた。






 薬師様は乾いた衣の袖を軽く払ってわたしに言った。わたしにはほこりなんて見えなかった。


「何を聞きたい」


「わたしがもし、中央の決定を拒否したらどうなるのかを教えてください」


 さっきと同じことを繰り返した。最大限の譲歩、と言っていた。でもこれは、譲歩の形をした支配。リスクを負うのは、こちらだ。


 それでも、頭の中で質問を組み立てて順番を決めていく。雨に滲んだリストの文字は、すでにしっかりとは読めなくなっていた。


「恐らく、命はないだろうな」


 命はない。思っていた通りの答えに深く息を吸い込んだ。水滴が鼻から喉に入って来たけどそのまま飲み下す。


「待て」


 紙の滲んだ文字を読み取ろうと必死になっていると、薬師様に止められた。


「わたしも聞きたいことがある」


 顔を少し上に向けて薬師様を見ると、雨粒が瞳の中に絶えず入って来た。


「田舎の小娘がなぜ虫垂なんて言葉を知っている」


「夢で、知りました」


 聞かれる、と思って答えを用意していた。


「医療の知識や、辟穢焦露の作り方も、夢で得たというのか」


「そうです」


「都合のいい夢もあるものだ。嘘を言っていた時が楽しみだな?」


 薬師様の口元がわずかに動いた。嘘は、言わない。契蟲の縛り、わたしの答えの何が死につながるか分からないから、それだけ注意する。


「熱病の治療法も夢で見たというのか」


「……はい。わたしが、中央の監視下に置かれる期間は決まっていますか」


 次の質問が来る前に聞きたいことを聞く。


「命の灯が消えるときまでだ」


「家族と連絡はとれますか」


「中央がお前を管理する瞬間から家族ではなくなる」


 わたしの問いに対する答えにはなっていない。でも、おそらく今のが答え。


「……熱病は、治まったって聞きました」


「ああ」


「わたしの、薬をもとにしてみんなを治したって」


 薬師様は答えない。動きもしなかった。


 お礼を、言うべきなんだろう。たくさんの人が助かった。ハンさんも。その他の人も。でも、その前に、どうしても聞いておきたかった。


 喉が硬くなるのが自分で分かる。ずっと言いたかったのに今まで言えなかったこと。あんなにたくさんの人が苦しむ前に。言えばよかった言葉。シウが死ぬ前に言わなければならなかった言葉。


「――あなたなら、最初から止められたはずですよね」


 声は、震えないように、と思うほど震える。雨は全く止む気配を見せなかった。滝のように流れ込む水滴で、睫毛が瞳に重なる。言った後、薬師様の乾いた衣に雨粒がしみ込んだように見えた。


「わたしには、何もできませんでした。……間に合わなかった。でも、あなたなら助けられたはずですよね」


 薬師様が、揺れる。


「……仕方が、なかった」


 わたしは顔を歪めて、薬師様を睨む。


「仕方がなかったって」


 ずっと聞きたかった。霊門をはじめて診てもらった時から、あなたは様子見という言葉を口癖のように使っていた。何度も、何度も。


「あなたは……すごい薬師様でしょう?」


 あなたの薬を飲んだ瞬間にシウの呼吸は楽になった。村のみんなを今更助けたなら、どうして最初から動いてくれなかったのか。


 薬師様は口を開いて、絞り出すように言った。


「……お前のせいでは、ない」


 わたしは、薬師様を見た。そんな、言葉を聞きたかったんじゃない。そう思って睨んでいたら薬師様が先を続けた。


「……こんなに、広がるとは思わなかった」


 このひとは一体、何の話をしているんだろう。


「広がるとは思わなかったって、なに」


 薬師様が固まった。おびえたように、わたしの顔を見る。


「今、何を聞いた?」


「わたしは、熱病を、どうしてもっと早く治してくれなかったのか聞いたの。もっと早く動いてくれてたら、シウは」


 薬師様の顔が、白くなっていく。先ほど、わたしの質問の紙を見た時よりも、ずっと。雨に濡れていないその額に水滴が浮いていく。


 ――こんなに広がるとは、思わなかった。


 その言葉が、ゆっくりと体に沈んでいく。広がる。広がるとは、思っていなかった?


 熱病が始まったのは、いつだった。


 二回目の、診察。あの、直後だったのではなかったか。最初にシウが熱を出して。それからレンと、わたしと、ロン。気づいた時には、村のみんなが咳をして、熱を出していた。


 おかしいと思っていた。


 この村で、薬師様と慕われている人。その人が、なぜ、あんなに長く様子を見ていたのか。重症の人が出ても、すぐに動かなかったのはなぜか。


 目の前の老人に焦点を合わせようとするのに、視界がうまく定まらなかった。


「あなた」


 体が、ひどく冷たい。


「あなたが、熱病を広げた?」


 出た声は、自分のものじゃないみたいだった。薬師様は、答えない。おびえたように、自分の首のしわを指でつまんでいる。


 否定もしない。肯定もしない。ただ、わたしを見ている。


 その指の動きを見て、頭が芯から冷えていく。怒っているのか、怖いのか、雨が降っているせいなのか、自分でも分からない。


「答えなさい」


 声が震えた。薬師様の口が、開きかけた。何か言おうとして——でも、言わない。


「熱病は——あなたが、広げたの?」


 時間が、止まったようだった。止まない雨の音だけが、世界がまだ動いていることを教えている。薬師様の指から、力が抜けるのが見えた。


「そうだ」


 なぜ、と言う声が、喉に張りついた。病気の研究のため?それとも、わたしに新しい薬を作らせるため?


「答えて!」


 薬師様は、すぐには答えなかった。白い髭に手を伸ばしかけて、やめる。その手が行き場をなくしてこぶしになる。耳を澄まさなければ聞こえないような声で言った。


「おまえみたいな子どもは、いてはいけない」


「……なに?」


「ずっと前から、決まっているんだ。見つけたら、消す。わたしが決めたんじゃない……それは、昔からずっと行われていることだ」


「どういう、こと」


「ただの村の子どもが、魔力を持っていて、死者蘇生の法なんて……できると思うか?」


 薬師様はわたしに聞いた。今まで無表情だった仮面のような顔は歪んでいた。


「わたしは、魔力なんて――」


「ある」


 薬師様の声が、裏返る。


「あの娘の上で……両手が、光っていた。みんな、見ている。お前は、死んだ人間を、戻そうとした」


 シウの胸を押した時、燃えるみたいに熱かった両手。——今、その両手は包帯にくるまれている。


「……でも!」


「違うと、言えるのか?」


 続ける声が、掠れる。それなら、


「……わたしだけを殺せばよかったじゃない」


 薬師様が、目を伏せた。蚊の鳴くような声でわたしに言った。


「自然な死に、見せかける必要があった。医術に聡いお前に、気づかれることはできなかった」


 わたしなら。一人だけ病で倒れたら、おかしいと、気づいただろうか?


「だから、流行り病に紛れさせた。村ごと巻き込んで、その中の、一人として……お前が、死ぬはずだった」


 薬師様が、言葉を切った。そんな顔をした人を、わたしは見たことがなかった。


「なのに……お前は、死ななかった」


 薬師様が、わたしを見る。その目がなにを言いたいのか、わたしには分からなかった。握ったこぶしが、震えている。


「弟が倒れた。隣の娘も、その隣も。なのに――お前だけが、死ななかった」


 わたしだけじゃない、と言いかけて口が動かなくなる。


 頭のどこかが、冷静に思考を並べていく。並べたくないのに、止まらなかった。


 雨の音が、遠くなる。自分の心臓の音が、耳のすぐ近くで鳴っているような気がした。その音に、だんだん、さーっという音が混ざる。砂嵐みたいに、頭の中を、白く塗りつぶしていく。


 全部――わたしのせいじゃないか。






 わたしが、シウを、死に追いやった?


 シウが死んだのも。レンが、あんなに苦しんだのも。ハンさんが、死にかけたのも。亡くなったお爺さんや、赤ん坊も。わたしがいなければ――全部。


 同じ言葉だけが、頭の中を回っている。薬師様の口が動いている。でも、音は、届いてこない。


 わたしのせいで。


 シウは。






 腕を掴まれて、やっと、自分が家に帰ろうとしていたことに気づいた。


「それで……答えは」


 全部を聞いた。答えなんて、浮かばなかった。それでも、口が動いた。


「――行きます」


 なぜそう言ったのか、自分でも、分からなかった。答えを聞いて薬師様は、また無表情に戻って言った。


「三日か四日後、馬車を寄越す。それまで準備をしておけ。……それから、今日のことは、すべて契約で縛られている。忘れるな」


 最後まで、一言も答えなかった。そのまま、うちに向かった。


 父さんが、わたしと薬師様が離れたのを見て、すぐに駆け寄ってくる。抱きかかえられて、家に連れて帰られた。バル婆に布で体を拭かれて、着替えさせられて、包帯を変えられる。両手は、寒さからか傷からか、紫と黄色に変色していた。


 傷を見ている時に、自分の歯がガチガチと鳴っているのに気づいた。歯の根が合わないほど、震えている。


 火鉢の前に連れられて、熱い湯呑を持たされる。手が揺れて、湯がこぼれ、巻き直した包帯をまた濡らした。それでも、震えはおさまらない。寒さからなのか、恐怖からなのか、分からなかった。


 わたしのせいで、シウが、死んだ。


 それだけが、はっきりしていた。



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